第20話 Stronger than You

 デジタルワールドは今日も曇天だ。暗く、息苦しい。



 ダルクモンのヴェロニカとそのパートナー、聖次は廃墟と荒野の狭間にある場所に立ち尽くしていた。
 家屋や柵に使われていたであろう木片が焦げて散らばっている。風化しかけたそれらは「ここに生き物の住み処があった」事を来訪者に伝える役割を果たしていた。
 
「ここが『彼』の故郷、なのね……」
 
 それは過去の過ち。魔を絶つ確固たる意志が産み出した悲劇。
 ヴェロニカと聖次がここを訪れたのは、彼女らの味方である天使軍が正義の名の下に何を行ったのかをその目に刻むため。魔王軍とは何ら関係の無い、ウィルス種の幼いデジモン達を襲った悲劇を忘れないため。
 
「デジタルワールドにはこんなふうに滅ぼされた集落がまだまだ沢山あるんだろ? 参っちゃうよなほんと……」
 
 デジタルワールド各地には七大魔王が住む世界『ダークエリア』に繋がる穴が存在する。また、その周辺では何らかの要因でダークエリアから迷い出た幼いデジモン達が集まって村を作っている事もある。
 正義感に駆られた天使軍のデジモンは悪魔の『芽』さえ摘もうとし、こういった集落をいくつも滅ぼしてきた。この廃墟はその中の一つでしかない。しかし、そこに住んでいた者にとってはかけがえのない大切な故郷だ。
 
「……本当に、何も無いんだな」
 
「ええ。でも、ここに来られて良かった」
 
 何もこうした悲劇は天使軍によるものだけではない。「罪の無い命を奪った」数なら魔王軍の方が圧倒的に多い。そもそも、このデジタルワールドにおいて命の奪い合いは罪とさえ言えないのかもしれない。
 どちらが悪いという訳でもない。それでも、ヴェロニカは「罪」としてこれを受け止めるためにここに来た。
 
「これで彼の事、少しは分かるかしら……聖次伏せて!」
 
「え、何ヴェロニカさんうぉおおおおお!?」
 
 聖次の頭上すれすれをヴェロニカの剣が掠めた。硬いもの同士がぶつかったかのような音を立て、剣が何かを弾く。
 不意討ちには気付けなかったが、長く黒い腕が短くなっていくのは聖次の目にも確認できた。
 
