カフカ
 

 人の一生に、どれだけの価値があるのだろうか。
 俺の生きる世界に、どれ程の価値があるのだろうか。
 そんなことも解らないまま、大切なものの一つを護る為に、大切なものの一つを失ってしまった。
 真っ暗だ。真っ暗だ。ここは非道く暗くて、非道く寒い。
 暗いんだよ、お前がいないと。





「承太郎、朝よ」
 古い電気の下がる天井を見つめれば、夢の内容はすっかり忘れてしまった。畳みに敷いた布団から抜け出す。母親が声をかけるついでにあけていってくれた襖から、朝日が差し込んでいた。
 ぼんやりと、庭を見つめる。誰か大切な人がそこにいたような気がした。笑って、手を振って、あまりにも残酷に。
「今日から新学期でしょう?」
 頭の奥が痛い。喉が渇いてひりひりする。無条件に送り出された家を振り向いても、そこに誰がいたのかがわからない。そんな風に、大切なものを失っている。
 手に入れたものはなんだったろうか。手にすべきものはなんだったろうか。父親が、公演のために昔から家を留守にしていた。大きな広すぎる家で、俺と母親はそれでも生きていた。明るさだけがとりえだった母が、毎晩父に電話しているのを知っている。
 そして、受話器を置いた後に溢す、本当に小さなため息の理由も。
 護らなければと思った。誰じゃない、俺が護らなくてはいけないと思ったのだ。この広いうちの中で、必死に淋しさを押し殺している母の小さな背中を護らなければならないと。
 学校に通っているうちに、母親があんな広い家に一人でいることを想像して、俺はそれが辛かった。自然と授業をサボるようになって、帰宅しては母の周りをうろついた。嬉しそうに微笑む母の顔が好きだった。高校に上がって、結局それが、素行の悪さとして中学から報告され、俺は不良とレッテルを貼られた。落ち毀れなんていって、教師が呼び出してきたので弁解しようと思ったのは最初の一回限りだ。
 お父さんがいなくて大変でしょう、なんて、わかったような口を利く教師も、母の不幸を嘆くように口にしたのでそれが気に入らなかったのだ。
 俺の人生は、母親を護るためにあるのだと思った。あの華奢な背中が、悲しみで押し殺した声に震えることが無いように、抱きしめたいと思っていた。

 大切なものを失ったのは高校のときだ。奇妙な力を手に入れて、母を護るためにエジプトに向った。一つの邪悪を滅ぼすために、いくつもの命が犠牲となって。
 それでも、俺は止められなかった。母を護るためには誰かの幸せを壊さなくてはいけなかった。それが悪だろうと善だろうと関係なく、俺は自分を信じ続けた。信じさせてくれる仲間がいたのだ。間違えた道を向おうとしても、それを注意しとめてくれる仲間がいた。
 名前を呼ぶ声も、気配も、全てが信じられた。
 それなのに。
 それなのに、俺は。




「承太郎、起きて、承太郎」
 声に気付いた瞬間に、一気に肺の中を空気が満たした。随分張り詰めていたのか、急に入り込んだ息は荒い。まるで水から急上昇したみたいだった。荒く呼吸を繰り返すと、肩に手のひらが落ちてきた。
 見上げる天井は、知らない綺麗な電気だ。俺の顔を覗き込んでいる花京院がいる。
「…………かきょう、いん?」
「どうしたんだい、随分うなされていたよ?」
 髪も、手も、仕草も声も、紛れも無く花京院のものだった。気に入りのパジャマで、髪は乱れている。彼も隣で寝ていたのだと、ようやく気が付いた。
「おまッ……!」
「なッ、な、に?」
 俺は花京院の顔をみて跳ね起きた。なぜだか解らない。ただ、そこに花京院がいるという事実に、純粋に驚いた。純粋に驚いて、同時に安堵の感情が胸を押しつぶす。気が付けば、花京院の身体を抱きしめていた。生地越しに伝わる確かな暖かさに、ほっとした。
「うーん、なんかヘンだよ?」
「うるせえ、ちと黙れ」
 俺が言うと、腕の中の花京院は、ため息を付きながらそれでもジッと耐えてくれた。


 護りたかったものはなんだったろうか。
 俺の人生をかけてまで護るべきものだったろうか。家路を急ぐ俺の脚は、一体どこへ向っていたろうか。
 大切なものを護りたいと願った。しかし、いずれどちらかは失うのだ。もしくはどちらも。
それならば、俺の人生にはどれだけの価値があるのだろうか。どれだけの未来があるのだろうか。考えても考えても俺にはよく解らなかった。
 ただ、この腕にある温もりも、そして、夢の中の母の顔も、多分どちらも、命をかけるに値する護るべきものだということは解った。
 それでもなお、どちらかを選ばなければならないのなら、俺は自分の人生を捨てよう。
 俺の人生にはそれだけの価値があるだろうか?

 ああ、まだ目覚めぬ夢の世界にとらわれている。



2011/9/4
現実世界では花京院を失っていて、それからずっと夢にとらわれている承太郎。
最後に承太郎を救ってくれるのは、やっぱり花京院だといいなァ。





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