そこにある日常の名前
 

 電車を待つときに、犬を連れている人を見た。その犬は、凛々しさをもたず、どちらかというとぼんやりとした顔たちで、静かに主人の横に立っている。
 車内で大きな顔と体を、器用に横たえて座る姿はどちかというと可愛らしいと言わざるを得ない。しかし、その脚も、頭も、獣らしくて大きいのだから、きっとやる時はやるのだろうと思った。
 主人はというと、その犬と同じような柔らかい顔をしていた。年老いた顔には小さな丸いサングラスを掛けている。
「席、案内しましょうか?」
 そう言って近寄った女性が、犬の背を撫でようとした。主人はハーネスを握っているわけではないが、確か盲導犬とはハーネスをしている間、仕事のモードに入っているという。
 どうするのかと思うと、老人は慣れた様子で声のする方に微笑みかけた。
「ありがとう、でも大丈夫ですよ」
 女性が決して迷惑でないという様子で言う。女性はあっさりと引き下がり、少し離れた席に腰を下ろした。
 老人は入口に立っているので、承太郎は自然にその老人の斜め後ろに立った。
 犬は静かに座り、主人は窓の奥を見つめていた。車内は静かで、空いている。ガタゴトと、揺れるそれは、ここにいる全員を元あるべき形に返していくのだ。



「で、君はその犬を見て、それもいいなと思ったわけだ?」
 花京院はマグカップに注いだ珈琲に色が変わるほどミルクと砂糖をたっぷりいれて口に含んだ。
 対象的に真っ黒とも言える珈琲を飲んで、二人は食後を楽しんでいた。
 承太郎と花京院が一緒に暮らし始めたのは、そう昔の話では無い。そして、さしたる理由があったわけでもない。理由はないが、こうしてともに過ごす時間は昔からちっとも変わっていない。年は取ったが、相変わらず友情のような、愛情のような曖昧で緩い関係を続ける。ここしばらく、承太郎は幽波紋を使うことはほとんどなくなった。花京院はというと、昔からそれに慣れすぎていて、ふとした瞬間に指先から緑の光が零れてしまう。
「犬ねえ。ペットは飼いたいけれど、いかんせん、ぼくらには甲斐性がないじゃあないか。犬だって猫だって、爬虫類だって世話は必要なんだよ」
「だよな」
 淹れたての珈琲は白い湯気で承太郎の視界を燻らす。それが鼻の頭に当たるのがちょうど良く、承太郎は何度かマグカップを口元に運んだ。
「そのおじいさんは、ずっと目が見えないのだろうか。それとも、最近見えなくなったのだろうか。いろいろ理由はあるにしろ、盲導犬とペットは多いに違うしね」
 暗に諦めてください、と、花京院がいうので、承太郎もそうだなと、相槌を打ってその話は終わった。BGMにしているクラシックが、何番だか忘れたが、花京院の好きな音を奏で始めた。耳触りのよいピアノの音色が、夜を濃くしていく。
「コーヒー、お代わりいるかい?」
「いや、もう」
「あれ?」
 立ち上がった花京院が、呟いて窓へとと近づいていく。どうかしたのか、と問うと、花京院はカーテンを薄く開けてから、小さく「雨だ」とつぶやいた。
「雨?」
「外にスニーカー干してるんだ」
 窓を開けると、冷たい風がカーテンを揺らして室内に入ってくる。手早くベランダに出た花京院は白いスニーカーを両手でつまむと、前かがみになって室内に戻ってきた。
「いやあ、寒い」
 両手を擦り花京院が、微かな白い吐息を吐きながら笑った。