「ここで張ってりゃ残党が様子を見に来るだろうと思ってたけどよ、当たりも当たり、大当たりだぜ」
 
 漆黒の肉体に浮かぶ悪のマーク、伸びる腕に大きな翼。デビモンと呼ばれている種だ。そしてこの個体を二人は知っていた。
 
「シグルズ……」
 
「天使の分際で気安くオレを呼ぶんじゃねえ!」
 
 再び漆黒の爪が舞う。ヴェロニカがそれを剣で受けた時、彼女は明確な殺意を向けられているのを感じ取った。
 
「シグルズがいるって事は……いるんだろ! 剣崎勇夜!」
 
 応戦するヴェロニカの数歩後から聖次が呼び掛けた。
 
「隠れてるつもりは少しもなかったがな」
 
 やはりシグルズの背後に控えていたのは、シグルズのパートナーである剣崎勇夜だった。竹刀を背負い、目深に被ったニット帽の下から目を覗かせる姿は中々の威圧感がある。
 
「なんだってこんな所に……いや、シグルズが来てるのは当たり前っちゃ当たり前か。で、なんでお前さんはここに来てる訳?」
 
「パートナーデジモンが『ここに来たい』って言ったんだ。一緒に来て何が悪い。で、てめえらは何の用なんだ。この場所とは何の関わりも無いだろ」
 
 聖次は肩をすくめて両手のひらを上に向け、首を左右に振る仕草をしてみせた。
 
「ナンセンスな質問だな。当然お前ら絡みに決まってるだろ? 簡単に言えばお前らを『説得』するその一歩……ってとこかな?」
 
 勇夜の目の前に黄金色の羽が一枚落ちた。見上げると、天使と悪魔の戦いは上空へと場を移していた。


「ここを見張ってたって事は、まさか貴方、ここに来た天使デジモン全てに勝負を仕掛けるつもりなの!?」

 シグルズの猛攻を躱し、時には受け止めながらヴェロニカは問いただす。

「やめなさい! 貴方がやろうとしてる事は復讐じゃない、ただの無差別な殺戮行為よ!」

 ヴェロニカは自分から攻撃を仕掛ける事はせず、防御と必要最低限の反撃を繰り返していた。それがシグルズの癇に障ったらしく、彼の攻撃はより一層勢いを増していく。

「このままだと貴方は貴方の仇よりも大きな罪を背負う事になる!」

「どの口が言いやがる!俺から仲間かぞくを奪った事より重い罪なんかあるかよ!」

「仇討ちを否定する気はさらさら無い。けど、貴方は確実に間違った方向に進んでるわ!」

「そいつぁいいや! 天使どもにとって都合が悪い道は俺にとっての正しい道だからな!」

 シグルズが歓喜の声を上げると同時に、必殺のデスクロウがヴェロニカ目掛けて弾頭の如き速さで放たれた。ヴェロニカは剣と杖を十字に重ね辛くも受け止めるが、衝撃に耐えられず大きく後方に推し出されてしまう。

 一方、地上では説得とは名ばかりの人間同士の舌戦が繰り広げられていた。

「俺はヴェロニカの言う事はド正論だと思うぜ? そりゃシグルズにとっちゃただの綺麗事かもしんねーけど。でも、少なくとも一歩引いたとこから見てるお前には少しは響いてくれてもいいんじゃ、いや、響かなきゃなんねー事じゃねーの?」

「ああ、俺もそう思う」

 何らかの反論が来るとばかり思っていたために、肩透かしを食らった聖次はつい苦笑する。

「じゃあパートナーを止めてやらなきゃとか、思わねーワケ? それともアレか? 『そんな事してやる義理はねー』ってやつ?」

 聖次はそう言ったものの、勇夜自身が『パートナーと一緒で何が悪い』と発言していたのを思い出し認識を改めた。そしてそんな彼が何故パートナーの非道を見過ごしているのか、真意を見極めるべく注視する。

「義理があろうと無かろうと、あいつがやりたい事へブレずに・・・・向かっていく限り俺はあいつに付き合ってやる。そう決めた」

 勇夜の目付きは悪いが芯の強さを表すようにブレない瞳。それは聖次を逆に問い詰めているとさえ思えるような圧を放っている。

(チィッ! そいつもこいつも倫理観ガバガバかよ!)

 聖次は歯噛みする。
 勇夜自身の倫理観には期待できない。ならば彼が倫理観よりも優先する人情に訴えかける。聖次は次なる一手を打って出た。

「パートナーの意志を酌んでやるのも大事な事だけどよ、そいつがやりたい事は何でもかんでも全肯定」ってそれ、そいつのためになんねーんじゃねえの? パートナーのために他の大事な人間……例えばタツキとかを裏切って良いワケ?」

 刹那、静かに説得を拒んでいた勇夜の纏う雰囲気が一変、攻撃的な態度を露わにした。

「武者小路を手前テメーの話のダシに使うんじゃねえ!」

 年下とは思えないほどの圧に怯んだ聖次は用意していた言葉を全て飲み込んでしまった。

(あー、地雷踏んじまったか)

 聖次は再び苦笑する。そこには先程は無かった自嘲の意味が込められていた。



「なんで、なんでお前なんかがオレの、オレの大切な場所にいるんだ!」
 
 シグルズの瞳が紅く怪しく光った。この輝きは他者から身体の支配権を強奪する。しかし、シグルズがヴェロニカの身体を操れるようになるよりも、彼女が彼女自身の腕を動かす方がほんの僅かに早かった。
 
