8月
 

 数十年前の今日、世界が終わった。その時も、こんなに暑かったのかどうかわからないけれど、とりあえず世界は平和で、少なくともぼくの周りは平和だった。
 他の世界がどうだかは知らないけれど。


 図書館の自動ドアをくぐると、ぼくはようやく息をついた。外は暑くてどうしようもない。紙の匂いに引き寄せられるように奥の勉強コーナーに進む。みんなクーラーの効いた図書館に逃げ込んでいるので、ここはいつもより混んでいる。
 ぼくはいつもの一番奥の席に目を向けて思った。彼は今日も居る。仏頂面のまま、本を読むでもノートを開くでもなく、ただ図書館の中庭を見つめている男の姿を。
 彼は今年の夏からずっとそこに居た。毎日昼くらいに来て、三時には帰っていく。図書館が不釣合いなくらいに、不良っぽい少年。
 普段なら、彼の姿の見える少し離れた席に座るのだけれど、その日は偶然、彼の向かいの席しか開いていなかった。広いテーブルなので、相席になることなど珍しくもないのだが、普段、不躾に視線を向けているだけあって、なんだかどうも気恥ずかしい。
 そんなふうに、ぼくが迷っていると、彼はそれに気が付いたのか、席を立った。正直、彼は席を退くのだと思った。席を退いて、ぼくが座れると。でも違った。彼はぼくの知らない声で、ぼくの名前を呼んだ。ぼくの名前を、慣れたように、とても懐かしい風に。
「おい、花京院」
「ッわ……!」
 ぼくは思わず声を上げた。名前を呼ばれるなんて、想像もしていないし、それに、彼の声がそんな風に低くて熱っぽいとは知らなかった。
「空いてる。座れ」
 男はそういうと、再び席に着いた。そんな風に言われてしまっては、周りの目も気になり座らざるを得ない。失礼します、と、椅子に腰を下ろすと、彼はまた窓の外を眺め始めてしまった。
 なにか話そうかと思っても、そんな男との共通点などあるわけがなく、鞄の中から、ノートと筆箱、それから眼鏡を取り出した。
 いつもと同じように、夏休みの宿題と、それから休み明けの試験の対策をする。塾に通うことを進められながらも、なんとなくそれを避けているぼく自身としては、ある程度の成績くらいは修めないと、両親に顔向けできない気がしていた。
 シャープペンがノートを滑り出せば、それから先は、目の前の男のことを気にすることは無いくらい集中していた。

 ぱきん、と、シャープペンの芯が折れて、それがまるで合図のように、ぼくは顔を上げた。
「あのッ」
 声が緊張で上ずった。慌てて、言葉をつなげようとすると、目の前の男はむすっと花京院を見た。眉間の皺が深く、今にも殴りかかってきそうだ。
「なんでぼくの名前しってるんですか」
「さあな」
 ぼくの問いに、男は間髪いれずに答えた。さあな、という言葉の意味を理解するのに、一瞬間が空く。
「は?」
「さあな、ったんだよ、知らねェけど、知ってたんだ」
 それは、どういう、と、ぼくは引きつった笑みを浮かべた。そりゃ、図書館で本を借りたりなんだりと利用していれば―とくにヘビーユーザーである自分は館内で名前を呼ばれることもある―苗字くらいは耳にするかもしれない。それでも、もっと言い方というものがあるだろうと、花京院が口を開こうとしたとき、それに声をかぶせてきたのも彼だった。
「お前のこと、多分ずっと昔から知ってる」
 静けさの中に、囁く言葉が命を持っているみたいにぼくの鼓膜を振動させた。ずっと昔から知っている。その言葉も、声も、そして表情も、嘘をついているものではなかった。
「変なこといいますね」
 ぼくは思わず笑ってしまった。男はまた仏頂面で、ウルセエと唇を尖らせる。それが懐かしい、なんて感覚に近いので、ぼくはもしかしたら彼は昔の同級生かと思った。
 学校に友人なんていないけれど、クラスメイトは沢山いたし、もしかしたらそのうちの一人かもしれない。なんとなく外野とかかわりを持たずに生活してきたが、きっと彼みたいな人も居たのだろう。
 再びノートに視線を落として、数学の問題を解く。文章問題は得意だったはずなのに、もう先ほどまでの集中力はなくなっていた。
 目の前の男の声が、頭の中でわんわんと鳴り響いている。懐かしさに埋もれた、もっと大切な何かのような、そういう不思議な声だった。

 がた、と、目の前の男が立ち上がった。時計を見ると、ちょうど三時になっている。何も言わず、何もせず、立ち上がった男に、ぼくは思わず視線を投げた。
「なんだ?」
 立ち上がったまま、ぼくを見下ろして彼は言った。
「いや……いつも、この時間に帰るから」
「ああ、父親が帰ってきてて、あんま居心地よくねェんだ」
 男はそんな風に言って、ポケットに手を捻りこんだ。
「そうですか」
 立ち入ったことを訊いてしまったことを詫びて、ぼくはまたノートに視線を向けた。さっきから真っ白だ。全然進んでいない。
「あのッ」
 ぼくの声に、席を離れようとした男は立ち止まった。思うより大きい声だった。
「ぼくでよかったら、話し相手になるよ」
「なんだそりゃ」
「ぼくと話して、それから帰ればいい。君のご両親も、それなら心置きなく楽しめるだろう」
 彼の家庭環境なんて知らなかった。顔も、声も、ついさっきまで知らなかった。なのに、どうしてだろうか。ぼくの唇は、耳は、脳は、知っている。
「承太郎」
 彼の表情が緩んだ気がした。返事をせずに、背中を向けて出口に向ってしまう。それでも、肩越しに小さくあげた右手が、何かのサインみたいに見えた。
「また明日」
 ぼくは小さく言った。聞えないのは解ってる。それでも、明日も明後日も、多分彼はここに来るから、次にあったら、彼の学校名を聞こう。と、ぼくは集中できないノートを静かに閉じた。






2011829
何巡もした後で、残りかすみたいな互いの記憶があったらいいですよね。
8月に更新する詐欺だったので、捻りこんでみました…






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -