撫でる楽しみ
 

 白が目立つ病室でその生き物だけはやけに存在感を浮き彫りにしていた。花京院は、ひざの上にいるそれを優しく撫でる。手の内にすっぽりと収まってしまう頭部や、黒く硬い毛質が心地よく指先を滑ってゆく。暖かいぬくもりは、ひざの上でただひっそりとしていた。

「病棟はペット厳禁って知っているかい?」
 火のついていない煙草を咥えたままの承太郎に、花京院はそういって笑った。一人部屋の病室は広く無機質だ、広すぎてどこか物悲しい。承太郎は一瞬考えるように窓の外へ目をやると、視線を戻さずに呟くように言った。
「だからこうやってこっそり連れてきてやってるんだろうが」
 承太郎は言うと、花京院のひざの上で気持ちよさそうに目を細めていた猫を抱きかかえた。ミャー、と、小さな口を開いて鳴く猫は、承太郎の手の内にいると普段よりももっともっと小さく見えた。
 小さな白い爪が黒い毛の間から覗いている。猫は低い声で唸ると微かに身じろぎさえした。
「おいで。承太郎、猫が嫌がってますよ」
 鳴き声をあげる猫に、花京院は両手を伸ばした。承太郎がしぶしぶその手に猫を託すと、確かに猫は鳴くのをやめてごろごろとのどを鳴らしはじめた。現金なものだ、承太郎は一人ごち、相変わらず猫の小さな頭を撫で続ける花京院を見ながら、アルミの丸椅子に腰掛けた。


 花京院とその承太郎がその猫と出会ったのは、検査入院のために花京院が病院へとやってきたときだった。花京院の経過検査は、二ヶ月に一度行われる。二ヶ月に一度、最低一週間を拘束されるのだ。それは彼の身体に埋め込まれた、試作段階の人工臓器が正常に作動しているかという確認と、またそれらが人体にいかなる影響を及ぼすか調べるための検査だ。
 これについて、花京院は毎回酷い悪態をつく。一度尽きた命を人間が勝手に作り上げた機械で生かすことが正しいことだと思うのかと、承太郎の胸倉を掴んで怒鳴ってきたことさえあった。それを聞かれると、承太郎は今でも軽く口ごもる。それでも承太郎は、花京院の姿を目の前にすると酷く安堵した。自分の罪が少しでも軽くなるような錯覚をしていたのかもしれない。

 花京院の通う病院は、町から少し離れたところにある。長い坂道を越えた先にぽつんと立っているのがその病院だった。花京院は慣れた足取りで石畳を上り、承太郎は花京院のわずかな着替えと本をの入ったかばんを担いで玄関をくぐろうとした。その瞬間、擦り寄るように花京院の足元にその猫が現れたのだ。
――ニァア
 その猫は真っ黒の身体を伸ばして花京院へと一鳴きすると、ずっと待っていたと言うように花京院の足に縋り付きジーンズに爪を立てた。
「お前、大きくなったね」
 花京院は手馴れた手つきで猫を抱き上げると、大きくなったらしい小さな身体を、自分の腕の中にすっぽりと収めた。
「お前に随分なついているな」承太郎は言った。真っ黒の猫はつやつやとした毛並みをしており、微かにつりあがった目は貪欲に世界を写しこんでいる。
「うん、先々月に来たときにもいたんだ」
 先月は一緒に来なかったもんね。花京院の笑顔がやけに悲しく見え、承太郎は帽子のつばを下ろすと、さっさと病院の自動ドアを潜り抜けていった。