「んぐっ!」
 
 技の隙を突かれたシグルズは剣撃自体は弾いたものの、集中力を乱され技を解いてしまった。
 
「貴方の思い出を汚そうだなんて思ってないわ。ただ、貴方の事を知りたかっただけよ!」
 
 ヴェロニカの話の途中であろうと構う事なく次の一撃、いや、二撃が飛んでくる。
 自分目掛けて襲いかかってくる二本の腕を、ヴェロニカはそれぞれ剣と杖で受け止めた。

「おまっ、お前、お前、お前に分かる筈がっ」

「私だって貴方の事を全て理解出来るだなんて思ってないわ。でも」

「理解出来るだなんて思ってない」、その言葉が聞こえたと同時にシグルズの動きは不自然なほどにピタリと止まった。

「そうだよな……分かる筈ねえよな……」

 シグルズは自身の黒い翼とヴェロニカの黄金の翼を見比べる。

「“はじまりの町”とかいう場所でぬくぬく育てられて、今では世界を救う勇者サマだなんてちやほやされてる奴に分かる訳ねえよな……」

 手を握って瞳に映った像を握り潰す。

「生まれた世界から放り出されて、誰からも守られる事無く幼年期だけで支え合って生きてきて」

 そうだ。俺は不幸だった。お前なんかより不幸だった。……そうか、俺って不幸だったんだ。
 美しい思い出が苦悶の過去に塗り替えられていく。掛けた呪いは自らを蝕んでいく。
 悪魔は自傷の痛みをぶつける先を欲しがった。

「それなのに、少しも助けてくれなかった奴らに、少しも助けてくれなかった魔王どもの味方扱いされて殺された俺達の事なんか理解出来る筈がねえよなっ!!」

 ――それでも、大切なものだったんだ。
 シグルズの激昂を合図に戦いの火蓋が再び切って落とされた。
 デビモンの伸縮自在の腕はヴェロニカの翼を狙う。だがそれを甘んじて受ける彼女ではない。鍛えたスピードで腕と腕の間に滑り込む事でそれを躱し、更に無防備になったシグルズの鳩尾を杖の先で突いた。

「ごええっ!?」

 嘔吐にも似た悲鳴を上げながらシグルズは落下していく。何とか着地に成功するも、跪き激しく咳き込んだ。

「そうよ! 私は貴方の事なんて分からないわ! 例え同じデジタマから産まれたって、互いの事を完全に理解するなんて出来っこないもの! でも一つだけ分かったわ。誰かがあんたを止めなきゃどんどん酷い有様になる! 取り返しのつかない事になる! 話し合いに応じる気が無いなら力づくでもあんたを止めるわよ!」

「……もう、ただの肝っ玉母ちゃんじゃねえか」

 鼻息荒く意気込むヴェロニカへ聖次が冷静かつ軽率に茶々を入れた。

「うるさい!」

 ヴェロニカは聖次を一瞥すると、受け身の姿勢から一転、今度は自らシグルズに向かって突進していく。

「はあああああ!」

「ぐっ!」

 攻撃を止めさせるための軽い一撃ではなく、敵を本気で倒すための一撃がシグルズを襲う。
 ダルクモンのデータに刻まれた剣技の名は『バテーム・デ・アムール』。愛の洗礼である。ただしその愛は聖処女ラ・ピュセルからの無償の愛ではなく、母性にも似た我欲混じりの等身大の愛だ。避ける暇も腕を伸縮させる隙も与えず上下左右あらゆる方向から連続で斬りつける。
 滑らかでいて苛烈な太刀筋を前にしてシグルズは防戦一方であった。爪による防御が間に合わなかった箇所に赤い筋が刻まれ始めた。シグルズは以前ヴェロニカに敗れている。故にシグルズは激しい焦燥感を抱いた。

「良い気になるなよ下っ端天使!」

 焦りは時として突飛な行動のリミッターを麻痺させる。そしてそれはこの時に限ってはプラスに働いた。

「嘘!?」

 ヴェロニカの件を振る腕が止まった。否、止められた。いくら力を込めようと刀身が動く事はない。そこを伝う鮮血の量が増えるのみである。何故なら悪魔がその刀身を右手で鷲掴みにし、強く掴んで離さないからだ。

