退屈の理由
 

 こんなにも、世界には音が溢れていて、こんなにも、こんなにも、人が居るのに独りだと思ってしまうのはどうしてだろうか。優しい音も、激しい慟哭も、全て誰かの為にあると思うと、ぼくには何があるのかわからなくなってしまう。どれがぼくので、どれが他人のものなのか、紛れて混じって消えてしまうので、だからこの世界には迷う人が多いのかもしれない。
 少なくともぼくは、迷っているのだ。この、途方もない生きるということに。

 カフェの一番奥、光の当たらない席でぼんやりとコーヒーを飲んでいた。学校にいかなくてはいけない時間で、ホームルームには少なくとも間に合わない。それでもいいかなんて、まるで不良だ。誰に感化されたのだろうか。集団に背く事を、この世界は許さない。前に倣えで学ぶ教育。同じような生徒の生産、優等生のレッテルと、下らない価値観と賛美。
 褒められる事が嬉しいと思ったのは、小学校の頃の作文が評価された時くらいで、あとは全部下らなかった。
 眩しいくらいに輝く外を見て、ぼくは泣きたくなった。みんな一人ぼっちだと思うと、哀しくなった。
「花京院?」
 投げられた声に顔をあげる。見知った顔だ。彫りの深い、彫刻じみたその表情に、ぼくは呑気な声で答える。
「やあ承太郎じゃないか。君もサボり?」
 隣の学区の男だ。背が高く、彫りの深い顔は日本人離れしているようにも見える。それを学生帽で隠し、輝く緑の瞳をしている、空条承太郎。
 なぜぼくが彼の名前を知っているのかというと、まず、彼の評判は良くも悪くも有名である事、あと、一つ、ぼくらが彼の母親の為に命をとしたという事。
「らしくねぇな、どうしたんだ?」
 間の悪い男だと、ぼくは顔をしかめた。実際に承太郎の目に映るぼくは、単純に困った顔をしているだけなのだろうが。
「ぼくにだって、サボりたいときはあるよ」
 ピアスを開けたとき、授業をサボったとき、胸にある熱は興奮だ。そこ興奮の火種を、どうにか押し殺して続ける常識に、雁字搦めも良いところだ。くだらないと吐き棄てられたら楽だろう。知らないと自分の世界に篭れば楽だろう。そう思いながらも、出来ない。独りになるのが怖い癖に、独りになりたがる厄介な性格だ。
 ブラックコーヒーを手に、許しも請わずに向かいに座った承太郎に見透かされるような気がして、ぼくは顔を背けた。
「きみこそどうしたんだよ、こんな時間に」
「テメーと同じだよ」
 どっしりと腰掛けて、煙草の一本でも吸い出しそうな承太郎は、しかし煙草は取り出さずコーヒーを一口飲んでため息ついた。当たり前だ。ぼくらはまだ未成年で、高校生で。
 未発達である。何もかもが未発達で未成熟で、だからこうして時折、感慨に耽りたくなってしまうのだ。
「感心しないな」
 お互い様に、と、ぼくは笑ってみた。違和感ないだろうか、この顔に、違和感は張り付いていないだろうか。承太郎と話をするたびに、剥がれ落ちるぼくの自尊心と、膝を抱える弱い心。強い光に当てられて、露呈していく醜く歪んだ精神。
 承太郎は、決して模範的な男ではない。すぐに喧嘩もするし、粗暴だから、そういう噂もかねがね耳にする。ただ、承太郎のそういった数々の行為に対しては必ず理由があるから、彼のことを慕う人間は少なくない。
