あなたが好きです

◆きみの涙を知る者




 会計を担ってくれている研磨からのちくちくとした視線に苦く笑い、小さく謝ると、顔を顰めながらタバコを咥えたので、ありがたくライターで火を付けさせてもらう。

「駅前のアップルパイでどうっすか……」
「うん、わかった」

 灰皿に置かれた溜まった吸い殻の原因に俺も含まれている筈なので、美味しいと口コミとお姫サマの間で有名なアップルパイで手を打つことにした。
 大きなため息の後に、漸く素早いタイピングが聞こえたので、俺も着替えるためにロッカーへと向かったところで、口が開きっぱなしのロッカーにぽつりと置かれたタバコが目に入った。

「誰かタバコ忘れて行ってる。赤マルって誰だっけ?」
「あー、赤葦かも」

 加熱式タバコや電子タバコが浸透しつつあるこのご時世で、紙巻きタバコは珍しく感じる。この店で言えば、俺や研磨や松川あたりがそうなのだが、研磨が言うように赤葦もまだこのタイプだった。ただ、忘れ物だなんてあいつにしては珍しい。

「赤葦、慌てて帰ったから」
「なんで?」
「知らない。でも、スマホを見た瞬間に慌てて帰ったからそれかも」
「なにそれ。女でもできたか?」

 表情に抑揚がなくいつも涼しい顔をしていて、表情が崩れるといえば大抵木兎あたりにキレている時か、接客時に見せる、僅かに口許を緩めて薄く笑う時ばかりだから、あいつの泡を食う姿なんてなかなか拝めないし想像もできない。その場にいなかったことを少し後悔してしまう。
 くつりと笑みを零すと、「趣味悪い」と窘めるような声が聞こえて、やはり苦く笑うしかなかった。誤魔化すようにプライベート用のスマホに視線を落とす。

「名前……?」

 可愛い可愛い妹から2件の着信と『仕事中……?』と伺うようなメッセージが送られていたのは今から5時間も前のこと。ちょうど俺が出勤して1人目のお姫サマの接客をしている最中だったと思う。お互いに実家から出て一人暮らしをしているし(名前も俺も職場が遠かった)名前には特にシフトの話はしていないので、夕食のお誘いかもしれないけれど、それとは違った違和感が胸を擽った。1通のメッセージならまだしも、続く2件の着信が嫌な予感を助長させる。
 名前は兄フィルターを除いたとしてもとてもかわいい子で、整った顔のせいで昔からなにかと苦労している。名前が住むところは比較的静かなのだが、頭のおかしい奴はどこにだっているから油断はできない。

「……出ない」

 着歴から折り返すが、コール音が鳴っても名前が出る気配はなかった。時間も時間なので寝ているとかならば良いのだけれど。

「名前、なにかあったの?」
「……電話出ないからわかんねえ。まぁ、気のせいかもしれないしな」
「ふーん」

 他人の目が気になる割には、他人に無関心な研磨とはいえ、やはり相手が幼馴染となると心配するらしい。ただ、確信がない以上騒いだり研磨に心配をかけさせるわけにもいかない。
 とりあえず名前が電話に出ない事には状況が把握できないので、メッセージを残してスマホを閉じた。「まあ今頃彼氏とかと一緒にいるんじゃない?」「名前に彼氏はいませんー。つーか許しませんー」とんでもないことを言う研磨クン。お静かに願います。

 翌日、申し訳なさそうに『ちょっと変な人に追いかけられたんだけど、もう大丈夫』と電話の向こうで言った名前の声が掠れていたことを、泣いたからだと決めつけてしまった俺は大バカ者だと思う。






title:溺れる覚悟 様