「くっ……、離しなさい!」

 フィジカルの差か想いの差か、シグルズの握力はヴェロニカの腕力を凌駕していた。血で切れ味が鈍ったためか、筋繊維を断ち切りながら引き抜く事も叶わない。
 その時、ヴェロニカは自身の心臓デジコアに危機が迫っている事を本能的に感じ取った。聡い彼女は剣をあっさりと手放し瞬時に横方向へ回避する。
 彼女が元いた場所に視線を向けると、ちょうど彼女の心臓があった場所を貫くようにシグルズの左手が伸びていた。

「おうおう、剣無しで大丈夫か?」

 仕切り直すべく再び距離を取ったヴェロニカに、聖次が声を掛けて来た。いつもの軽薄な口調の中に不安げな声色が混ざっている。
 ヴェロニカの額から仮面の下を伝い、汗の雫が滴り落ちた。彼女の視線は相も変わらずシグルズに向けられている。

「流石に厳しいわね」

 シグルズは未だ手の中にあった剣の腹を膝に乗せ、両端を押し下げてばっきりと折ってみせた。更に真っ二つになった刀身をこれ見よがしに投げ捨てる。

「これはもうあれだな。進化だ」

「ちょっと、なんで嬉しそうなのよ」

 深刻な状況下でありながら喜々としてデジヴァイスを取り出した聖次をヴェロニカが冷ややかにたしなめる。

「だって俺、完全体初進化の時寝てたし? トラウマモードだったし?」

 あっけらかんとして言う聖次の緊張感の無さにヴェロニカは呆れ、溜め息をついた。しかし、彼の案を否定する事はしなかった。
 
「お願い聖次。力を貸してちょうだい。あの二人を止めたいの」
 
「OK、マイパートナー。暴走野郎共にキツいお灸を据えてやろうぜ」

 支給されたデジヴァイスの数少ない機能の内、最も重要な『パートナー同士のパスを繋げる』機能、そして『人工的な進化を開始させる』機能が同時に稼働する。
 聖次とヴェロニカの「悲しみのあまり非道に堕ちかけたシグルズを助けたい」という感情が共鳴し、ヴェロニカのエネルギーへと変換されていく。蓄積されたエネルギーは臨界点を突破。ヴェロニカの肉体に変化を促した。
 黄金の鎧は純白の聖衣へと変化し、杖は手袋と同化し弓へと形を変える。ヴェロニカは成熟期・ダルクモンから完全体・エンジェウーモンへと進化を果たした。

「見ての通り、私は完全体になれる。成熟期の時点で既に押されていた貴方に勝ち目は無いわ」

 これはヴェロニカからの最後の通告であり、慈悲である。
 しかし、それはシグルズに届く事はない。
 彼はもはやヴェロニカという個など眼中に無いからだ。
 彼の瞳に映るものはヴェロニカが纏う肉、ワイヤーフレームの上に貼り付けられたテクスチャ、それに結びつけられた凄惨な血の記憶だけだった。

 殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ……。
 
「勇夜ぁ! 進化だ!」

 聖次とヴェロニカは驚愕する。しかし、シグルズ自身も焦る様子から「シグルズは今ここで初の完全体への進化を果たそうとしている」と察する事が出来た。
 
「……本当に良いんだな」
 
「何がだよ!」

 シグルズは勇夜が躊躇しているものと考え、その苛立ちを本人にぶつけた。早く力を寄越せと言いたげにヴェロニカと勇夜を交互に見る。
 
「あいつを殺したらお前、もう戻れねえぞ」
 
「戻る場所なんてねえよ」

 シグルズは自身の未練を断ち切るようにきっぱりと言い放った。
 
「ああ、そうだな」
 
 勇夜は携帯電話を取り出し、聖次と同様にデジヴァイスとしての機能を起動させる。
 
「いいぜ。付き合ってやるよ」

 俺はお前らを連れ戻す気なんかこれっぽっちも無い。
 
「俺も地雷踏まれてイライラしてたところだ」

 でも奴には置いてかれちまった。だからせめて、お前にだけはついてってやるよ。
 
 携帯デジヴァイスからは勇夜の静かな揺るがぬ決意を表す群青色の輝きが溢れ出す。
 シグルズの目と口からは彼の血の記憶と憎しみがそのまま漏れ出たかのような、血のように赤黒い液体が溢れ出る。そしてその液体はシグルズの全体を包み込んだ。
 テクスチャが溶け、ワイヤーフレームが組み替えられていく。書き換えられたデジコアに刻まれた情報、それは天の遣いと対を成す不死者の長を構成するためのもの。殺意はウィルスのように脳を侵し、彼を血を求める羅刹へ変えた。
 青い軍服に身を包み、紅く妖しいマスクで顔を隠し、マントをなびかせるその吸血鬼の名はヴァンデモン。

「……あいつもトラウマで進化しやがった」

「それだけ負の感情が私達デジモンに与える影響は大きいって事よ」

 聖次は固唾を飲み、ヴェロニカは吸血鬼に向かって矢をつがえる。
 一方、彼らと対峙するシグルズは新たな肉体の感触を確かめているかのように、手を握っては開くのを繰り返していた。そしておもむろに右手を正面にかざし、それを斜め下に向けて振り下ろした。

「キィキィ」

「キキィ」

 どこからともなく蝙蝠に似た生物が現れ、シグルズの周囲を飛び回り始めた。飛行を続ける個体もいればシグルズの肩に留まる個体もおり、中にはかつてのシグルズのように勇夜の竹刀にぶら下がろうとする個体も見られる。彼らは意志を持ち好き勝手に動いているようだ。

「なんか出た」

「お前が出したんだろ」

 勇夜はシグルズに指摘しつつ担いだ竹刀を揺する。そこに留まっていた蝙蝠はしぶとくぶら下がっていたが、やがて諦めシグルズの下へ飛び去って行った。

「来るわよ聖次」

 シグルズの使い魔である蝙蝠達が、彼の周囲を取り囲んでいく。

「おいおい、嫌な予感しかしねえんだけど」

 シグルズと使い魔が纏う只ならぬ気配とヴェロニカの翼が持ち上がっていく様子から、聖次にも「警戒すべき技が発動する」事は容易に予測できた。
 そしてそれは、聖次に身構える暇も与えず発動する。

「行け」
 
 シグルズの合図に合わせ、牙を剥いた蝙蝠達がヴェロニカ目掛けて一斉に飛び立った。
 
「これ明らかに俺狙われてますよね?」
 
 数十匹にも及ぶ蝙蝠の大群に襲われるというのは聖次にとって初めての体験だった。そしてそれは聖次に深い恐怖を与えた。
 
「セイントエアー!」

 構えた弓矢はそのままに、持ち上げた翼を勢いよく振り下ろす。するとヴェロニカの聖なる気が混ざった風が巻き起こり、蝙蝠達の侵攻を阻んだ。何匹かは聖なる気に耐えられず消滅していく。ヴェロニカはそこで止まらない。極限まで引き絞った弦を手放し、吸血鬼に向かって聖なる矢を射出した。
 蝙蝠の波を縫って飛来した鏃がシグルズに肉薄する。シグルズはそれをビシィ、と破裂音にも似た打撃音を響かせはたき落した。彼は赤い稲妻を思わせる光で鞭を生成し、『ブラッディストリーム』と呼ばれるそれで矢を防ぐと同時にヴェロニカへ攻撃を仕掛けていたのだ。

「くぅ!」

 翼が盾の代わりとなり本体への直撃を防いだが、それでもヴェロニカの口からは苦悶の声が漏れた。
 間髪入れずに次の鞭が飛ぶ。予備動作が必要な弓と攻撃自体が速い鞭とではその差は一目瞭然。弓の使い手は反撃を許されぬまま一方的に攻撃を受け続ける。
 しかし、これは鞭の間合いの中での話。鞭もある程度遠くへの攻撃が可能とは言え、射程距離は飛び道具である弓の方が圧倒的に上だ。距離を保ち続けられれば弓使いは安全圏にいたままで勝利できる。ブラッディストリームは使い手であるヴァンデモンの意志で伸縮が可能だが、長ければ長くなるほどコントロールが甘くなりがちだ。そのため飛び道具の優位を崩せない。勝敗の行方はシグルズが間合いを詰められるか否かに懸かっている。