 プァーン、と、間の抜けたブレーキの音に、承太郎は、はっとして目を開いた。電車がスピードを落としながらゆっくりと停車する。いつの間にか一日が終わる。承太郎は同じような毎日に若干あきながらも、そうして変わらない場所へ帰っていくことがとても心地よいと思っていた。
 扉が開いて、不規則に人々が下りてくる。体を横にずらしてその人の波をやり過ごしていると、背後から枯れた声が聞こえた。
「すみません、これは快速電車で間違いないですか?」
「あ? ああ、そうだ」
 あの、盲導犬を連れた老人だった。横に控える盲導犬はハーネスを落としているが老人を守るように凛々しく立ち勇んでいた。
「そうか、遅延があったみたいで、ダイヤが乱れると困るね」
 なんとなく、会話をつづけてしまった。承太郎は人の切れた扉に老人を誘った。困ったように後ろから盲導犬が付いてくる。大きな足で踏みしめると、開いている椅子の前にすっとしゃがみこんだ。
「ありがとう、嫌がる人も多いんだが、あんたはいい人だな」
 老人がゆっくりと腰を下ろしたので、必然的に承太郎はそれを見下ろす形になった。一見すると、それは承太郎が盲目の老人に対して悪意を出しているようにも見えるのだが、承太郎は至って冷静に老人を見つめている。
「その犬は、利口だな」
「そうだね、私のために人生を差し出してくれるのは、妻以外に彼女しかいないからね」
「ハーネスをしている間は触れてはいけないんだったな」
「ああ、そうだね。そういう決めごとがあるな」
 床に伏した犬が、老人の声に反応してゆったりと顔をあげた。
「興味なさそうだな」
 承太郎は、開いている老人の隣に腰をおろした。窓の外を、真っ暗な夜が流れていく、向かいの硝子に映るのは黒い髪と、白いコートを着た男で、だがその姿も、この老人の前では無意味だ。
「ルールとか法律だとか、そういうものに関してもう私は興味がないんだよ。好きに生きればいいじゃないかと。それに妻と彼女がいれば十分だ」
 がたん、と、電車が揺れた。体が老人の方へ傾くのを感じながら、承太郎は薄暗い電灯を見つめた。
「次の駅だね」
「ああ」
 次の駅で、承太郎は降りる。老人はどこまでいくのだろうかと思ったが、承太郎は関係ないかとため息をついた。
「君には待つ人がいるのかい?」
「ああ」
「そうか」と、老人は、乾いた声で哂った。その声が酷くさっぱりした清爽にあふれていて承太郎は驚いた。
 次は――、と、耳慣れた駅の名前をアナウンスされ、電車はゆっくりと止まった。



「それで、君はそんな人生もいいなと思ったわけだ」
 湯気で曇る浴室で、花京院の声はいつもより高く響いた。シャワーの音でそれはさらに聞こえにくくなる。浴槽の淵に腕を垂らして、承太郎のことをまっすぐ見つめた花京院は、あきれたような声で嗤って見せた。その声も、あの老人と同じくさっぱりとしているので、承太郎は驚いて目を開いた。
「なに?」
「いや、いいさ」
 ざ、っと流して立ち上がると、花京院の目線も承太郎の体を追った。年を重ねてなお、承太郎の体は美しい。花京院も、それなりに鍛えはしているのだが、やはり腹の真ん中に残る無様で気味の悪い傷の所為で、思うように体を動かせないということもある。
「ぼくの目が見えなくなったら、君が犬の代わりをしてくれたらいいのに」
「そりゃあ、どうも訳が違うだろう」
 承太郎が呆れたように眉をひそめて、湯船でだらだらとしている花京院にそろそろ上がれと声をかけた。何でこんな狭い風呂に男二人で入るのだろうと、花京院は曖昧になった自分の頭で考えてみて、彼の肉体が肌が、触れ合うことが、自分にとって一番安堵するからなのだろうと思った。
「のぼせる前に上がるから、先に出ていてよ」
 狭い浴室に比例して、脱衣所も狭い。いや、狭いのではなくて互いが規格外なだけなのだろう。これがもし、男女であれば、それは心地よい二人の空間に成りえたのだろう。だが、それは恐らく互いに求める世界ではないのだ。こうして肌を触れ合わせるのは、やはり承太郎であって欲しいし、花京院であって欲しい。

 結局そのまま承太郎も湯船に浸かって、互いに肌が赤くなるまで茹っていた。二人で入ったせいで、出た時の浴槽の水は半分になっていた。何度か触れあうだけのキスをしてから、濡れた体を気に病むそぶりもなく抱き合って、クスクスと笑いながら互いの髪を乱暴に乾かしてから、すぐにベッドに向かった。
 服を着るのも煩わしくて、裸のまま手をつないでリビングを抜ける。電気を消して、ベッドに飛び込めば、何とも言い難い浮遊感に捉われた。
「あ、やばいなあ、眠くなっちゃった」
 花京院は乾いているのに火照る体を、冷たいシーツに乗せて言った。
「冗談だろう?」
 それにのしかかりながら、承太郎は唇を尖らせる。
「ハハ、半分本気。でもいいよ、がんばる」
 がんばってすることか、と、承太郎は呆れたように眉を寄せた。「うそ、冗談」と、花京院の腕が承太郎の首にからみつく。シーツが几帳面な皺を刻んで、不規則に歪んだ。
「キスしようよ、舐めるみたいなやつ」
 ぺろ、と、花京院の舌が承太郎の唇をついた。
「犬じゃあねぇんだ」
「だって、君が犬を欲しがったんでしょう?」
 花京院の瞳が、何もない暗闇にキラキラと光る。なんの光かと承太郎が思っていると、花京院の無垢な瞳がただまっすぐと自分を見つめているので、それはきっと彼の瞳に映った自分の瞳なのだろうと思った。
「下品な奴だぜ」
「品ならあるよ、ちゃんと、ここにね」
 濡れた音を立てて唇を吸われて、耐えかねて承太郎はもちろん欲情した。組み敷いた体には、もう何度も触れているので、どこをどうすればいいのか分かっている。触れ合う前の花京院の素っ気なさも、暴かれることへの羞恥心も、すべてひっくるめて愛しく感じてしまう。恋は盲目ともいうが、確かに承太郎はそれだと自覚した。
 いつどこで、何があるか分からないのに、花京院との生活は一生変わらない気がする。
 この先どれだけ老いても、老いても、老いても、老いても。自分が、彼の目となり鼻となり頭となろう。




