桜舞い散る季節
 

 閉じた手のひらには何もなかった。いつものことなので、承太郎は気だるげに体を起こした。広いベッドなのに、いつも悪夢で目が覚める。どんな悪夢だったかもしれないまま、ベッドの上で体を丸める。引き寄せた膝に腕をついて吐き出したため息は湿って具合が悪かった。
 起き上がる気にもならずに、承太郎はそうして耳を澄ませる。窓の外を、小さく叩く雨音が鼓膜を柔らかく塞いでいた。
 閉じた手のひらが、何かを掴もうとしていたことは解っているが、それがなんだったのかは、やはり靄の中に霞んで見えない。
 記憶を忘れる方法があって、それをしてから、ずっと見える夢で、それは息苦しく、痛ましく、それが哀しいという感情に似ていることまでは解ったのだが、それ以上を思い出す気には到底ならなかった。
 白いシーツに組み敷くなにかを。
 ぼんやりと、まだぐしゃぐしゃの髪を掻き回す。朝にしては早く、夜というにはもう遅かった。
 ベッドから抜け出せば、この奇妙な感覚が、懐かしい悲しみが喪われてしまう気がして、忘れたことを思い出したくない癖に、この微睡みにいつまでも捕まっていたいと思う感覚に戸惑う。
 忘れかたは簡単だった。無かったことにすることは簡単だった。だけれど、それが本当に忘れていいことだったかはどうもわからない。
 承太郎は、決新したようにシーツを這った。忘れたことを、思い出すことがどんなに辛いかを悟る。戻れない時を悔やみながら、未練がましく、この愛しい微睡みから抜け出せなかった。
 白いシーツと揃いの枕にうつ伏せになり、下に手をいれてそれを抱き抱えるようにした。
 止めたはずの煙草の匂い。懐かしい砂ぼこり。雨が降っていなければ枕とシーツと、それからリビングのクッションを干してしまいたかった。
 目を瞑って黙る。変わらない朝、眠りの来ない夜、あと何時間で太陽は部屋を照らすだろうか。
 まだ冷たい寝室の空気が、剥き出しの腕を晒した。寒いよ、と、誰かがささやいた。誰だろうかと考えているのは、すでに眠りの奥にいる、記憶の承太郎だった。それを、天井から眺めおろすような感覚を、さらに遠くから眺めている。
 記憶を捨てた承太郎にできるのは、そうすることだけだった。
 とんでもない虚無感は、承太郎の中に作り出された真空のようで、何もかもを飲み込んでいくみたいだった。
 浅くてうやむやな眠りのなかで、さ迷う手はなにも掴まない。

 桜が咲く季節まで、あと少し。



2012/3/4




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