 生死を賭けた駆け引きが行われている一方で、聖次はただひたすらに逃げ惑っていた。

「はーっ、はーっ、……くそっ、当然俺を狙ってくるよな……!」

 セイントエアーで防がれたナイトレイドの生き残り、その標的は聖次に変更されていた。「デジモンを殺したいならパートナーを狙えばいい」というベルゼブモンの考えはシグルズにも受け継がれ、彼は自立稼働する使い魔にその役割を担わせたのだ。

「ちくしょー! ヴェロニカー! 早く勝ってくれー!」

 遮蔽物は天使型デジモンの凶行により軒並み破壊されているため、隠れてやり過ごす事は出来ない。その代わりに武器になりそうな瓦礫が散らばっているが、聖次は愛一好のようなイレギュラーではないため当然直接戦闘の経験は無い。聖次は下手に立ち向かうよりも逃げ続けた方が生存率が上がると判断した。
 いずれは体力の限界がやって来る上に、その訪れは聖次のスポーツが得意な仲間達に比べれば断然早い。幸いにも今は曇天とは言え昼だ。ヴァンデモンの特性上、ナイトレイドのコンディションも万全とは言えない。そのため聖次でもギリギリではあるが逃げ続ける事が出来た。
 聖次はヴェロニカの勝利と自身の体力を信じ、ただひたすらに走り続けた。



 ヴェロニカが額から桃色の光線を発射した。“邪な心の持ち主”への牽制として放たれたそれは十分な威力を発揮した。袖に僅かに掠っただけでも確かな痛みが走る。まともに食らえばその瞬間に決着がつくだろう。故にシグルズはヴェロニカに近付けず、せいぜい鞭を伸ばしてコントロールの甘い一撃を食らわせるのが精一杯だった。
 
「シグ……、シグ……」

 シグルズを呼ぶ声がするが、集中している彼の耳には届かない。声の主は業を煮やした。
 
「おいシグゥ!!」

  張りつめた空気をビリビリと震わす絶叫は、戦いに酔うシグルズの目を無理矢理覚ます。
 
「んだよ勇夜……」
 
 シグルズは攻撃を中断し、渋々勇夜に近寄っていく。
 
「おいシグ、聴け」

 勇夜はシグルズのマントを引っ張り、彼の耳を引き寄せる。シグルズは顔をしかめながらも大人しく耳を貸した。

「いいか、今から俺の言う通りに動け」

 シグルズの耳元で囁かれたのはある一つの提案だった。

「一体、何をするつもりなの?」

 ヴェロニカは二人の密談の内容を知る事は叶わなかったが、それは逆に彼女の警戒心を強めた。
 ちなみにこの間、ヴェロニカはシグルズから目を離す訳にはいかなかったため聖次は逃げっ放しである。

「よし、行ってこい」

 勇夜がシグルズの背中を押した。シグルズはそれを受けて臨戦態勢に入る。その両手からは再び赤い鞭が作り出されるが、先程までのそれとは様子が違うとヴェロニカは感じた。

(……短い?)

 ヴェロニカが訝しんだ瞬間、剣状・・のブラッディストリームがヴェロニカの隙を捕らえた。

「ッ!!」

 手袋に包まれた腕を盾代わりにして急所への直撃を防いだものの、シグルズは既に次の攻撃を開始していた。ヴェロニカのうめき声と共に白い羽根が舞う。
 ヴェロニカは痛みに耐えながらヘヴンズチャームを発射する。それに対抗してシグルズは剣を盾とするように眼前にかかげた。シグルズの腕は振るえ、体は反動でじりじりと後退していくが、長さを犠牲に硬度を得た剣によって光線は完全に弾かれてしまった。

(なるほど、勇夜君の入れ知恵ね)

 シグルズは剣を両手で持ち、切っ先を前方に真っ直ぐ向けている。それは正しく剣道の構えだ。そしてヴェロニカは勇夜が剣道を修めている事を知っている。そこからヴェロニカはある一つの可能性を見出した。

(まさか、勇夜君の特殊能力と関係が?)