「あれ?」
 休日の昼過ぎ、花京院と承太郎は外出していた。花京院が、今朝、開口一番に井の頭公園に行きたいというので、承太郎はそれを快諾した。不健全に、引籠っているのも手ではあるが、たまにはデートもいいだろうと思ったのだ。
 ぶらぶらと買い物を済ませて、二人は公園の湖の周りを散策していた。散策といっても、木々を見るよりも人の方が目に入る。これだけ人がいるので、もちろん誰も二人のことを気にしていないのだ、という花京院の考えに従い、ごく自然に手をつないでみた。
 そんな矢先に、花京院が声をあげた。
「犬」
 ぱたぱたと、はちきれんばかりにしっぽを振った犬が、承太郎の前にトコトコと近寄ってきた。あの盲導犬と同じく、黄色い毛並みにぼんやりとした表情だった。違いと言えば、あのグレーのハーネスを付けていないところと、代わりに可愛らしいグリーンのスカーフをしていることくらいだ。
 わっふ、と、いうような声で犬が鳴いた。
「君が動物に懐かれるなんて意外だよ」
「懐く?」
「ほら、うれしくて、しっぽブンブン振ってる」
 犬のやわらかな筋肉の付いた尻の付け根にある太い尾は、確かに千切れんばかりに振り回されている。そのため、踏ん張りを利かせている後ろ足までがゆらゆらと揺れていた。
「こら、急に走ったら危ないよ」
 三十代程の女性が、小走りで犬の後を追いかけてくる。
「すみません」
 放してしまったのだろう、地面に落ちているリードの先を握って、女性は何度も頭を下げた。頭を下げるふりをして、承太郎の顔を三度、花京院の顔を二度見つめた。怪我は無いかと訊いてくる声に、不自然な緊張が篭っていることに二人とも気がついている。
「コイツじゃあねぇよ」
 犬の頭をわしゃわしゃと撫でて、承太郎は言った。犬の舌が手のひらを舐める。
「そうかい、残念だね」
 じゃあね、と、犬に手を振って、承太郎と花京院は犬と飼い主とが向かうのと逆方向に歩き始めた。背後で引き留めるような声が聞こえたが、あえて無視をした。
 木漏れ日の中をしばらく無言で歩いて、気がつけば公園から出て、吉祥寺の駅まで歩いてしまっている。ざわざわとした人混みを、二人で並んで歩くと、一般の人よりも頭一つ飛び出している。
「なあ、承太郎。ペットショップ行こうよ」
「飼う気もねえのに冷やかすのか?」
「見るのはタダだよ」
「見せもンじゃねぇだろ」
 人の波を避けて、信号で立ち止まって二人は顔を見合わせた。花京院の顔は「ついこの間まで犬が飼いたくて仕方がなかった癖に」という嫌悪の表情が伺えて、承太郎は驚いて少しだけ目を丸くした。
「まあ、見せ物じゃあないことは確かだよ」
 反省したように花京院は、苦笑いをして見せた。生き物ということに、というよりも生きていると云うことに対して、敏感すぎる花京院の感情は、こんな時にですら優しく、穏やかで、情熱的なのかと、承太郎は何となくにやついた口元に手を当てた。
「なに?」
 信号が、青に変わった。人が一斉に流れだして、その流れに言葉をはぐらかす様にして承太郎は一歩踏み出した。遅れて花京院が踏み出す。白とコンクリートの境目を、靴の裏が踏みつけた。
「いや、別に。腹減ったな、飯食おうぜ」
「君って本当自分のことしか考えていないよね」
 そうでもない、と、心の中で呟きながら、承太郎は呆れるくらいに大きく欠伸をした。花京院が、何を食べたいか訊いてきたので、そうだなと考えながら、ふと、対面の人の群れを見た。
「承太郎、和食と洋食どっちが……」
 花京院は返事のない承太郎の顔を見上げて、それからその視線の先を追った。横断歩道対面から歩いてくるのは、右手にハーネスをもった老人だった。黒い老人の服と、黄色い毛並みのコントラストが効いていて、その姿は神々しく見える。
「盲導犬」
 横断歩道の真ん中ですれ違う。犬の方が承太郎の顔を見上げたのは一瞬で、精細な表情を今一度、歩道の先へ向けて、犬は歩くことを止めなかった。目の見えない主人のため、重苦しいハーネスを付けて道を進む。ここであの盲導犬が立ち止まっていれば、老人は首を捻って立ち止まってしまっただろう。それを、その犬は分かっているのだ。これはとてつもない信頼関係を見せつけられたものだと、青い点滅を始めた横断歩道を急ぎ足で渡る。
「驚いたな」
 花京院に合わせてやりたいと思った。あの犬の魅力を、それがまた、偶然こんな風に出逢えるものかと、都合の善さに承太郎は花京院を見た。
「あれが例の盲導犬か。すごく美人だ」
「見ただけで性別までわかるのか?」
「そんな訳ないだろう。そう見えただけだよ」

