蜜月
 


 店の裏口の扉を閉め、戸締りを確認してから花京院は腕時計に目をやった。午後九時を過ぎた時計の古い皮を撫でる。年が明けてから、数ヶ月で季節は冬から緩やかな春に変わり始めていた。頬を撫でる風に、どこか柔らかな匂いが混じっている。春の気配に、花京院は大きく息を吸う。マフラーの隙間から、冷たい風が流れてきた。
 店舗のシャッターが落ちているのを確認して、花京院はその場をゆったりとした足取りで離れた。駅から流れ込む人を避けて、駅前を抜けると、まったく閑静な住宅街に自分の吐息と靴音だけが響いている。団欒が聞こえてもおかしくないはずなのに、それはどうしてかシンと静まり返っていた。世界にたった一人というのは、こういった感覚なのだろうか。花京院は空を仰ぐ。
 星たちのきらめきは、ゆらゆらと薄い雲にさえぎられており、殆ど見えない、その中で、光を拡散させる月だけがぽっかりと浮かんでいる。
「朧月だ」
 どうりで春の気配が足元まで滲んでいるはずだ。花京院は小さく笑った。ポケットから取り出した携帯電話で、なれた番号を押す。受信を告げる一定拍のコール音から合わせて五つ目で、受話器が持ち上げられる。ハロー、と、ふざけた声が聞こえた。
「ハロー、承太郎」
 花京院が同調し言うと、電話の主は低い声で笑った。それが鼓膜にそっと触れるたびに花京院は身をよじりたくなるほど幸福になる。今帰りか、という質問に、花京院は小さな返事をした。
 この街に越してきてからはじめたアルバイトは、もうすっかり慣れてしまった。小さな駅前の喫茶店は懐かしいジャズと深いコーヒーの香りで満ち溢れている。古くからある鳩時計がカチカチと秒針を震わせる音も、豆を挽くグラインダーの騒音も、全てが自愛に満ちて心地がいいのだ。
 随分、遅いな。その声の次にカチリ、と、音が受話器の向こうから聞こえてくる。電話の先に居る承太郎は、きっとキッチンに移動して煙草に火をつけたに違いない。
「承太郎、今日はベランダに出てみなよ」
 花京院は受話器を肩と頬で挟みながら、言って、斜めに空を仰いだ。
「朧月夜なんだ」
 空では風が速いのか、薄い霧のような雲はゆらゆらと西の方向へ流れていた。私道の脇にある大きな家の中から控えめな笑い声が零れ落ちてくると、それは吸い込まれるように空へと流れていった。途端、強い風が吹いて花京院の背中を押す。受話器の中からも、強い風が凪ぐ音がした。
「風が強いね」
 花京院の言葉を聞いて、しばらくしてから返事が訪れた。鼓膜をひっそりと揺らし脳髄へと響く承太郎のあでやかな声をこぼさぬように、受話器を強く耳に当てた。
 空から拡散された月明かりはただゆらゆらと頼りなく二人の間にあった。自然と足早になる家路に、花京院はいくつも吐息を吐いた。それを聞いた承太郎は、受話器の向こうで含むような笑いをすると、早く帰って来い、と、いつも以上に優しい声でささやく。途端に、つるりと触れる承太郎の指の感触が肌に蘇る、上がる白い吐息も、その感情をゆっくりと確立させた。
「ああ、少し早歩きになったよ。もうすぐ着く」
 早く、と、花京院はおもった。気がつくとすでに足は大地を蹴っていた。携帯を耳から離し、人差し指で折りたたんだ。ハッ、と、息が上がり、上下する身体に合わせてマフラーとコートが靡く。ショルダーバッグが腰に当たって跳ねる分走りにくい、しかし、花京院は足の裏が大地を感じる瞬間にそれを弾いた。
 早く、と、今度は確かに耳元で声がした。熱い熱を孕んだ承太郎の声だと思った瞬間、目の前に承太郎の待つマンションの明かりが見えていた。