 自身のパートナー、聖次も一般の人間には無い能力を持っていたからこそ天使対魔王の戦争に参加したのだ。勇夜も同様に何らかの能力を持っていてもおかしくはない。そしてその力が「人間の記憶や経験をデジモンに投影・譲渡コピー ペースト出来る」ものでも何らおかしくはない。

(「ヴァンデモンが剣を使う」事で私の不意を突きたかった……って所かしら)

 成程。確かに虚を突く事が出来れば勝率は上がるだろう。そしてその戦術は種族ごとの戦い方が決まっているデジモン相手には特に有効だろう。実際にヴェロニカの仲間――村正とタツキ――はそれをやってのけた。
 だがシグルズのそれは所詮、付け焼き刃だ。



 人間は不思議なもので、必死になればある程度の事は何とかなってしまうものである。

(ヴェロニカさん何やってんだよおおおおお!!)

 聖次は俗にいう「火事場の馬鹿力」を発揮し、彼自身も驚くほど長い間走り続けていた。このまま逃げ切れるのではないか。聖次はそう思った。しかし、聖次の体力は持っても手の中にある物が耐えられなかった。

「あっ!」

 手から何かが滑り落ちるのを感じ、慌てて振り返る。弱まりつつあった握力と酷い手汗に負け、愛用のヘッドホンは落としてもこれだけは手放さなかったデジヴァイスを遂に落としてしまったのだ。

「ヤバいヤバいヤバいヤバい」

 自分の命を取るかデジヴァイスを取るか。聖次が迷っている内に、目ざといナイトレイド達は一斉にデジヴァイスへ群がった。

「げげっ! おいやめろマジでやめろ!」

 聖次は地面に散らばる瓦礫を手に取り、蝙蝠目掛けて投げつける。しかし、それは狙いが外れる、或いは躱されるなどして命中する事はなかった。
 やがて必要最低限の機能しかない脆いデジヴァイスは、聖次の抵抗も虚しく蝙蝠の牙に噛み砕かれてしまった。

「あー! あー、あー……」

 無残な姿のデジヴァイスを見た聖次は絶望に打ちひしがれ、膝から崩れ落ちる。パートナーへ懺悔する聖次の首元に、非情にも無数の蝙蝠達が忍び寄っていく。



 ヴェロニカは全身の力が急激に抜けていくのを感じた。まさかと思い全身を見渡すと、なんと彼女はダルクモンへと退化してしまっていた。
 勝った! シグルズはそう確信し、驚愕の色を隠せないヴェロニカに剣を勢いよく振り下ろす。
 だが、それがいけなかった。

「はあああああ!」

 ヴェロニカは雄たけびを上げながら、迫りくる刃を進化に伴い再生した剣で受け止める。

「るああ!!」

 更に刀身を滑らせながらシグルズの剣を横にいなし、刃と刃が離れた瞬間、杖で手を殴り剣をはたき落した。そして即座に距離を取る。

「てめえ……!」

 シグルズは怒りに体を震わせ、痺れる手をヴェロニカを交互に睨みつけた。
 村正が種族の特性に反した行動を行えたのは、そもそも彼が前世の記憶を持つイレギュラーであるためだ。更に剣の扱いはヴェロニカに一日の長がある。人間が魚に泳ぎで勝てないのと同様、その場しのぎで剣道の真似事をするシグルズは、剣を使うために作られた体の持ち主に剣技で勝つことは出来ない。「勝てる」と油断したなら尚更だ。

(勇夜君の動きを完全にトレース出来てる訳ではないみたいね。何らかの制限があるのか、或いは能力と無関係なのか……)

