眼鏡ごしの空
 

 放課後の図書室で、目当ての本を手に取る。雑誌だったり、写真集だったり、例えば小説だったりする。自分でも驚くべき雑食さだけれど、ぼくにはもう一つ、驚くことがある。
「……まただ」
 本の後ろに入っている、図書カード。今はシステムが発達して、ほとんど見ることが無いのだが、ぼくの学校ではシステム導入にかける資金を出し惜しみしているのか、未だに紙のカードが使われている。ぼくにとっては、そういったアナログなもののほうがありがたい。携帯電話だとか、ノートパソコンだとか、そういったもので常に誰かと繋がっているのは苦手だった。
 メモリーなんて、実家と母と、父のものしか入っていない、ぼくの携帯電話は、ほとんど鞄の中で出番を忘れて眠ってしまっている。
「くうじょう、じょうたろう」
 ぼくは誰もいない図書室で呟いた。何度もこの写真集を借りている生徒の名前だ。空に信条の条、承るに、太郎。どんな男だろうかと思い、クラスメイトの姿を思い出す。クラスメイトの顔くらい全部覚えているだろうと思っていたが、ぼくは数人しか思い浮かべることが出来なかった。
 今日の本は、写真集だった。青空ばかりが写されている写真集だ。借りるのは三度目になるが、それと適当に見繕った小説を手に取りカウンターに向う。放課後の図書室に訪れる人は少ない。とくに、春休みを目前にして短縮授業ばかりになった最近では。
 眠たそうに業務をこなす年配の司書は、すっかり顔なじみだった。ぼくはポケットにしまっていたオーバル型の伊達眼鏡をかける。眼鏡屋に並んでいて、セールで三千円だった眼鏡だ。
「お願いします」
「はい」
 無駄な会話をしないこの司書が、ぼくは好きだった。母の年齢に近いはずなのに、化粧はほとんどしていなかった。ぼくは自分の母を思い出す。共働きでほとんど家に居ない母だが、いつも朝、ぼくに向かっておはようと笑う。赤くひいた口紅が、彼女の第一印象だ。血色のいい肌は、幾重にも重ねられたファンデーションの力だと信じている。
「春休みだから、最長二週間まで貸し出しできます」
 何度目かになる彼女の説明を耳に入れて、ぼくは頷いた。
「春休みも開けてますか?」
「ええ」
 彼女はそういいながら、貸し出しカードを取り出すと、返却予定日をスタンプしてまた戻した。受け取ってぼくは小さく会釈した。
 テーブルに置いておいた学生鞄に本をしまってから、図書室を後にする。図書室の、あの静けさを引き連れたまま、人気なく暗くなり始めた校舎を歩く。校庭で部活に勤しむ運動部の声が響いた。
 窓の外を眺めながら職員室の前に差し掛かったところで、三メートルほど先の扉がふいに開いた。ガラガラ、と引き戸が開いて、背の高い男が一人出てきた。進路相談をしにきたというよりも、明らかに悪いことをして呼び出されたという風貌だ。ぼくは立ち止まる。だって、その男はいわゆる不良らしいルックスをしていて、目が合ったら妙なことに巻き込まれそうな雰囲気を漂わせている。
 鞄を胸に抱き、俯きながら通りすぎる。職員室のなかから、もう悪さをするなよ、と、男を咎める声がした。うるせえ、と帰す男の横を、気配を消しながら全力で通りぬけた。背後でぴしゃりと扉が閉まる音がする。
 ぼくは足早に下駄箱を目指した。考えてみれば、全力で通り抜けずに図書室に戻ればよかった。彼だって、教師との会話が終われば下校するために下駄箱を目指すに決まっている。
 ぼくは、さっと血の気がうせるのを感じた。息が上手くできない、指先が冷たい。中学の頃の自分を思い出す。あの頃のぼくは、正義があった。悪しきを挫く、正義に憧れていた。
 ゆえに、標的になった。目立つことは行うべきではないという、社会を体験した。
 きゅ、と、後ろのほうで上履きが擦れる音がした。ああ、早く下駄箱へ向おうと思うのに、ぼくの足はまるでそこに根を這ってしまったかのように動かなくなってしまった。
 目を閉じる、せめて男がぼくを木か何かだと思い、横を通り過ぎてくれと願う。早く、早く。