「理由はない。退屈なだけだ」
 退屈、の、理由はあるはずだ。少なくとも、ぼくにはそれがあった。命を燃やすような毎日が、終焉を迎えて、なんとか生き残り戻ってきたぼくらに待っていたのは変わらない世界だけだった。労いも、感動も無い、ぼくらの命が燃えている間も世界は知らん顔で回っていたのだ。帰って来て思うのは、その事ばかりだ。
 退屈の理由は、それだ。
「あの毎日が、今じゃとても懐かしい」
「物騒だな」
「そう、だね」
 す、と、承太郎の目の前に手を翳して見せた。指先からシュル、とハイエロファントグリーンを出現させると、承太郎は顔をしかめて見せた。
 幽波紋のことを、ぼくは誰よりも深く理解している。していると思い込んでいる。ずっと自分のものだった、自分だけの世界だった。そうして中に留まり続ける轟々とした思いに、一人でずっと耐えてきたのだ。
「彼もぼくも、君も、退屈なんだ。足りないんだよ、こんな日常じゃあ、もう満足出来ない」
 焦がれるような毎日は、ぼくにとっての未知だった。こうして、友人とコーヒーを飲むような人生では物足りないのだ。
 誰かの役に立ちたいと思った。ぼくの心を、誰かの求める意味のあるものにしたかった。それができたと思ったのに、やっぱり現実で、ぼくは一人だった。両親はいまだ、本当のぼくを知らないし、かといって無暗に詮索したりもしない。旅から帰国したぼくに対して、浮かべた涙は確かに本物だと思えるのに、どうしてもそれから先の一線が越えられない。
 飢えている。ぼくは、求められることに。
「止せよ、花京院」
 戸惑いなく、承太郎は言った。ムキになったぼくは、承太郎の喉元にハイエロファントグリーンの蔦を絡ませる。幾重にも重ねて、絞れば首が閉まる。承太郎の太い逞しい首筋が、みしりと軋む姿を思い浮かべると、心臓が、どくん、と痛んだ。
「花京院」
 承太郎の声が遠い。彼を殺そうとしている自分が、過去の自分に戻っていく気がした。
「花京院」
 落ち着いた声色で、承太郎はじっとぼくの顔を見つめた。穏やかな海の凪のように、ただじっと見つめてくる。なぜ、彼はこんなにやさしいのだろう。どうして、中途半端にやさしいんだろう。
「……君になら、全部あげてもいいんだよ」
「冗談じゃぁねェ」
 承太郎が、ぼくの手のひらを優しく包んだ。暖かい温もりが、手のひらごとぼくを包み込むので、ぼくはあっさりとその手を引いた。
「そういやあ、こんなことを、望んだお前も居たな」
「そうだね」
 肉の芽に侵されていた時のことだろう、承太郎はひどく穏やかに笑った。許されるような気がして、ぼくはどうしようもなく切なくなった。
「物足りないなぁ、毎日が」
「俺は嫌いじゃない」
 こんな毎日が、日常が、変わらない世界が。承太郎は達観している。見た目に似合わず真面目な男なのだ。真面目で熱い、燃えるような男なのだ。
(ズルい)
「お前、このあと暇なんだろ? ちと付き合えよ」
 承太郎はそう言って、温くなったコーヒーを飲み干して立ち上がった。ここじゃあ煙草も吸えないと、不良らしい言葉を吐いて。