 息を抑えるように胸元を握り締めて、花京院は手早く暗証番号を押しゆっくりと開く自動ドアの前で足踏みをした。わずか数十センチの隙間を流れるように抜けてエントランスの先にあるエレベーターのボタンを、タタタンッ、とリズム良く数回押した。高級なマンションの扉は、どこもクリノリンスタイルの貴婦人のように優雅に開く。
 三階から、ゆっくりと降りてきたエレベーターには、若いカップルが乗っており、すれ違う花京院の顔を見ると小さく会釈した。承太郎は、以前このカップルに対して、うらやましいという言葉を使ったのを思い出す。うらやましい、確かにそうだ、と、花京院は一人頷く。外出する彼らの重なり合う後姿が、上品にしまる扉の向こうに、やけに遠く見えた。

 チン、と、トライアングルのような可愛らしい音を立てるエレベーターに溜息をついて、花京院はその扉を撫でるように触れて外へ出た。ピュウ、と吹く風は、どこか湿り気を増していた。雨が降るのかと思ったが、雲は薄く流れているだけだ。
 廊下を曲がって、顔を上げると、扉に体重を掛けるようにして立っている承太郎が見えた。吐き出された紫煙がまっすぐに伸びたかと思うと、すぐに風に流された。花京院が駆け寄るように承太郎の名前を呼ぶと、承太郎はちらりと横目で花京院を確認し、よう、っと笑って煙草をくわえた。
「ベランダから月は見えねえ」
 承太郎は、口元から煙草を離し、煙を吐きながら靴底でそれを消しつぶした。黒い模様が、くっきりと描かれる。花京院は、呼吸を整えるようにショルダーバッグの持ち手を握り締めた。
「ああ、そうだったっけ」
 かき上げた前髪が冷たい。なぜか承太郎と目が合わせられずに、花京院は額に手を当てた。今朝の幸福を彷彿とさせるような承太郎のやさしい顔に、花京院は先ほどすれ違ったカップルの姿を重ねてみたが、どうやっても、あんな風な後姿を自分たちが模範できないことに内心で落胆する。
「どうした」
 花京院の様子が少し奇妙で、承太郎は彼の顔を覗き込むように身体をかがめた。なんでもない、と花京院は承太郎の顔を押し返し、自分の額に手を当てたまま、部屋に入ろう、と促した。
「おなかへったよ、承太郎」
「夕飯、食ってこなかったのか」
 そうじゃなくて、と、花京院は言った。頬に熱がこもるのを感じる。自分は何を言おうとしているのだろうか、身体と脳が、ちぐはぐな行為を行っていく。気がつけば、花京院の手は承太郎の襟首をつかんでおり、少し背伸びをするように彼の耳元に唇を寄せた。
「君が、足りない」
 馬鹿な、と、花京院は自らを叱咤した。しかし、欲望と理性の狭間でその感情は揺れ惑うだけで行動には至らなかった。突然の申し出に、承太郎は口角をあげていつもより数倍強く花京院の腰を引き寄せた。一瞬で距離が縮まり花京院は自分の腰が彼の身体にパズルのピースのようにぴったりと密着していることに動揺した。
「人が……」
 人が来たら変に思われるだろう、と、照れたように言う。途端に感じたのは、あのカップルよりも自分たちがぴったりと重なりあっていることだった。承太郎は、花京院の髪に鼻先をうずめた。コーヒーの香りと、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが重なって花京院の匂いになる。冷たい髪が、身体に触れるが、別段嫌悪を感じなかった。
「承太郎……」
 花京院は顔を上げて承太郎を仰いだ。凛々しい目鼻立ちに恋しさがこみ上げる。そっと頬を撫でると、承太郎はその手の平に擦り寄るように目を閉じた。そして再びゆったりとした動作で瞼を開く。長いまつげが揺れたが、そこには貴婦人の優雅さはなく、飢えた獰猛な獣が居た。
「早く」
 花京院はその荒々しさを求めるように、承太郎の唇にキスをする。
 視界の端で、朧月だけが、拡散する光で街を照らしていた。


2010.2.1






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