 そう思うものの、気配は一向に近づいてこなかった。心臓が爆発しそうなくらいに高鳴っている。恐る恐る振り向くと、男の背中が見えた。短髪で、背の高い姿。長ランをはためかせる姿は凛々しく、シャンとして見えた。ぼくの知る不良という者は、大抵背中を丸めて肩を怒らせながらポケットに手を突っ込んで、且つ派手な髪型をしているイメージだったが、彼の後姿はそれとは全く違っていた。
(……あっちは図書室と、文化部の棟しかいけないけれど)
 ぼくは角を曲がっている彼の姿を見つめながらぼんやりとしていた。頭の中に浮かんだクエッションマークを拭えないまま、もやもやとした奇妙な感情を胸に抑えて下校する。
 食事をして、入浴を済ませパジャマに着替えて、ベッドに潜り込んで開いた写真集、それから図書カード、そしてあの不良の後姿。何かを思い出そうとして、思い出せなくて、眠れないかと思ったが、全くそんなことは無くて、ぼくは規則正しく襲い掛かる睡魔に、あっさりとこの身を投じていた。




「花京院」
 ぼくの名前を呼んだのは、承太郎だ。埃臭いモーテルの一室、ぼくらは彼の母を助ける為の、そして悪の根源であるディオを倒す為の旅をしている。
「なんですか、承太郎」
 ぼくは、承太郎の手にしている一枚の写真を見た。
「これ、知ってるか?」
「……月?」
「写真だ」
「月の?」
「ちげェ、空だ。空の写真集の裏表紙だ」
「空の写真集なら空の写真を見せてくれよ」
「これしか持ってこなかったんだ」
 承太郎は上等とはいえないものの、この旅では幾分マシなベッドに横たわった。ぼくは隣のベッドに腰を下ろして、承太郎の手から写真を受け取る。青い空に浮かぶ白い月。
「綺麗だね」
「そう思うか」
「うん」
 承太郎は満足げに笑って見せた。ぼくも、美しい写真だと思って、それを彼に返す。
「でも、それがどうかしたのかい?」
「いや、なんとなくオメーに見せてやりたかったんだ」
 承太郎ははにかむように言って、それを申し訳程度に添えられているチェストに置いた。
「コッチじゃあ手にはいらねェ、日本に帰ったら見てみろ」
「日本に、帰る、か」
「……なんだ、帰らないのか?」
 不穏な空気を察した承太郎が、身体を起こした。真っ直ぐに見つめてくるグリーンの深い瞳が、ぼくの心を縛り付ける。
「そうじゃなくて。そうじゃなくてさ、なんか君がそう言うと、本当に帰れる気がして」
「気がするって、オメー、さっさとあの野郎をぶっ殺して帰るんだ。あんなクソアマでも母親だ、死なれちゃ困るだろ」
「解ってる。解ってるんだ、ただ、無事に帰れる保障なんてどこにもないだろう」
「弱気だな」
「ぼくはいつだって弱気ですよ。それに」
 ぼくは、もう一度写真を手に取った。
「帰れたら、なんていうのは、その、なんか死んじゃうみたいな気がするじゃないですか」
 死んじゃう、と言ったときの承太郎の顔は、とても切なそうに歪んだ。
「だから、明日から空の青さを目に焼き付けることにします」
「そりゃ……まあ、止めねえよ」
「はは、でも機会があれば見てみたいな」
「おう」
「なあ、承太郎」
「あん?」
「ありがとう」





「わあ」
 フっと、身体が落ちたような感覚がして、ぼくは目を覚ました。目覚ましがなる数分前で、なんだか酷く損をした気分になる。
「朝……、全然寝た気がしない」
 後頭部を撫でながら欠伸を噛んだ。枕元には眠る直前まで見ていた写真集がある。それを見て、ぼくはさっきまで見ていた変な夢を思い出した。ふと、思い立って写真集の裏表紙を見る。青い空に白い月が写されたそれは、物静かで幻想的な美しさだった。機会があれば見てみるよ。夢の中で自分がつむいだ言葉が、はっきりと思い出せる。そんな夢は中々無い。心の中にあった愛情に似た暖かい感情も、それと同時によみがえってきた。
「あ」
 あ、と、言った瞬間、ぼくはおお慌てで口元を押さえた。あ、思い出した、と、いいそうになった。
「え、なんだこれ、冗談だろう」
