「関東大会に、来てもらえませんか」

 すっかり梅雨が明け、青く高く広がる空に、ぽこりと浮かぶ出来損ないの入道雲。これからの夏に期待が膨らむそんな景色を背中に、彼はそう言って頭を下げた。

「……え?」
「いきなりすみません。ですが」
「いやあの、誰?」

 帰り道、突然声をかけてきた男子。山吹中と書かれた緑地に黄のラインのユニフォーム。テニス部のユニフォームだ。敬語を使っているから、おそらく後輩だろう。だがなにより目を引くのは、その小麦色に焼けた肌と、不思議な形をしたサングラス。こんな人、見たことがない。……まあ、テニス部の面子なんて、南と東方、そして千石くらいしか知らないのだけど。

「……すみません。少し焦りました」

 サングラスくんは緊張しているのか、硬い表情でもう一度頭を下げる。

「テニス部2年の室町といいます。……みょうじさん、ですよね?あの、千石さんの……あー、なんというか……」
「ストーカー被害者?」
「……ええと、まあ、そうですね。それで、合ってますか?」

 口ごもった室町くんに助け舟を出してあげるが、それでもやはり言いづらそうにもごもごと呟く。確かにいくら千石がああも残念な奴だったとしても、室町くんにとって先輩である以上、ストーカー呼ばわりはできまい。彼に同情しながら頷く。

「それで、関東大会がどうとかって……」
「はい。みょうじさんに関東大会の応援に来て欲しいんです。千石さんのために」

 ブルータス、お前も千石の仲間か。
 私があまりに嫌そうな顔をしていたのか、室町くんは居心地悪そうにもぞもぞと足を動かした。

「あ、ごめんね。室町くんを責めたりしてるわけじゃないんだ」
「ええ、分かってます。……ただ、その」

 室町くんは言いよどんで、真剣な表情で私を見た。

「亜久津さんって分かります?」
「あー……えっと、不良の人?かな。頭こんなの」

 白に染められ、ワックスで逆立てられた髪が頭に浮かび、ジェスチャーで示すと室町くんは頷いた。
 何しろ有名な人だ。他校生と問題を起こした、なんて話は序の口。噂じゃタバコ吸ってるだとか、原付乗り回してるとか、なんとか。……そういや、年上の彼女がいるなんて話も聞いたことがある。

「亜久津さん、テニス部だったんです」
「そ、そうなんだ」
「正直、うちの部で一番強かったです」
「ええと……今はいないの?」
「はい。……それで千石さん、その穴を埋めようとすごく頑張ってて」

 ようやく話が繋がった。正直、何故有名な不良の知られざる面を説明される羽目になったのか、戸惑っていたところだ。テニスをする亜久津は想像出来なかったけれど、部員が強かったと言うのだからそうなのだろう。……テニスって、紳士のスポーツなんじゃなかったっけ?

「それで、私が行けば千石が喜ぶってこと?」
「はい」

 即答した室町くんは、期待の眼差しをサングラスの奥から覗かせる。ああもう、断りづらくなるじゃないか。後輩をいじめる趣味なんて、私にはこれっぽっちもないのに。……けれど。

「……悪いけど、あんまり気乗りしないなあ」

 千石からのアプローチは未だ衰えることを知らず、むしろ必死さは増しているように思える。きっとそろそろデートの誘いに土下座が混じりはじめる頃だ。そんな奴の応援なんてしたら、調子に乗った千石が今以上に面倒なことになるに決まっている。できればそんな自体は避けたいのだ。

 そう伝えると、室町くんの眉間に皺が寄る。……そんなに試合に来て欲しかったのだろうか。思うやいなや、室町くんはぐいと私の腕を掴んで歩き出した。

「え、ちょ、なに?」
「みょうじさんに見てほしいものがあります」

 進行方向を見つめているせいで室町くんの顔は見えないが、真剣なのは分かる。向かう先はどうやらテニスコートの反対側、校舎の裏だ。

 そこに辿り着く直前、室町くんはようやく手を離し、人差し指を口に当ててそっと近付くよう示した。何か動物でもいるのかな、なんてのんきに思うは一瞬。すぐに聞こえてきた音に、私は思わず室町くんを振り返った。

「……そうです。……気付かれちゃ駄目ですよ」

 ざっざっ、とスニーカーが砂を踏みしめ、地を蹴る音。ぱこん、とラケットにボールが当たる音。そしてなにより、ぜえぜえと苦しそうに肩で息をする音。そこにあったのは、滝のような汗を流れるままに、セットしていた髪を振り乱し、泥や汗でどろどろになったユニフォームをはためかせて死に物狂いで練習する千石の姿だった。

「……分かりました?」
「……千石……いつもこうなの?」
「ええ。練習姿見られるの、カッコ悪いからって嫌がるんです。……なので気づかれる前に離れますよ」

 踵を返す室町くんを追う前に、一度だけ振り返る。余裕やふざけた笑顔なんて欠片もない、苦しそうな汗まみれのくしゃくしゃになった顔。……あんな顔、今まで一度だって見たことなかった。

「……だから、むかつくって言ったのに」

 ぼやいた声に室町くんが振り返った。千石が練習していた校舎裏から離れ、テニスコート近くで足を止める。コートに設置された大きな照明を見上げて、私は下唇を噛んだ。
 まるで才能に溢れているみたいな自信満々の笑みを浮かべて。まるで何にも真面目に取り組んでないみたいに振る舞って。まるで全部幸運のお陰みたいな顔して胸張って。それが千石という男なのだと勝手に思っていた。
 それなのに本当は、照明も何もない、でこぼこした地面の上で、汗だくになって必死にラケットを振り、そうやって真剣な心でテニスと向き合っていたのだ。

 五月に南はなんて言ってた?『あいつは誰よりも頑張ってた』そして私はなんて答えた?『テニス部エースが不真面目じゃ評判悪くなるもんね』
 今ならわかる。あの時私がどれだけ酷い事を言ったのか。もの言いたげな南の顔が浮かび、後悔で胸が詰まった。

「千石さんは誤解されやすいけど、俺たちテニス部はちゃんと知ってるんです。千石さんが実は誰よりも努力家だってこと。……みょうじさんには、ちゃんと知って欲しくて」
「……謝って欲しいってこと?……うん、ちゃんと謝るよ」

 知らなかったかもしれないが、今はもう知っている。いくら千石のことが気に入らなかったとしても、今回は私が間違っていたのだ。謝るのは当然だ。ぐるぐると考え込んでいる私に、室町くんは思いがけず軽い口調で声をあげた。

「いえ、そうじゃなくて」
「え?」

 室町くんは私の顔を見て悪戯っぽく笑う。

「千石さんのデートを成功させる為です」

 へ?
 間抜けな声が口から漏れた瞬間、ポケットから鳴り響くメールの受信音。送信者はタイムリーなことに千石清純。思わず開いて、つい吹き出した。

『この夏、みょうじさんのラッキースポットはココだよ〜!!』

 私に携帯を見せられた室町くんは一言、「関東大会の会場……」と呟いた。予想通りの言葉にもう一度声をあげて笑ってから、改めて室町くんに向き直る。

「ラッキースポットのさ、日付。教えてよ」
「え、じゃあ……!」
「考えとく」

 室町くんは、ぱあっと顔を輝かせる。ふと視線を上げれば日はオレンジを振りまき、雲を染めていた。今年の夏はきっと暑くなる。いつの間にか出来上がっていた入道雲を見つけて、私はそう確信した。

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