小説 | ナノ







「宍戸くん、おすすめのシャンプー教えて」

 その一言を口に出すまでどれくらいかかっただろう。少し視線は逸らしてしまったけれど、言えた達成感で小さく息を吐いた。

 ある朝、宍戸くんは劇的に変化して現れた。気を遣っているのだ、と照れながらも胸を張っていた彼のトレードマーク、つやつやと輝く綺麗な髪が、バッサリと切られてしまっていたのだ。「色々あってな」とぶっきらぼうに笑う彼を、私は直視できなかった。

 テニス部で何かあった、だとか。レギュラーから落とされた、とか。いやいやレギュラーに戻ったんだ、とか。たくさんの情報からおぼろ気な事情を察することは出来たけれど、詳しく聞こうなんて勇気は持ち合わせていなくて。ただなんとなく、髪を伸ばすことにした。

「いーけどよ……俺、男物しか分かんねーぞ?」
「いいの。宍戸くんの髪、綺麗だっ―――、……綺麗だから」
「そうか?ま、こだわってたからな。ありがとよ」

 慌てて撤回した過去形にヒヤッとして、何でもないように返された過去形に胸が苦しくなる。髪を切った時のことは、きっと彼の中で既に消化されてしまっているのだ。うじうじと勝手に気にしているのは私だけ。まるで置いてきぼりになった子供のような気分だ。俯く私の気持ちをよそに、宍戸くんが不意に私の方へ身を乗り出す。

「そーいや、みょうじって髪伸びたよな。前はもっと短かった気がするぜ」
「え、あ、うん。ちょっと、ね。だいぶ伸びてきたから、ちゃんとしたシャンプーとか使った方がいいのかなって思って」
「それで俺に?」
「うん」

 ふーん、と納得いったのかいかなかったのか不明瞭な声をあげて、宍戸くんは頭を軽くかいた。ちくちくと手に刺さるであろう短髪に一瞬戸惑っていた、数ヶ月前の彼をふと思い出す。

「わり、教えてやりてーのはやまやまなんだが……」
「……うん」
「俺普段パッケージの絵見て買うからよ、商品名覚えてねーんだ。今日帰りに時間あんなら売ってるとこ教えるけど……」
「えっ」
「なんだ?なんか用事あったか?」
「あ、いや、その、断られるかと思ったの」

 思わずあげた驚きの声に宍戸くんは窺うように首を傾げる。私は慌てて言い訳をして、ほっと胸をなで下ろした。彼と同じシャンプーが使いたいだなんて、ドン引かれてもおかしくないのだから。

「じゃ、放課後な。俺部活あるから遅くなるけど、大丈夫か?」
「うん。図書館で待ってるね」

 なんとか約束を取り付け、再び達成感。ずっと聞きたくても聞けなかったことなので、これは大きな進歩だ。ばくばくとうるさく鳴る胸を押さえながら、その場を立ち去ろうと踵を返す。

「あ、そうだ、みょうじ」
「ひょぇっ、はい!」
「はは、んだよその返事」

 唐突に呼び止められ、咄嗟に出た変な声を宍戸くんが笑う。ああ、やらかしちゃった。頬から首の後ろ、耳から頭のてっぺんまでがカッカと熱い。きっと今の私は、ゆでダコみたいに真っ赤になっているに違いない。

「ちょっと髪、見せてみろよ」
「へっ!?ちょ、ちょっと宍戸くん!?」

 前言撤回だ。さっきの状態でゆでダコなら、今の私は蒸発したタコになってしまう。なんてったって、宍戸くんの手は今私の肩辺り、私の髪を掬っているのだ。その事実だけで、恥ずかしくて恥ずかしくて頭がどうにかなりそうだ。

「お前……」
「な、なっ、ななななにっ!?」

 しかもとんでもないことに、宍戸くんの顔はどんどん近付いてくる。その先は顔ではなく髪の毛とはいえ、今までとは比べ物にならないほど近い距離に、体が硬直する。

「髪、枝毛あんじゃねーか!伸ばすんならちゃんとケアしろ!」
「へっ!?ご、ごめんなさい……?」

 近い距離で叱られ、思わず肩が跳ねるけれど、よく見たら宍戸くんの顔はそんなに怒っていない。どちらかというと、何かを不思議に思っているような、釈然としない顔をしている。思わず首を傾げると、宍戸くんは、ああ、と呟いて髪から手を離した。

「どうかしたの?」
「いや……前に忍足がな、女子が突然髪を切ったり伸ばしたりするのには大抵意味がある……とか言っててよ。その……みょうじもそうなのか?」
「え、あ、ええっと……」