「ぼくん家じゃ飼ってやれないから、仲良くならないようにしてたのに。きみってば連れてきてしまうんだもんな」
 花京院は承太郎に向かって眉を八の字に垂れ下げていった。それでも花京院は酷くうれしそうだった。相変わらずその猫に名前をつけることはなかったが、わずかな面会時間には承太郎が招いたその猫の頭部をずっと撫で続けていた。幸せなんだ、こうしてると。花京院が以前こぼした言葉を、承太郎は大切にしたいと思った。こんな何もない病室の中から、唯一覗ける窓の先には、まだ蕾だが、確かなふくらみを持った桜の木があった。もうしばらくすればわずかながら咲き出すのだろうか。
 承太郎が病室にいないとき、花京院はたいていをこのベッドの上で過ごした。膝の上で丸くなる猫の背中を撫でることは、花京院にとって唯一生き物と触れ合える瞬間だった。乾燥した室内で、猫は時折のどを鳴らす。花京院は急須から直接、猫の小さな口元を水滴で湿らせていた。
 感覚として、花京院にはすでに猫を飼っているという感情が芽生えていた。一緒に眠るときもあったが、その猫は誰よりも敏感で、病棟廻りの看護婦が来ると、布団の中でひっそりと息を潜めていた。
――ニャア
 猫は一鳴きすると、するりと花京院のひざから起き上がり、ベッドの端から助走をつけて承太郎の元へとジャンプをして、彼の上着の中にもぐりこんだ。承太郎が慣れた手つきでそれをそっとしまいこむと同時に、花京院の病室の扉が開かれた。
「花京院さん、お待たせいたしました。あちらの診察室へどうぞ」
 白衣の天使といえども、病棟内から猫とライバルを追い出すときはまるで鬼のような形相になる。承太郎は猫をしっかりと上着の中に隠すと、振り返った花京院に軽く手を上げた。
「じゃあね、承太郎。また明日」
 花京院は、ふわりと笑うと何食わぬ顔で病室を後にした。この猫は賢い。看護婦と花京院の気配が完全に消えると、ハンっと鼻を鳴らして承太郎の上着から出てきた。
「ナアー」
「……花京院の前だけいい顔してんのか、こいつは」
 早く帰って暖かいスープを飲ませてちょうだい。そういうように、猫は短くないて目を細めた。



 いつもそうだが、と、承太郎は心の中で呟いた。いつもそうだが、検査のあと、花京院は酷く疲れた面持ちでぐったりと病室のベッドに仰向けになった。起こさないようにその寝顔を見送ってから、承太郎は医師の元へ行き様態を聞くが、医者は貼り付けた笑みを浮かべて問題ありませんとうそぶくのだ。SPW財団の医師陣だ、疑う余地はないというのに、承太郎はいつだって不安に駆られてしまった。
 上着の中で窮屈そうにしていた猫をいつもは花京院がのる助手席に座らせ、承太郎は運転席に身体を滑り込ませながら思った。まだ外気は冷たく最後の冬の気配を残している。
 猫はそこに染み付いたにおいに安心するようにごろごろと喉を鳴らしたが、承太郎が手を差し伸べて撫でようとするとピクリと身体を揺らしてそれを避けた。賢い猫だ、承太郎は素直に関心する。走り出した車の中で猫は何の動きも見せないでそこにいた。自然だった。真っ黒な身体を窮屈ではないのかと思うほどに小さく丸めて、浮き出した背骨が呼吸に合わせて上下する。それはまるで、寝室で一人眠る花京院のようだった。花京院は承太郎といるベッドの上でのみ、とても自然な格好をする。いつも病室で見る寝顔とは違う、緊張感のない安心しきった表情だ。本人がそれにきっが付いているのかどうかは、承太郎には判断し難かったが少なくとも、今承太郎の隣で眠っている子猫と同じくらい緩んだ表情をしていた。

 目の前の信号が、唐突に青から黄に変わる。そして緩やかに赤へと移行する。承太郎はゆっくりとブレーキを踏んだ。

「……煮干か何かが冷蔵庫に入っていたな」
 承太郎は、独りで過ごす寂しい晩酌に思いをはせながら、青になった信号の下を颯爽と走り抜けた。





「ナァーゴ」
 低い鳴き声と、カリカリと言う物音に、承太郎は眠りの中から抜け出した。
「ナアァ」
「なんだ……変な声を出すんじゃないぜ、かきょう……」
 承太郎は、乱暴に頭を掻きながらいい、自分の横でまるくなって眠る恋人に腕を伸ばしたが、そこにはただ冷たいシーツがあるだけだった。そうだ、花京院は今病院にいるのだと確認するまでに、短く見積もっても一分はかかっただろう。花京院の名前を声に出して触れるまで、そのことを忘れていた自分が酷くおろかに見えた。
 カリカリと、音は相変わらず響いている。猫だ、昨日連れて帰った猫だ。承太郎はベッドに起き上がり呆れたようにため息をついて立ててある膝の上に額を乗せた。当たり前のように隣に眠る彼の存在に、今の一瞬で嫌と言うほど気づかされたのである。
「ニャー!」
 とうとうかんしゃくを起こした猫が、ガリガリと扉を引っかいている。あの鋭いつめで。承太郎は慌ててベッドから飛び起きてリビングへと続く扉を開いた。
 壁には細い傷跡が大小さまざまな形で残されている。幸いなことに粗相はしていないように見える。承太郎はジャージーを履いただけの格好で、猫に続きリビングへと出た。一瞬コーヒーの香りがしたように感じたが、それが幻想であることに気がつき、再びため息をこぼす。花京院はいつもどんな気持ちで、自分より早く目覚め朝がくるのをまったのだろうか。一人には、このリビングは広すぎる気がした。
 ―承太郎。
 名前を呼ばれた気がしてキッチンへと出向いたが、そこには何もなかった。変わりに小さな皿の前でしゃんと座っている黒猫がいる。承太郎は薄い皿に水を張ってやりそっと猫の前に差し出した。小さなざらざらとした舌で水滴をなめとりながらも、猫の身体はまっすぐに美しく伸ばされている。この猫は、何処までも花京院に似ていた。
「十時か、おい、それを飲んだら面会にでも行くぞ」
 承太郎は、猫に話しかける自分に驚いた。猫は承太郎の言葉など聞かずにただ必死に水を飲んでいた。猫に話しかける自分、おかしいと思い、珈琲を落とす。こぽぽと言う音が、寂しく響いたが、承太郎は不思議と満たされた気分だった。今日の出かけついでに、この子猫に与える食材を買って来なくてはという感覚に、少しだけ胸が高鳴っている。