 なんだろうか、不思議な感覚だった。ぼくは花京院典昭で、生まれも育ちもこの家だ。柱に刻んだ小学生までの身長の痕、毎朝起きるベッド、両親の顔。父は仕事で海外に旅行に行くが、ぼくと母は国内旅行しかしたことが無い。中学生の頃は、ちょっとした出来事からいじめに合ったものの、両親に心配を掛けたくなくて、必死でそれを隠して生活していた。高校は、いじめばかりに精を燃やしていた馬鹿たちが入れないだろう中の上の高校に進学したし、現在まで皆勤賞だ。
 だから、海外にいったこともなければ、人には見えない何かが見える、というわけでもない。両親ともそれなりに仲がいい。
 それが花京院典昭のはずなのに、ぼくの中にはもう一つの奇妙な記憶があった。なにか不思議なものが見えるぼく、不仲な両親、エジプト旅行、金色の髪の悪魔、友人であり恋人である空条承太郎。写真集を見る、という、約束。
 どちらも疑うことなく真実だとぼくにはわかった。どちらも正しい記憶で、花京院典昭の記憶だ。
「空条、承太郎」
 ほろり、と、頬を何かが滑り落ちた。涙だとすぐに解る、わかるけれど、止められない。ほろりほろりと零れ落ちるそれは、あっという間に手のひらを水浸しにした。
「承太郎」
 ああ、愛しい。名前を呼ぶと、胸の奥から暖かい温泉みたいなものが幾重にも重なりあふれ出してきた。承太郎、承太郎。あの図書カードに書いてある、凛とした男の名前。
 憧れた友人、強くて格好いい、大切な友人。
 次に思い出したのは、昨日の薄暗い廊下を歩いていく承太郎の後姿だった。彼は図書室に向っているのだ。広い背中、短い髪、承太郎。
 三度目に借りた写真集、ようやく彼のことを思い出すに至ったのかと思うと、ぼくは情けなくなった。図書カードを取り出して、もう一度見る。一番上に承太郎の名前、それが去年の十二月。恐らくこの写真集を図書館が仕入れたのがその日で、次に知らない生徒の名前がいくつか続いている。そしてまた承太郎の名前。その下にぼくの名前、そしてまた承太郎の名前、ぼくの名前がそのすぐ下にあって、また間に知らない生徒が一人入って承太郎。そしてぼくの名前。
「なんだよ、これ、なんでもっと早く言ってくれないんだ」
 承太郎も、きっと今のぼくと同じ気持ちになっているのかもしれない。なら、どうして声をかけなかったんだろう。ぼくはパジャマを脱ぎ捨ててベッドに放ると、乱暴に顔を洗って、玄関で靴を履いた。
 朝ごはん食べないの、と、問う母に、謝って外に出る。まだ、登校には早く、息は白かった。



 無意識にかけた眼鏡が、外気に触れて曇った。銀色の縁の、オーバル型の伊達眼鏡。なんでぼくは眼鏡をかけているのだろう。それは、簡単に説明がついた。今のぼくじゃないぼくが、承太郎に言った言葉だ。
(眼鏡をかけるだろう、そうすると、ぼくは社会と遮断されたんだ。友達の居ないぼく、変なものが見えるぼく、そういったものが、一気に遮断される。眼鏡の中から見る世界は、君たちの世界とは違っていて、ぼくは何を見えたって関係ないんだ。ぼくを護ってくれるんだ)
 薄いプラスチックで、何が変わるんだ。ぼくは思う。全く、子どもじゃないんだから妙な理屈で彼を困らせないで欲しい。それさえなければ、当の昔に彼はぼくの記憶を呼び覚ましてくれていたかもしれない。こういうのなんていうんだろう、タイムトラベル、パラレルワールド、いや。
「ああ、一巡って言うのかな」
 ふと浮かんだ言葉を口にするのは、昔からの癖だろう。
 ぼくは下駄箱で靴を脱ぐと、乱暴にそれを仕舞う。上履きを履くのにももたついて、何度か足が絡まった。息が上がる。強い背中を思い出す。なんどもなんども立ち上がる、承太郎の後姿。憧憬の背中。
「はあっ」
 図書室の前で、ぼくは膝に手を突いて、肩で息をした。短く吐いて、呼吸を整える。寒いはずなのに、薄っすらと汗が滲んだ額を拭う。
 扉は簡単に開いた。静かな音を立てる。司書の女性が、驚いたように目を開いた。
「お、おはようございます」
 まだ準備をしているのだろう。彼女は小さく笑ってまた作業に戻った。
 写真集の並んでいた書架に向う。画集や写真集は図書室の一番奥にある。歴史書の並ぶ本棚を過ぎて、ぼくは心臓が止まるような気がした。
「お、おはよう、承太郎」