 他愛のない話を繰り返し、昼食を終えて、アフタヌーンティーを楽しんでいる二人の携帯の内、承太郎の方が激しく震動した。胸ポケットから取り出したその電話機を開いてディスプレイを見る。
 花京院に断ってから電話に出ると、研究員が慌てた様子で話しかけてきた。込み入った話になるのかと問えば、即答が返ってきた。承太郎は腕時計を見やってから、電話の相手に一時間後には向かう、と答えてから、電話機をまた折り畳んだ。
「急用?」
「まあな」
 咥え煙草に火を点けて、承太郎はため息交じりに煙を吐き出す。花京院は、自分の薄い携帯電話を取り出して開くと、かちかちと忙しくボタンを押して調べ物をしている。その姿をぼんやりと見つめながら、久々の休日に、恋人との休息に出勤か、と、明らめムードで溜息をつく。
「四十分くらいだね、電車も混むから、行くなら早めに出た方がいいよ」
「嫌じゃあねえのか?」
「そういう仕事を選んだんだろう」
 ほら行ってきなよ、と、花京院は手のひらを払うようにして承太郎を見送って、一人になった珈琲ショップで、冷めた紅茶を啜った。承太郎の吸い挿しの煙草が、まだ消えていない火種を燻らせているので、指先でつまんで押しつぶした。
 花京院は、承太郎の姿が完全に見えなくなって、恐らく駅まで行き着いたであろう時間がたっぷり過ぎてから、ウエイターに紅茶のお代わりを所望し、鞄の中から取り出したシガレットケースを開いた。
 メンソールの煙草が十五本、細いライターが一つ入っている。承太郎の前で、煙草を吸うことも少なくはないが、花京院は何となくそれを隠している。
 昔さんざん喫煙について窘めていたことが裏目に出ている。喫煙なんて体に良くないだとか、そういう言葉を繰り返し繰り返し言ってきている癖に、今こうして嗜む程度に煙を吸う自分に、花京院は小さく笑って見せた。
 かららん、と、入口のカウベルが鳴った。来客に、ウエイターが素早く対応する。火を点した煙草の煙を吸って、花京院はちらりとそちらの方を見つめた。薄い黒のサングラス、片手にはグレーのハーネス。あの盲導犬を連れた老人で、彼はゆっくりとした足取りで店の奥まで進んできた。
「あの」
 花京院は、自分のテーブルの横を通り過ぎようとした老人に、極力驚かせないように声をかけた。老人の感じないはずの視線が、花京院に向けられた。
「奥の席、結構混んでるんで、よろしければ合席されませんか?」
 ちょうど承太郎がいなくなった分、テーブルは余裕がある。花京院は、煙草がいやでなければ。と口添えしてから、ほほ笑んだ。見えていない相手だとしても、雰囲気でその柔らかさが伝わる。
「ありがとう、盲人が珍しいという雰囲気でもない君の声は穏やかだね」
 老人は、犬に向かって、座れと命令してから、自分もゆっくりとテーブルに手を伸ばした。ウエイターが、老人の手を椅子の背もたれに導くと、まるで見えているように老人は腰かけた。椅子の下に、犬はきちんと収納される。
「すみません、連れが仕事で急に出てしまったので、話をしてくれる人が欲しかったんです」
 言い訳じみた事を言い、花京院は煙草を揉み消した。
「それはそれは。君の声で、その気持ちは十分わかる」
「そういうものですか。何を注文されますか?」
 花京院は、メニューを引き出して読み上げようとしたが、老人はそれを手で制して、ウェイターに珈琲を頼んだ。
「君の恋人は、随分と仕事熱心だね」
「ぼくも変わらないですよ。久しぶりの二人の休みだったので、ゆっくり話をしたかったんですけど」
「若いうちは、いろいろやる方がいいよ」
