こんなにちーっぽけなちーっぽけな目くそ鼻くその戦いをしていたなんて我ながら残念過ぎる。互いの唾がかかりそうなほどおでこを突きつけて言い合う姿を眺めていると、なるほど大人になってから分かった。だから先生はいつも真剣にやり取りをしているつもりの私に「ほどほどにしておけ」と釘を刺していたんだ。
知りたくなかったこの立場。
「うたうたいがうたうたえ――」
でも……こう見えても今本人たちは本気でこの会話をしているに違いない。だって私だもの。
小さい私自身とも目が合う。
すると、さっきまでしかめ面になっていたのに、彼女は私を視界に入れた瞬間目を丸くして笑顔になった。
「わーっ先生の髪綺麗ですね!」
「そ、そう?」
屈託のない表情で、さっきまでしぼんでいた蕾がパッと花開いたように笑った。
おおっと、まさか自分に褒められるとは。頬を押さえて目を細める。
この子のことだから嘘ではないだろうし(自慢じゃないけど私だし)、あれだけ水色の髪を毛嫌いしていたのにもかかわらず、他人のことになると美意識がまともに働くのは何故なのだろうか。水色の髪が綺麗なことくらい今になれば分かってはいるのだが、どうにも昔の自分は色んな所が捻くれている気がする。
「今から出席とるから、お話は休み時間にすること。ね?」
「はい! すみませんでした」
「はい」
そして当然のように先生の言うことはしっかりと聞く、自主性もあって協調性もある比較的よい子の二人だった。
さてと。
口喧嘩も終わったので様済みの私はさっさと階段を下りて行く。
先生髪の毛絶対ねー? という声に手を振ってこたえるのも忘れない。
教壇まで戻ればボードン先生にどうだったかと聞かれた。
「あいつらは心配なさそうかな?」
「問題はないみたいです」
問題は確かにない。
未来からトレイズがしようとしていたことを止めに来た私にとっては、ロックマンの隣の席は相変わらず私ナナリー・ヘルで、同じ教室にトレイズがいるわけではないことが分かっただけでも良しなのだ。これであとは行方が不明となっている彼女を探し出すだけで、そろそろ意識をそっちへ持っていかなくては。
気を取り直してボードン先生が出席を取り始める。
一番前の席から順に、一番後ろ端までの生徒の名前を呼び終われば、先生は廊下で歩いていた時に持っていた箱を教卓の上に置いて、中に入っている教科書を皆に配り始めた。
――キィ、
「ボードン先生、失礼。ちょっといいか?」
隣の教室のベブリオ先生が扉から顔を出し、ボードン先生を呼んだ。手招いて、少し困ったような表情だった。
気になってそっちを見ていると、私の視線に気づいたベブリオ先生が、こちらを向いて片目をパチンと閉じる。
やっぱちゃらい。
ボードン先生が外へ出て一、二分経って再び扉が開いたかと思うと、先生は女子生徒を一人連れて教室へと戻ってきた。
「じゃあドレンマン、しばらくの間こっちの教室にいなさい」
胸元まで伸びた白に近い金髪に、緑色のドレスを着た女の子。ドレスと言っても、貴族の私服ともいえるような作りであり、けして派手なわけではない。
短い前髪はかわいらしく、その下にある大人し気な垂れ目に隠れた青色の瞳は、ウルウルと不安そうに揺らいで私を見つめる。
幼いトレイズ・ドレンマンがそこにいた。
未来の彼女ではないのに、何故この教室に、と鼓動が早くなる。
「諸事情でここの教室で少しの間過ごすことになる。トレイズ・ドレンマンだ、よろしくな」
「こほっ、ゴホ、……よろしくお願いします」
咳を繰り返すトレイズは涙目で頭を下げる。
大丈夫? と声を掛ける私に、昔からなので慣れていますと返してくれる。涙目なのは咳をし過ぎたのが原因だとボードン先生は言った。
「えーと、どこだったかな。そうだそうだ、一番後ろの窓が近い席だったかな」
「はい」
「あそこなら空気も良いだろう。みんな――ドレンマンはちょっと身体が弱くて、隣の教室だと空気の循環が悪くて咳が出るらしいから、一週間はこっちで様子を見る。場所もなぁ、隣はちょうど風通しが悪いからな」
トレイズ。
彼女のことは詳しく知らないけれど、身体が弱いのなら大変なことである。学校にいるのに空気が悪いせいで勉強に集中できないなんて、頭の良いトレイズには厳しい状況に違いない。
元々身体の何処かに疾患があり、治癒魔法でも薬でも良くならない人の場合は、環境を変えて、新鮮で空気も澄んでいて風通しの良い所で療養をすると良いというのを何度か聞いたことはあった。彼女の場合も今回はそれに当てはまるのだろう。ここの教室で良くなるのならそれに越したことはない。
でも待てよ。
入学当初、こんなことあったっけ?
「一番後ろの窓側は……ヘルとロックマンの席か。お前達ちょっとズレられるか?」
確かに隣の教室は窓の正面がちょうど校舎の一部に被っていて、循環は悪そうだった。
「大丈夫です!」
素早く手をあげた私が元気いっぱいに返事をしている。
「先生、無理に窓側からズラさなくても大丈夫です。反対側のアルウェス様のお隣で大丈夫ですので」
「良いのか?」
「はい」
トレイズが私の前を通りすぎて行った。
『邪魔しないでね、ヘル』
「っ」
すれ違い様、囁かれるように私へ届いた声。
階段を上がって行く彼女の背を、私は信じられない面持ちで見つめた。
今のは聞き間違いではないと、とっさに耳をおさえる。
そんな馬鹿な。
トレイズ・ドレンマン。
小さな彼女はーーーーあろうことか未来の彼女だった。