きんと冷えた空気は、新たな年を迎えた私達の背を否が応でもぴしりと伸ばす。新年というのは、高い空も澄んだ空気も、全てなんだか新品に感じるのだから不思議だ。毎年この空気に当てられて無茶な目標なんかを立てたくなってしまうのだが、まあ、どうせ今年も続くことはないのだろう。

 とはいえ、中学三年生である私達にとっては、本気で頑張らねばならない時期でもある。三日坊主なんてこと、していられないのだ。かじかんだ指先で単語帳をぺらりとめくる。……歩きながらのそれが、まずかった。

「わ、っ」
「おっ……と」

 廊下を曲がった途端に感じる衝撃。私の方こそよろめくだけで済んだけれど、相手はそうはいかなかったようで。余程急いでいたのか思い切り飛び出してきた彼は、勢い余って尻もちをつく。

「だ、大丈夫?ごめん、余所見してて」
「い、いえ、こちらこそごめんなさいです」

 転んだ拍子にずり落ちてきたらしいヘアバンドを戻して、彼はぺこりと頭を下げた。……そのせいで再びずり落ちるヘアバンドは、どうもサイズが合っていないように思う。

「怪我とかしてない?」
「大丈夫です!……あ、あの、先輩は三年生ですか?」
「そうだけど」

 くりくりと大きな目を開いて私を見上げる少年は、体格からしておそらく一年生だろう。彼は私の返事を聞くとぱっと喜色を浮かべ、抱えていたノートを素早く開いた。

「実は今、千石先輩と仲のいい女子を探してるんです!誰か知らないですか?」
「千石と?……ええと、君は?」
「あ、申し遅れましたです!僕は壇太一です!千石先輩はテニス部の先輩なんです、はい!」
「ああ、テニス部の……」

 なんだかデジャヴだ。脳裏に浮かぶサングラスに苦笑して、ゆっくりと頭を巡らせた。

「千石と仲のいい女子って言ったら……ええと、一応、私はあいつと友達だけど」

 自分で仲がいいなどと称するのはなんだか落ち着かない。けれどまあ、相変わらず奴からは毎日メールが届くし、廊下側の窓からはラブコールが飛ぶし、先月なんてデート……いや、一緒に映画を見たし。少なくとも、仲が悪いということはないと言えるだろう。仲のいい友達、うん。そうだ。

「本当ですか!助かりましたです!実は質問があって!」

 少年……壇くんはノートをぱらぱらとめくり、シャーペンを構えて身を乗り出した。あまりの熱意にほんの少しだけ気圧される。そんなに勢いづいて、一体何を訊こうというのか。一歩引いた私に、壇くんは口を開く。

「千石先輩の好きな女の子のタイプを教えて欲しいんです!」

 は、と声が漏れた。

「これは千石先輩には内緒にして欲しいんですけど……僕のクラスのある女子が千石先輩のことを好きらしくて!だけど、千石先輩ってどの女子にも分け隔てなく声をかけるから……結局どんな子が好みなのか、分からなくて悩んでるんです!」

 壇くんの勢いは止まらない。

「千石先輩と仲のいい女子なら、もしかしたら知ってるかもと思って……!ついでに、女子目線の意見も聞きたくて……僕はその子に相談を受けたので、調査しに来たです!」

 壇くんはそう一息に言うと、きらきらした瞳で私の答えを待っている。私はと言えば、壇くんの言葉を脳がきちんと理解するまでゆうに20秒ほど沈黙し―――ゆっくりと口を開いた。

「千石の、好きなタイプかぁ」

 一体なんと言えば良いというのか。壇くんの視線から逃れるように一瞬目を閉じて、私は奴を思い浮かべる。思い出すのは、あの表情。
 可愛いね、だなんてどうせ言い慣れた台詞だろうに、何故あんなに緊張して耳まで赤くしていたのか。何故あんなに気合を入れる必要があったのか。何故、あのとき私の心臓は苦しくなる程に脈打ったのか。

 私だって馬鹿じゃない。年頃の、華の中学三年生だ。その答えは、今私の手の中で握り潰された単語帳の赤字並に明白なのである。

「……先輩?」

 怪訝そうな声にふうとため息をついて、精一杯の申し訳ない顔を作る。

「……ごめんね、考えたんだけど、思い浮かばなかったや。あいつ、誰にでも声かけるからさ」
「そうですか……仲のいい先輩でも分からないんですね……」
「ごめんね」

 ごめんね、嘘をついて。
 言葉を飲み込んで、困った顔で苦笑してみせる。壇くんは必死に手と首を振って、気にしないでくれと逆に謝った。その態度に罪悪感は募れど、でもその女の子に協力してあげようという気持ちは全く湧いてこなくて。自分の汚い部分に触れたみたいでなんだかそわそわと落ち着かない。

「本当に気にしないでくださいです!……その子、どちらにしても来月告白するつもりだって言っていたので……」
「来月?」
「はい、チョコを渡すらしいです!」

 しわくちゃで可哀想な姿になってしまった単語帳を、指でそっと伸ばす。そういえば、今朝方寄った気の早いコンビニでは、ピンク色の棚にチョコレートがまとめられていたっけ、とぼんやりとした思考の隅で思う。
 お礼を言いながらかけてゆく壇くんに手を振って、ポケットのスケジュール帳をぺらりとめくった。

 2月14日。いい加減、白黒つける時が来たのかもしれない。

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