 老人は、運ばれてきた珈琲をブラックのまま飲んで言った。おそらく無意識だろう、掌がゆっくりと椅子の下に向かって、老人は犬の大きな頭を撫でた。
「実は一時間前くらいに、駅前の横断歩道で擦れ違ったんですよ。そしたら、ぼくの連れが、あなたのこと以前電車で見たと言っていて、偶然入ってこられたんで声をあげてしまったんです」
「はて、最近はどうも盲人には冷たいのでね、声をかけてきたのは片手程度しかいないのだけどね」
「え、ああ、あはは」
 花京院はしまった、と冷や汗をかいた。相手が承太郎などという巨大な男であることを、見ず知らずの人間に聞かせたところで気味悪がられるだけである。
「ああ、あの時の――」
 どうやら、別の人のことを思い出してくれたようで、花京院は胸をなでおろして紅茶に唇を当てる。老人は落ち着いた様子で珈琲を飲みながら、花京院との会話に興じた。
「こんな目暗のおいぼれの箴言を、聞いてもらおうなんて思ってはいないが、とても楽しいな、人と話すということは」
 かちゃん、と、カップがテーブルに戻された。老人が、サングラスの向こうで目を細める。懐かしむような気配だった。それを機敏に感じて、盲導犬が前足の上に載せていた顔をあげた。やっと行くのか、とでも言いたげな緩い表情だった。
「ああ、そろそろ行くかな」
 椅子の下から、するりと飛び出してきた犬の名前を、エルマーといった。喫茶店を出る頃には、昼過ぎの街は雲が出て薄暗く少し冷えていた。
「触っても?」
「ああ、どうぞ。彼女は撫でられるのが好きなんだ」
「ぼくの連れも、犬を飼いたいと言っていて、確かにわかりますね」
 首の下をなでてやると、彼女はハーネスを付けているにも関わらず心地よさそうな顔をした。
「ペットとして飼うのなら、小型犬がいいと思うよ。でも、君はともかく、彼はペットは飼わないだろうね」
「え?」
「君の連れは、きっと動物を飼うことはしないよ。彼はそういうリスクを考えられる人だと私は思うからね」
 承太郎の話はしなかったし、男だということは言わなかったが、老人は分かっているというようにそう結論付けた。花京院が、否定しようとも、肯定しようとも、かまわずにそう続けるような気がした。
「君の言葉は、彼の言葉と同じ色をしているから、すぐにわかったよ」
 声の色など、花京院にはわからない。
「また会ったらぜひ声をかけておくれ、その前に、彼女が見つけそうなものだけれどね」
 去っていく老人の後ろ姿を見て、花京院はただぼんやりと空を見つめた。





「そんなわけで、ペットは飼わないし、ぼくらはモラルの欠けた関係だし、何も変わらないでいられそうだよ」
 見つめあう瞳の中に、互いの姿を見つめて、花京院の言葉に承太郎はため息をついた。何も変わらないと断言する言葉に、半ば辟易する。
「なあ、こういう時くらい、黙れないのか?」
「こういうときって、こういうことをするとき?」
 白い歯を剥き出しにして笑った花京院は、承太郎の首に長い腕を絡めて言った。触れる素肌が、熱を持っている。
「なあ、犬、飼おうか」
「ばかだなあ、お前ひとりで十分だぜ」
「あー。ぼくも大きな犬は、君ひとりで十分、か――……」
 かも、と、言おうとした花京院の唇に、咬みついた承太郎に目を細めて、深くキスをしてみた。快楽だけを求めるのは、人間同士にしかできないということを、何よりも愛しく感じながら、日常の快楽に、どっぷりと浸かっていく。
 いとしいものは、互いの熱だけ、と。




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