 ドキリとした。図星だ。こういったことには疎そうな宍戸くんだけれど、まさか忍足くんという伏兵がいたなんて。口篭る私に宍戸くんはハッとして、悪い、と呟く。

「こういうのってプライベートな問題だよな、言わなくていいぜ、聞いて悪かった。……激ダサだな、俺」
「そ、そんなことないよ宍戸くんはかっこいいよ!」

 つい口走ってしまった言葉に、宍戸くんも私も驚いて目を見開く。

「髪の毛、これ、願掛けっていうか、その……宍戸くんが、切っちゃったから……私、宍戸くんの髪、好きだったから……宍戸くんの代わりに……伸ばそうって、思って……」

 ぽかん、とこちらを見る宍戸くんに、どんどん声が小さくなってしまう。ああ、こんなこと言ったらいくら彼だって気持ち悪いと思うに違いないのに。そのまま逃げ出したい衝動を抑えて、しどろもどろに言い訳を始める。

「や、えっと、違うの、いや、違わないんだけど……髪はえっと、試しに伸ばしてもいいかなーって気持ちもあったし、だから、えっと」
「だああ!もう、はっきり言えよ!」
「はいっ!髪を伸ばして、宍戸くんのあの時の気持ちを理解出来たらいいなって思いました!ごめんなさい!」

 言ってしまった。最初の達成感なんて全部吹っ飛んだ。怖くて顔を上げることができないけれど、きっと宍戸くんは軽蔑した目で私を見ているんだ。

そう思うと悲しいけれど、気が弱くて意思を表に出すのが苦手な私にしては、なかなかに上出来な終わり方なのかもしれない。きっと、何一つ相手に伝わらず自己満足で有耶無耶になるよりは、少々気持ちが悪かろうが応援の気持ちを伝えられた今の方が、私としては大きな進歩に違いないのだから。

「……あー、えっと……」

 口篭る彼の声が降ってきて、びくりと肩が震える。その声に不快な色が含まれていなかったことにはほんの少し安堵したけれど、だからこそ、何を言われるのか全く予想出来ない不安が思考を覆う。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、宍戸くんは言葉を続けた。

「……まず、ありがとな」
「……え、っ?」

予想外の言葉だ。思わず顔を上げた先で、こころなしか恥ずかしそうに頬を染めた宍戸くんが私を見ていた。

「……いや、悪いって言うべきか……?……とにかく、俺を思って……やってくれたこと?なんだよな……?」
「……え、あ、えと……そう、です」

直球で言われると恥ずかしい。しどろもどろになりながらもなんとか頷くと、宍戸くんは「あー」とか「うー」とか意味の無い声を上げて頭を掻いた。

「俺は、この髪を切ったことに後悔はしてねえし、あの時そうして良かったとも思ってる」
「……うん」
「……けど、やっぱ大事にはしてたし、惜しいって気持ちもあった。……それを、俺だけじゃなくて、他の誰かも思ってくれてたってのは……上手く言えねーが、嬉しい、と思う」

 そう言ってにっと笑って見せる宍戸くんは本当に嬉しそうで、きらきらしたその表情は鋭い矢となり私の胸を刺し貫く。目が潰れそうな程に眩しいのに目が離せず、苦しいほどに高鳴る胸を、ただぎゅっと抑えることしか出来ない。

「……だから」

 一息ついて、宍戸くんが少し真剣な顔をする。少し考えて、ああ、これは宍戸くんがテニスをする時の顔だ、と思い至った。

「だから、俺の髪、お前に預けた!」
「……え?」
「俺はぜっっってー次の大会で勝つ!そんで、もう二度とレギュラーの座は譲らねえ!」
「う、うん」
「氷帝が全国で優勝したら、俺はまた髪を伸ばすから。その時まで、みょうじが俺の分まで髪を伸ばして待っててくれ。……ってのは、あー、もしかしてこれ、だいぶ勝手な頼みか……?」

 ようやく肩にかかるくらいになった髪を、思わずそっと撫で付ける。この髪が。この私の髪が、宍戸くんの切ってしまった髪の代わりになれるなんて。そんなの、断る理由なんてなかった。

「え、枝毛!作らないようにするから!毎日しっかりトリートメントする!ブラシもいいやつ買う!大事に、大事にして、宍戸くんに返すから……!」

 今まで生きてきた中で最高潮の勇気を出して、普段出さない大声で、真っ直ぐに宍戸くんを見て。

「だから、絶対勝ってね!」

 私は多分、この時の宍戸くんの笑顔を、一生忘れない。

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