ある雨の日の事
 

 朝から生憎の天気で、結局洗濯物は室内干しになった。灰色の雲で、薄暗い部屋は、まるで外界から閉ざされたみたいに、ただ静かだ。気が滅入る、こんな日は。
 ぼくは向き合っていたノートパソコンから離れて、大きく背伸びをした。アルバイトとしてはじめた翻訳の仕事は、企業の後押しも経てぼくの毎日の仕事となっていた。
 少し猫背気味の背中は、のばすと気持ちがよい、骨がグンっと延びて、ぼくは一つため息をついた。
 ベランダに出て、とっておきの日にしか吸わない煙草をくわえる。それが、承太郎の影響だと言ったら、彼は笑ってぼくの煙草に火をつけてくれるのだろうか。
 鬱蒼とした空を仰いで、白い息を吐き出すと、それはさっさと風にあおられて消えてしまった。唇に挟んだまま、何度か呼吸をする。ねっとりとした煙が、咥内を通じて肺に届いて、それはぼくの体の中で、決してはがれ落ちない錆のようにまとわり続けるのだろう。いい気分ではない。それでも、それでもやめられないのは。たぶん、承太郎を今でも深く想っているからなのだ。
 無意識に瞼をなでた。薄い傷はそれでもなお小さな水膨れとしてそこにある。それはぼく自身が、自らの呪縛から逃れるための証であるように思えた。おおよそ五体満足とはいいがたい体を携えて、ぼくは今も生きている。それはとても神々しく、またどこか無様でも合った。
(過去に縛られているのはぼくだけじゃないだろうけど)
 夢を叶えるためにアメリカに渡った承太郎は、去年結婚したと訊いた。喜ばしい報告と、それと少しの寂しさと、なんともいえない懐かしさがそこには合った。複雑な、それでも決して不快ではない、想い。
――以外だな、もっと動揺するかと思ったが。
 承太郎が受話器越しに言った、遠い遠い声を思い出す。彼は律儀に時折連絡をよこし、日本の正月だとか夏だとかに、美しい絵はがきを寄越すのだ。
「動揺?もうそんな年じゃないよ」
 ぼくはその頃の彼にいえなかった言葉をつぶやいた。あのときのぼくは、ひどく冷静に、おめでとう、と言っただけだった。
「……君は遠いな」
 この空の向こうの遙か遠くに、彼がいると思うと強くなれる気がした。彼との旅を終えてからも、幾重もの人と出会い、愛を紡いだり、関係を深めたりしたものだが、それでも、彼以上にぼくを理解し、愛し、叱咤し、励ます人物はいない。
 いつまでだって、ぼくは彼に恋をしているのだ。情けなくも、愛しい思い出の中で。
 短くなった煙草を、ベランダに置き去りにしている灰皿にこすりつけた。水滴が火種に触れて、じゅう、と低くなった。それはぼくが、思い出の中から現実の世界へ戻るために必要な音だ。
 さらさらと、雨が降る。冷たくコンクリートを染めていく、灰色の空、重たい空気。それでも、ベランダから町を見下ろせば、色とりどりの傘がみえた。
 あの一つ一つに、深く愛しい思い出があふれていると思うと、ぼくは今日も、彼を思って、いつも以上に幸福になれる気がしてならない。



end

2010/3/21
幸福の形について考えると、それは人によって、もしくはその時々によって変わるものだと思いまして、たとえばそれは、そばに添い遂げること意外にでも、きちんとした形としてそこにあるのだと思います。





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