 なにをするでもなく、歩いた。駅から離れて、流れる川縁を行く。承太郎の背中を追って、のんびりとした時間が流れる。まだ午前中の街は、どこか眠たげに白い。
 連日の晴天に、川の水は少なかった。上流の川から分岐して溢れないようにしている川なので、雨の降らない日は枯れている。
「ここに住んでいる魚は普段どうするんだろう? こんなからっけつじゃあ、水場が取り合いだよ」
「そういうときは上流に行くさ、川を登るんだ、あいつらは」
 ぼくの疑問にあっさりと回答を出す承太郎に、ぼくは、ふうん、と抜けた返事をした。川を登って、下って、登って下って。それの繰り返しの毎日に、彼らは何を思うのだろう。
「疲れちゃいそうだね」
「習性だから、そうでもないんだろ」
 厄介な感情を持っているのは人間くらいなのだと、承太郎は言った。悲しいとか嬉しいとか辛いとか、そういった簡単な感情は動物にはあるが、魚類には無いと承太郎は言う。「じゃあ痛みは?」とぼくが聞くと、「魚に痛覚はねぇんだよ」と笑った。
 誰が決めたんだろう。魚が痛みを感じないと、感情を持たないと。だって、『泳げたい焼きくん』でも、魚に感情はあったじゃないか。ぼくは思うが、よくよく考えて見れは、あれは人間が魚を動物に例えているので、魚本来の考えではなかった。
 食事として魚を食べ、肉を食べ、動植物を育てて、命を頂いていくそれは、なんだか滑稽にも聞こえるが、だからと言ってベジタリアンになるつもりなどさらさらない。
 なので、魚の痛覚も感情も、考えない方がいいなと、ぼくは思った。
「鯉だ」
 川というには忍びない、水たまりのようなところに一匹の黒い鯉がいた。承太郎にも、指差して教えると、ああ、なんて寂し気な声をあげた。
「独りだね」
「間抜けだな」
 ゆらゆらと、尾鰭を揺らす鯉は、一見穏やかに見えた。独りなど辛くも悲しくも無い、雨が降ればまた何処かへ流れるのだと言うように、ゆらゆらとしている。
「雨が降ったら、また流れて行くだろ」
「そういうものか」
 またゆるり、歩いて、ぼくは何処へ行くのかを聞かなかった。聞いたところで、当てなどあるはずも無いのだ。
 ああ、あの時の旅路の様だなあと、ぼくは目を伏せた。柔らかな風が髪をくすぐり、名前も知らないよく耳にする鳥の囀りが聞こえた。懐かしく、穏やかな、それに混じる、煙草の匂い。
 目を開けると、承太郎が煙草に火を付けて、ふう、と息を吐いた。青白い空に、紫煙が舞って溶ける。
 この時、ぼくは気がついた。承太郎が何処へ向かっているのかに、音の溢れない、静かな川縁。自然の音だけが、優しくぼくらを包んでいて、ぼくの胸の中にあったわだかまりを忘れされて行く、そういう場所に。
「承太郎」
 馬鹿な自分に、ようやく気がついたぼくは、なにやら情けなくなって、泣きたくなって、仕方ないので笑って言った。
「承太郎、ありがとう」
 「なにが?」なんて、訊くので、ぼくはむず痒くなるのを抑えながら「別に」とそっぽを向いた。もうすぐ川が終わる。溢れる車の音と、人々の会話がある隣の駅へついてしまう。
 この理由も行き先もない散歩道の終りが見えた。
「ほれ、もうすぐつくぜ」
 承太郎が、ぼくの思いに反してそういった。しばらく道路沿いを歩いて、目の前に現れたのは、ガチャガチャと騒がしい音を連想させるパチンコ屋である。
「一先ず、あぶく銭こさえて、ゲーセンでも行こうぜ」
「はぁ?」
 目くるめく騒音。いや、それ以前に、ぼくらは未成年で、しかも学生服なのである。店に入ることだって、ましてや台の前に座ることさえ許されるわけがない。
「馬鹿じゃないの?」
 呆れて言う、補導されに行く様なものだ。ぼくはため息をついて承太郎の腕を引いた。少し離れた喫茶店の前に立って、もう一度、馬鹿じゃないの? という。
「スリルが欲しいんだろう?」
 承太郎は、にやりと笑って、店先の灰皿に煙草を押し付けた。ぼくは頭を抱えてため息をつく。
「ダメダメ。お開きだよ、承太郎! 目が覚めたよ承太郎。ぼくらは学生だ。学校行ってまともに勉学に励むよ! ほら、駅はこっちだ、承太郎!」
 ぼくは、とうとう思い出した本来のぼくのするべき事をするために、承太郎の学ランの袖を掴んで駅に向かった。「連れないな」なんて承太郎が言うものだから、しょうがなく、放課後の予定をあけてやる。
 授業が終わったら、承太郎とゲームセンターに行こう。そこにもあそこにも、何処にだってある、似たような昂揚感を求めて。



2013/3/12





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