「ヴェロニカー!」

 遠くから彼女を呼ぶ声がする。

「聖次!」

 ヴェロニカは4枚に減った翼を羽ばたかせて声の主目掛けて飛んだ。

「ヴェロニカ―! 生きてたー!」

「それはこっちの台詞よ! ……デジヴァイスが壊れたのね」

 ヴェロニカは地面に散らばる機械の破片に目をやる。基板の一部分はショートし火花と煙を上げていた。
 聖次を熱心に追っていた筈のナイトレイドもいつの間にか姿を消している。

「使い魔を維持出来なくなったみたいね」

「あー、ヴァンデモンって吸血鬼だから昼は弱体化すんだっけ? ……勝てそうか?」

「流石にデジヴァイス無しじゃきついわ。夜までもつれ込んだら絶対に勝てない」

 ヴェロニカは聖次を抱き上げ、彼に彼女自身の肩を強く掴ませた。

「悔しいけど今は逃げるしかない……。飛ぶわよ聖次!」

 言うが早いかヴェロニカは地を蹴り天高く舞い上がった。

「説得するとかほざいておいてそのザマかよ! ダッセーなあ、おい!」

 逃走者を逃がすまいとシグルズは立ち上がる。すると入れ違いになるように、シグルズの視界の端で何者かがドサリと倒れた。

「勇夜……?」

 シグルズは敵を追うのを止め、恐る恐る振り向く。
 倒れたのはやはり勇夜だった。彼は膝を付き、片手で頭を押さえながら痛みに顔を歪めている。

「おい、どうしたんだよ勇夜!」

「……気にすんな。ちょっと頭が痛えだけだ。黙ってりゃすぐ治る」

「そんな訳ねーじゃん! ぜってー大丈夫じゃねーもん!」

 勇夜が体調不良のためかシグルズの戦意が削がれたためか、シグルズは退化しデビモンに戻っていく。
 シグルズは長い腕で勇夜を支えるが、それ以外に何が出来る訳でもなく、ただおろおろと狼狽えるばかりである。

「どうしよ、どうしよ、どうしよ、べっ、ベルゼブモンなら何か分かるかな……」

 シグルズは勇夜から携帯電話を借り受けると、震える手でダイヤルを押した。




「で、あれは何だったのかしら」

 クリーム色の長髪をかきあげながら少女が訊ねる。

「本人の言う通り、ただの頭痛だ」

 その影は手を止めて彼女の問いに答えた。

「原因を放置すれば死に至るかもしれんがな」

 それは答え終わると再び作業に戻る。“辛うじて手の形をしているだけ”の手は、その見た目に反し器用にキーボードを操っている。それが少女から影のように見えるのは、暗所で明るく巨大なモニターと向かい合っているからだ。

「出力が大きすぎたのか、無理に同調しようとしたためか、或いはデジモンからデータが逆流したためか……」

 それは作業を続けながらも、答えを補足するように独り言を呟いた。
 モニターの中には無数のウィンドウが表示されており、その中の一つに勇夜とシグルズの姿が映し出されている。

「私はこんな風になった事ありませんけど……」

「女王が兵にわざわざ合わせてやる必要は無いからな。それにお前が一々頭痛を起こしていたら身が持たん」

 画面のシグルズは必死に電話を掛けている。彼は泣きそうになりながら勇夜の危機を訴えていた。

「だが……。もしかすると、お前もオーバーヒートするほど酷使される日が来るかもしれんぞ」

「そんな日、来るかしら」

「来なければ面白くない」

 会話はそこで途切れた。
 長い沈黙の後、長髪の少女が再び口を開く。

「こういうのって皆はなるものなの?」

「私はよくなるよ」

 モニター前の影に代わって橙色の単発の少女が答えた。

「そうなの? ちょっと意外だわ。貴女が具合悪そうにしているの、見た事が無かったから。……いえ、これは私の観察不足という意味で決して貴女に問題がある訳じゃ」

「大丈夫。ちゃんと分かってるよ。……これくらい我慢しなきゃ」

 短髪の少女は自らのデジヴァイスを見つめた。そのデジヴァイスは高級感のある黒い下地に、カットされた宝石を象った意匠が掘り込まれている。

「だって私、これしか出来ないもん」



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