随分と冷たくなった風がカーテンを揺らした。気付けば外はすっかり仄暗い橙に染まり、運動部たちの掛け声が赤みを帯び始めた木々の隙間からこだまする。

 教室に居残り、ただテニスコートを見下ろす日々を送るようになってから数週間。私と千石の関係は、相変わらずぎくしゃくとしたままだった。

『勝てなくて、ごめんね』

 そう言って彼が背を向けてから、毎日欠かさず届いていたメールはぱたりと途絶え、毎日欠かさず見ていたヤツのへらへら顔もめっきり見なくなった。数ヶ月前の私だったら、きっと諸手を挙げて喜んだ状況である。そんな私が、今じゃことある事に携帯を確認し、休み時間ごとに廊下に目をやってしまうような有様。何ともまあ、随分と影響されたものだ。ざまあない。

 ぱかりと開いた携帯の、空っぽの受信ボックス。つきりと痛む胸をそのままに、かちかちとボタンを押して表示させるは下書きメール。

 このあいだはごめん。

 至極簡素な謝罪文は、我ながら失笑してしまう程のお粗末な出来だ。小学生の仲直りの文句じゃあるまいし。
 しかしなんと謝れば良いのかわからない。あの時咄嗟に口から出た素直な謝罪の言葉は、そのまま南に突き返されてしまったのだ。受け取ってもらえなかった「ごめん」は行き場を失い迷子のまま。とりあえず突っ込まれた下書きメールの中で居心地悪そうな顔をしている。

「……はーぁ」
「あれ。みょうじさんじゃん」

 誰もいないのだからと思い切りついた溜め息は、まさかの人物を呼び寄せてしまったようだった。廊下からひょっこりと覗かせたその頭に揺れる双葉。一体どういうわけでそこに生えているやら見当もつかないが、兎に角、その芽の主はマイペースな声の調子と共に教室へやって来る。

「ええと、新渡米」
「正解。ちょっと失礼するよん」

 マイペースなのは口調だけではなかったようで、彼はそのまま窓の方へ歩を進める。何をするのかと見ていれば、鞄から取り出したカメラで空を撮影し始めた。

「……UFOでもいた?」
「それっぽい形の雲ならあったかな」
「あ、そう」

 ぱしゃりぱしゃりとシャッター音が教室に響く。彼の視線の先を見てみたけれど、別段景色が綺麗だと感じはしない。見慣れた景色だからかもしれないが。

 数枚撮って納得がいったのか、新渡米がようやくカメラを下ろす。満足げに液晶を眺める彼を何とはなしに見ていると、不意に新渡米が口を開いた。

「千石と喧嘩してるでしょ」

 あまりにも唐突なその言葉は、いきなり過ぎてすぐには反応出来ずにころりと転がる。がらんとした教室に影を落としたそれに、私はゆっくりと手を伸ばした。

「……なんで知ってるの?」
「だって、部活中面倒臭いことになってたから。南も変だったし」
「……ああ、新渡米ってテニス部だったの」
「そだよん。もう引退だけどね。今日も引き継ぎだけだったから抜けてきちゃった」

 何気なく発された引退という単語は、胸の内にぴりりとした痛みを起こさせた。……例えるなら、受け取ったプリントで指を切ってしまったときのような。

「……」
「で?」
「え?」
「何があったのさ。元クラスメイトのよしみで聞いたげる」
「1年の時だっけ?よく覚えてるね」
「そっちこそ」

 一昨年同じクラスだった。新渡米との接点はたったそれだけではあったのだが、しかし確かにこいつはこういうやつだったなとふと懐かしくなる。マイペースで、一定の距離感を保ちつつゆるりと会話ができる。つまり、嫌いじゃない。

「実はさ、」

 話し出すと止まらなかった。ずっと誰かに聞いて欲しかったからなのか、新渡米が聞き上手だからなのか、はたまたその両方か。

 そして、私の懺悔にも似た事のあらましを全て聞き終えた新渡米はといえば、片眉を吊り上げ溜息を一つ。

「……意地悪だなぁ」
「……ごめん」
「いや、みょうじさんがじゃなくて。南が」

 えっ、と顔を上げた私に、新渡米は苦笑いしながらちらりと窓の外を見る。テニスコートは、とっくに無人になっていた。

「女子には女子にしか、男子には男子にしか分からないことって、どうしてもあるじゃん」
「……まあ、うん」
「それと一緒。運動部には、運動部にしか分からないことがあるんだよね。それを運動部じゃない人に分かってもらおうとするのは、わがままってやつだよ」
「そう……なの?」

 新渡米はうんうんと頷き、どこか大人びた顔で言葉を続ける。

「俺たちは全国で負けた。それは泣くほど悔しいし、実際泣いたし」
「……うん」
「でもさぁ、上手く言えないけど、後悔だってしてないわけ。こっちは出し切ったわけだし。なんなら、来年は今の2年達が頑張ってくれるって信じてるし」
「……」
「『勝つ』『負ける』は確かに俺たちにとってすごく重要なことだけど、それだけしかない訳じゃないんだよね」

 ゆっくりと、きっと言語化しづらいのであろう感情を語る新渡米は、ここではないどこかを見ているように見えた。その表情も、言っていることも、分かるようで分からないそれが、運動部とそれ以外との違いなのだろうか。

「南は部長だし、千石はエースだから。全体を背負いすぎたぶん、みょうじさんの言葉が余計刺さっちゃったんだろうね」
「……う……」
「みょうじさんもわりと酷いこと言ったよね。それは謝るべきだと思う。でも、俺たちにしか分からないような都合を押し付けて、それを理解しろって謝罪を受け入れなかった南は、わがまま」

 千石はタイミングが悪かったねえ、ともう一つ溜め息。

「……私、どうしたら」

 第三者である新渡米の言葉は、迷子状態だった私の視界をふわりと照らしてくれたし、絡まった感情をすんなりと解いてくれた。しかし、それを前にしてどう踏み出すべきか悩んでしまうのは、あの私を拒むような背中が、いつまでも脳内にちらつくからだ。

「んー……ヒントはあげたから、この先は自分で考えてほしいかな、とは思うんだけど……そうだなぁ、じゃあ、もうちょっとヒントあげる」

 いつの間にやら日はとっぷりと暮れ、空のオレンジは紫から濃紺へと変わりつつある。そんな窓の外をちらりと見やって、新渡米は鞄を背負い直した。

「まず、試合に勝った千石には言うべきことがあるんじゃないの、ってのと」

 言いかけて新渡米は言葉を切る。そのままなにか企んでいるような笑顔を浮かべると、教室の扉をからりと開けた。

「その千石に、みょうじさんがここで待ってるってメールしちゃった」
「……はぁ!?」
「あとはごゆっくり。南には俺からも言っとくからさ」

 思わず立ち上がった私に、新渡米はにやりと笑ってみせる。こいつ、いいやつだと思っていたけれど、こんな顔もするのか。思わぬ印象の変化に戸惑っている私に、新渡米は教室から出ていきかけて、ふと振り返った。

「そういえば」
「……なに?」
「テニス部が勝てなかったこと、悔しがってくれて、アリガト」

 途端。
 テニス部が負けたとき、学校が何も言わなかったとき、南に試合の話を振られた時。胸の内で暴れていた理由のしれない苛立ちが、ふと掻き消えたような気がした。

 そっか、悔しかったんだ。

 気づいてしまえば酷く単純なことで、今まで何を悩んでいたのだろうと笑いすらこみ上げる。笑い混じりの溜め息をひとつついて、私はゆっくりと顔を上げる。

 背後で勢いよく教室の扉が開かれた。

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