小説 | ナノ






 思えば朝から全くツイていなかった。ざあざあと降りしきる雨を前に立ち尽くしながら、心の中でそう思う。だって今朝朝寝坊さえしなければ、きっとこんな目には遭わなかったのだから。

「なまえー!」

 慌てた様子で駆け寄ってきた友達は、私の前まで来ると勢い良く頭を下げた。

「ごめん!放課後の約束、行けなくなった!」

 メール画面が表示されたままの携帯を握り締め、彼女はぱんっと手を合わせる。その時点で私はなんとなく察していたのだけど、一応「用事?」と聞いてみた。

「えっと……彼氏と約束してたの、今日だったの忘れてて……」
「はいはい。例の木更津くんね。気にしなくていいから、楽しんできなよ」
「ほんっとごめん!!絶対埋め合わせするから!!」

 駆けてゆく彼女を見つめて、こっそりと溜息をついてみたりして。彼氏、か。木更津くんはサラサラの髪と綺麗な顔が魅力的だし、何より優しいからと女子には人気だ。そんな彼と恋人になれたのだから、彼女も幸せだろう。羨ましいなあ、ともう一度嘆息した。
 
 それが数分前。
 重い足取りで昇降口へと向かうと、ぽつりぽつりと不穏な音が聞こえてきて、そして冒頭に至る。今朝寝坊をしてしまったせいで、天気予報を見損ねてしまったのだ。折り畳み傘なんて持ってきているわけがない。家までは歩いて20分ほど。濡れて帰るのも躊躇う距離だ。

「なーんかもう……さいっあく」

 高いので気は進まないが、コンビニで傘を買うしかないだろう。学校からコンビニまではそう遠くないし、それくらいなら濡れても我慢できる。雨足が少し弱まるのを待って、鞄を胸に抱き外へ飛び出した。

 コンビニには見慣れた制服を着た生徒が数人いて、そのほとんどがぽたりぽたりと雫を垂らしている。きっとみんな私と同じ目的で入店したに違いない。例に漏れずびしょ濡れになった私もぶるりと頭を振る。店員の冷たい視線が痛い。

「えっと、傘……あ、ラス1じゃん」

 入口すぐ近くの傘売り場。足元には大きな水たまりが出来ていて、既に大勢の人がここで傘を手にしたのだろうと分かる。そこに掛けられた最後の一本を慌てて掴み、私もレジへと向かった。相変わらず外は大雨だが、この傘があればなんの心配もいらないのだ。
 レジの列が一歩前に進んだ時、不意に傘売り場から悲痛な声が聞こえてきた。

「あーっ!傘、売り切れてるだーね!!」

 テニス部だろうか。ラケットの形をした大きなカバンを肩にかけ、空っぽになった傘売り場の前でがっくりと項垂れている男子。気の毒だが、譲る気はさらさらない。こっちだって快適な帰り道が懸かっているのだ。ご愁傷様、と心の中で手を合わせて、空いたらしいレジの方へ歩を進めた。

「こちら一点で540円になります」
「あ、はい……えっと……」

 傘をレジに置いて鞄を漁る。ごちゃごちゃに突っ込んだ教科書のせいか、はたまた濡れてべたべたの腕のせいか、なかなか財布が見つからない。レジ前でもたもたしていると、背後の列がどんどん長くなっていくのを感じる。

「あ、あれ……」
「あの、お客様?」

 このポケットも、この教科書の陰にも。どこを探しても財布は無くて、そして思い出した。昨日買い物に行ったとき、財布を別の鞄に入れたこと。今朝慌てて家をでたせいで、その鞄から財布を出し忘れたこと。……そうだ、財布、忘れてきてた。

「ご、ごめんなさい!やっぱりこれ、買うのやめます!」

 包装ビニールを剥がしかけた店員の手がピタリと止まる。剥がす前でよかった、と心の底から安堵し、私は急いで踵を返した。もう濡れるとか濡れないとか、そんなのはどうでもいい。この恥ずかしい空気から逃れることが先決だ。ゆっくりと開く自動ドアに焦れて足踏みをして、シャワーのように降り注ぐ雨の中へ飛びこんだ。

「ほんと……ツイてない」

 コンビニを出てすぐの交差点には、雨の中赤く光る止まれのマーク。雨をしのぐものなどない広々とした歩道で、私は仕方なく立ち止まった。恥ずかしい思いはするし、雨は冷たくて肌寒いしで、気分は一気にどん底だ。頬を伝う雨粒に誘発されて、なんだか泣き出しそうな気分になって慌てて堪える。しかし、泣いたところでどうせ誰も気づくまい。それならいっそ泣いた方がすっきりするのではないだろうか。うん、きっとそうだ。泣いてしまおう。
 そこまで思い至って、なんとなく俯いた時だった。

「あー、えっと」
「……え?」

 不意に声を掛けられ、びっくりして振り返る。さっき傘売り場で落胆していた、テニス部らしきあの男子だ。私のように雨に濡れ、少し緊張した面持ちで、そこに立っている。

「傘。必要なんだーね?これ、使うといいだーね」
「え、でも」
「俺は大丈夫だーね!寮生だから傘なんていらなかっただーね!寄り道はまた今度にすればいいだーね!」
「わ、悪いって!」
「気にするなだーね!」
「え、あ、ちょっと!」

 ぐい、と傘を押し付けられ、思わず受け取ってしまったのを確かめるやいなや、脱兎の如く駆け出していくそいつ。残ったのは途方に暮れた私と、不覚にも高鳴る心臓。ようやく動き始めた思考が、これからやるべきことを弾き出す。
 まずはテニス部の誰か……そうだ、木更津くんに聞こう。彼の特徴を伝えて、名前とクラスを聞かなくちゃ。今度はちゃんと財布を持ってきて、傘代も渡さなきゃいけない。そして、そして―――お礼になにか渡したら、おかしいと思われるだろうか?
 どこか浮き立つ心を止められない。熱を持った頬を手で覆って、灰色の空を仰いだ。

「誰よ、今日はツイてないなんて言ったの!」
 

top
×