delicato
 

「花京院、今どこだ」
 突然かかってきた電話に、ぼくは驚いた。電話の主は承太郎で、ぼくの携帯に彼から電話がかかってくるのは初めてのことだ。
 彼はいま何処にいるのだろうか。電波はすこぶる悪く、そしてざわめく騒音が受話器の置くから聞こえた。
「どこって、今から会社をでるところだけれど」
 なんだって?ぼくは書類の入った鞄を抱えなおして言った。町は薄暗く海の底のように青く透き通っていた。夕日は沈み、あたりには秋と冬のあいだのつめたい風が吹いている。
「今から赤坂までこれるか?赤坂MOVEだ」
「なんだい、突然に」
 ぼくが言うと、承太郎は低く唸るような声を出した。多分誰かに呼ばれたのだろう。誰といるのだろうか、ぼくの心の中に一瞬もやがかかる。
「赤坂MOVEって、ライブハウスじゃないか。ここから三十分はかかる」
 ぼくの言葉に、承太郎は電話口で小さく唸った。
「三十分か。ぎりぎりだな、今からすぐに向って来い」
「ちょ……承太郎!」
 ぼくの制止など無視して、承太郎は電話を切った。ぼくは腕時計を見て電車の時刻を考える。JRの駅まで、あと十分もかからないだろう。
 冷たい風に頬を打たれながら、空の端をつめると、遠くのほうからゆっくりと夜が近づいてきていた。


 彼に言われたライブハウスに付いたのは、午後六時を当に回った頃で、ぼくは一人ライブハウスの前に立ち尽くしていた。すでに公演は始まっているようなのだが、入り口付近には今だ数十人の列ができているのだ。
「なんだ、随分混んでるなあ」
 ぼくはつぶやいた。朝から立て続けにあった会議に、ぼくは心身ともに疲れていたのだが、それに加えてこの人混みはさすがに応える。
「入らなけりゃいけないんだろうか……」
 躊躇うぼくを横目に、次々へと客が入場していった。なにか特別な人間でも来ているのだろうか。それをぼくに見せるために彼は自分をこのライブハウスに迎えたのかもしれない。それであれば、ぼくはチケットを受け取り中に入るべきなのだろう。
「おい、あんた」
 入り口のあたりをうろうろとしていると、チケット売りらしい男が声をかけてくる。なにか怪しい行動でもしてしまっただろうかと、思って慌てふためくと、男は手に持っている紙とぼくの顔を比べて言った。
「あんたが花京院か?」
「ええ、なにか」
「空条さんから聞いてるぜ、早く入れよ」
 男はぼくの背中を押して人を掻き分けた。スーツのすそが、汚れた床にこすれた。


 ライブハウスの薄い重たい扉を開くと、いきなりの爆音と青や緑の眩いライトが顔を照らした。そして、メロディに乗ってハスキーな英語が聞こえる。ぼくは人の影を縫って、立ち見客の一番後ろにたってステージを見た。
 射光が眩しくて、ステージにいる人の顔は見えない。激しいドラムが内臓を揺さぶる。けれど、鼓膜に響く音は決して不愉快ではなかった。
 曲の切れ目に、照明が落ちる。ぼくはその瞬間のボーカルの瞳に見覚えがあった。深い輝きは額に微かな汗をにじませている。ドクリと心臓がはねた。
「What happened to us all」
 それは洋楽のカバー曲だった。滑らかな発音とその声が、承太郎のものと合致する。ぼくは身震いした。マイクを、噛み付くように乱暴に押さえつけて、背後からなるいくつもの閃光を背負いながら彼の声は実際の曲を思わせないほどにハスキーで格好良い。
 しかし、彼がバンドを組んでいるなんて聞いたこともない、ぼくは騒音の中、隣に立っていた女性に声をかけた。
「あの、あのボーカル、いつもこのバンドのメンバーなんですか?」
 張り上げた声は、全て楽曲に吸い込まれていく。すごい迫力だ。
「なんだか、今日は突然メンバーが倒れたとかで、ヴォーカルは素人らしいよ」
 よく見ると、女性は顔中にピアスがぶら下がっていた。黒いタンクトップからふっくらとした真っ白な二の腕が見える。引きつるような変な笑みを浮かべたまま、ぼくは軽く会釈して、彼女から身を離した。
「いい声だ」
 誰かがそうつぶやくのが聞こえる。二人組の女性が胸の前で手を組んでステージに視線を注いでいた。
 ドラムスが激しく内臓を揺らした。舞台の上に立つ承太郎は明らかな熱気を放ち、潜める額に濃く皺が見えた。ぞっとする。サビを抜けて語りかけるように流れるメロディに、誰もが目を奪われた。それを引き剥がすように再度激しくなる声と、叫ぶような声が、誰もの体を射抜いていく。
 網膜が焼けるほどの白いライトに目がくらもうとした瞬間、承太郎の目がぼくの瞳を捕らえた。決して広くはないこの地下室で、それでも承太郎は確かにぼくの目を見た。そして、再び歌いだす。緩やかな熱が確かにぼくの腹の辺りから沸きあがってきた。
 ぼくの目の中だけで承太郎が歌う。先ほどまで嫌そうに承太郎の歌を聴いていたタンクトップの女性は、いつの間にか人ごみを掻き分けて前のほうに消えてしまった。
 全部の音が消えて、ライトが落ちた。何事もないようにシンと静まり返った会場内は、異常な熱気に満ちていた。青い暗闇の中で、承太郎の影が黒く揺れて、そして消えた。ザワ、っと会場が沸く。人ごみが割れてぼくはその先にある姿にぼくは、手のひらで額を覆った。
 承太郎だ。ステージには新たなバンドが早くも演奏を開始しているというのに、観客の視線は疑うことなく承太郎へと向かっていた。
「よお。間に合ったか」
 ぐいっと、裾で額をぬぐうとニイ、と笑ってポケットから煙草を取り出した。再び騒がしい騒音と歌声がライブハウスに響き渡る。ぼくは耳を押さえるようにした。
「君の歌声なんてはじめて聞いた」
 声を張り上げると、承太郎は白い煙を吐き出した。よかったとは言わない。ぼくは舞台に目を向けた。知らない男の歌声は、承太郎のものと違ってやかましく耳障りだった。
「悪くなかったろ」
 言って承太郎は舞台を眺めた。ぼくは顔をしかめながら前髪をなでた。先ほどまでの息を呑むような静寂はどこかへ消えてしまったように、赤や青のネオンがきらめく。そんな中、承太郎の左頬が照らされている。
(格好良かったなんていってやるものか……)
 ぼくは壁際においてあるテーブルにひじをついて凭れた。そういえば今日は一日中会議だったなあ、体も疲れて眠たくなってきた。騒音を耳から排除して、ぼくはぼんやりと承太郎を眺める。
 長いまつげも高い鼻も、いつもとは違うむき出しにされた黒い髪。異様な熱気に包まれたライブハウスと、獣のような承太郎。
「あーあ。今日は帰ったら君に肩もみしてもらわないとな」
 ぼくの声は、激しいバンドのシャウトにかき消されて、承太郎の耳には届かなかった。




end
20091027
バンド承花が書きたかったので満足です。






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