「あ、おーい承太郎!」
 病院に着いた承太郎は、背後からかけられた声に振り返る。そこには車椅子に乗った花京院がいた。
「なんだ、たいそうな格好をしているじゃないか」
 承太郎は眉を寄せて、花京院の膝の上に猫をおろしてすばやく車椅子の取っ手を掴んだ。花京院の検査には何度も立ち会っているが、彼がそのあいだ車椅子で生活する姿を見たのは初めてだった。何かあったのだろうか、承太郎の心配をよそに、花京院はへらへらと笑った。
「歩くのが面倒で、看護婦さんに借りたけど、すごく腕が疲れる」
 坂道も大変だ。花京院は言うと、ふーっと短く息をついた。曇り空のせいだろうか、花京院の顔色が酷く悪く見える。花京院は承太郎の目線には気づかずに猫ばかりを撫でた。
 ゆっくりとスロープを登り、病棟に入るとそこはまったく奇妙な光景が描かれていた。ロビーで診察に呼ばれるのを待つ親子や、退屈そうな看護士、歩行のリハビリをする老人と、車椅子に座った花京院。つくづく、病院とは承太郎は居心地の悪さを感じた。
「おじいさん、こんにちは。今日は調子がいいんですね」
 廊下を抜けてエレベーターへ向かう途中、リハビリで歩いている老人を見つけて、花京院は先ほど承太郎に向けたのと同じような笑顔で笑って言った。かれこれ三ヶ月も前から、彼はこうしてゆっくりと病棟の廊下を毎日飽きもせずにいったりきたりしていた。時々、調子が悪そうに歩くのをハイエロファントで気づかれないように助けたりもした、花京院にとっては顔なじみだった。老人は口元をいびつな形に歪めた。承太郎にはそれが笑みだとは到底判断しがたいと思ったが、花京院が軽やかに手を振っていたので軽い会釈だけをし、さっさとその場から引き上げた。
 花京院はそんな承太郎の行動には気づかずに、膝のショールに隠した猫の頭を撫でながらのんきに鼻歌を歌った。
「ねえ、承太郎。猫に名前をつけようよ」
 いきなりの提案に承太郎は一瞬驚いた。
「名前がないと、呼ぶときにすごく不便じゃないか」
「名前を呼ぶ機会なんざそうないだろう」
 猫なんだから。承太郎はそういって眉をひそめた。名前をつけると同情してしまうと言ったのは花京院の方だ。それでも花京院は、やっはりこの猫には名前が必要だと思ったのだ。
「ペットにするのか?」
 承太郎は言った。
「いいえ、友達ですよ」
 花京院はそういうと、猫の小さな身体を抱き上げてその鼻先にキスをした。濡れた鼻が唇に触れる、それは少し冷たく塩辛い。それが生きていると言うことなのだ。花京院は、承太郎に気がつかれないよう、自分の腹に触れた。みにくく深く残る傷に、花京院は初めて憎しみ以外の感情が芽生えるのを感じた。
「ああ、早く帰って、君の部屋でおいしい紅茶とケーキが食べたいな」
「おー、考えておくぜ」
「ちゃんとこの黒猫の分も用意してくださいね」
 花京院がクスクスと笑いながら言った。こうして笑えること、生きていること、膝の上の猫を撫でることが出来ること。すべては間違えなんかではなかったと、このとき承太郎は確信した。
 早く早く、二人で家に帰ろう。花京院の膝の上で黒猫は、喜ぶように小さく一度だけ鳴いた。

 真っ白な病棟に、その黒猫はよく栄えた。





2009.03.04





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