 見慣れた、というより、それしか直接見ていない。空条承太郎の後姿だ。記憶の中では、承太郎は帽子を被っているのに、ぼくの知っている彼は被っていない。そういうのも、切っ掛けとして非常に解りづらかったんじゃないかと、ぼくは彼を責めたかった。でも、それは、ぼくの眼鏡と同じなのかもしれない。
「遅かったな」
「……君が、超人的すぎるんだよ」
 ぼくは言って、鞄の中から写真集を取り出した。表示は青々とした空と、それから地平線広がる海が撮られた写真だ。
「これ、見たよ」
「三度目だろ」
「いつも君の名前があって、なんでこの人はこの写真集をこんなに借りるんだろうと思ってたんだ」
 承太郎は振り向かなかった。書架に向って手を伸ばしては、ぱらぱらと本を捲って、また書架に戻す。
「だからなぜかぼくも手にとってしまった。この写真は、何度見ても美しいと思ったし、君が何度も借りる理由も、なんとなくわかった気がしたし」
 それでも、承太郎は振り向かなかった。ぼくはまた、心臓がどきどきしてきた。なんだろう、もしかしたら記憶の承太郎と違って、凄い不細工になっているんじゃなかろうかと思った。いや、顔はどうでもいいんだ。記憶の承太郎は、顔が整いすぎていてまるで美術品のようだったし、まあ、グリーンのあの瞳で妥協して言いと思った。振り向いて欲しい、振り向いて欲しくない。ぼくは葛藤したまま続けた。
「でも、もっと早く言ってくれればよかったのに。回りくどいし、高校生活の間に思い出す確立なんて、本当少ないだろう。聡明な君が、なんだって馬鹿げてる」
「お前が言ったんだろ。約束なんてしちまったら、死んじまうかもしれねえと」
「そりゃ、言ったけど」
 ぼくは言い淀んだ。ぼくは、記憶の中で死んだ。
「現実になっちまったこっちの身にもなれってんだ」
「……ごめん」
「ったく」
 無意識に触れた眼鏡が、かちゃりと、小さな音を立てた。
「はずせ」
「え?」
「そいつ、もういらねえだろ」
 ぼくは思案してから、ゆっくりと眼鏡をはずした。視界をよりクリアーにするのが眼鏡の役割だ。それ越しに世界を見たって、ましてや写真集を見たって、何も見えや、まして隠せやしないのだ。
「承太郎、こっち、向いてくれ」
 ぼくは、鞄を床に置いて、そっと彼の手のひらを握った。彼もそれに応えるようにそっとぼくの手を握り返した。それは力強く、躍動的で、優しい。
「待たせて、ごめん。一人にさせて、ごめん」
「おう、待ちくたびれたぜ」
 承太郎の肩がゆれた。振り向くと同時に、彼はぼくのことを強く抱きしめた。その力強さに驚いて、ぼくが手に持っていた写真集はばさりと、音を立てると、裏表紙を天井に向けて、床に落ちた。
「ちょ、君、泣いてる!」
 一瞬だけ見えた承太郎の顔は、記憶の彼と全く同じだった。ただ、目じりに浮かんだ涙だけはぼくは見たことが無い。もっと良く見せてくれと頼むと、殊更強く、ぼくのことを抱きしめた。
「悪趣味な野郎だ」
「だって貴重だろう、君の泣き顔なんて!」
 とくん、とくんと、承太郎の心音が、ぼくの身体に流れてきた。ぼくは強く抱きとめる彼の腕から抜いた自分の手のひらで、そっと承太郎の頬を包んだ。暖かい涙が、今朝のぼくと同じように彼の頬を濡らしていた。
 両手で包み込んで、見上げる。彫りの深い顔が、喜びの涙で濡れていた。頬を伝いぼくの顔に落ちてくる。それが頬を滑るので、まるでぼくまで泣いているみたいだった。
「もっとよく顔をみせて」
「オメーもな」
 自然と近づいた顔が、熱が、ゆっくりと触れ合った。涙で濡れて、塩辛いそれを、何度も味わうように深く口付ける。愛しさが、とめどなく溢れて溢れて、溺れそうになった。何度も離れても、この姿をぼくらは探すのだろう。彼のように、気高く力強く、凛々しくてシャンとした後姿を、何度も探すのだろう。
 そして、ぼくらを繋ぎとめて引き寄せあい、また覚え続けるのは、柔らかく見下ろす、青空に浮かぶ白い月なのだ。




2012/3/20
新刊に再録しています。




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