幽霊
 

 例えば、雨の日に死者が現世を憂いて戻ってくるだとか、盆には茄子や胡瓜の馬に跨り、家の前まで帰ってきてしまうだとか、そういった迷信や宗教観念に浮かされた気は全くと言って良いほど俺にはなかった。そつなく日常をクリアしていくことが、一歩ずつではあるが、確実にその、彼の居る世界へと繋がっているのだと思い込んでいたのだ。
 時折、背後でゆれる空気が、確かに彼の存在を浮き彫りにさせたところで、そこに彼の姿が見えて声をかけてくることなど全くなかった。見守られている様子もない。実際、一ヶ月ほど前には運転中に居眠りをしたことで電柱一本を大破させてしまった。幸い怪我人は折らず、自分の背後や助手席で空気が揺れる感触もなかった。
 つまり、こういうことなのだ。
 数年前、彼の存在はこの世からなくなってしまったということなのだ。全てを終わらして、本来ならば至福と達成感をかみ締めているはずなのだ。平穏を取り戻し、健康になった母親に再びいつもの憎まれ口をたたいているはずなのだ。それなのに、旅の仲間も、母親も、そして俺自身も、決して幸福に酔いしれることなどできなかった。
 いくつも見捨ててきたはずだ。
 道路を歩く蟻や、枯れていく木々や花、そして生きていた獣たちを、日々のらりくらりとしたエゴの中で小さな命を見捨てて、もしくは咀嚼してきたはずなのだ。それは、彼の命を奪ったやつ等にとって、俺たちの食事と代わらなかった。そして、俺たちも同じことをした。怒りに任せて相手をボコボコにしたり、命はとらなくても、同じことだと思った。
 彼の魂を失ってから、ぽっかりとした胸の空洞は、俺だけでなく全ての人間に準じていた。どこか虚しい感情は、別の何か、恋人や趣味、仕事といった現実へと逃避していた。空洞を埋めるたびにはじめた仕事で、俺は海が人の心を必ずしも癒すわけではないと知った。
 大きな海原に抱かれ、そしてその荒々しさに俺は恐怖した。どれだけの力を持っていたとしても、それが不死の身体であっても、その海は決して俺を、人間を容認することはなかった。そして、それは拒否もせず、ただいつもの情景のように飽きもせずに打ち寄せたり引いたりしている。ただ、その音を聞いているとどこか安心した。安心というよりも、もっと内面から感情を失っていくという感じであった。
 何も考えず、ただじっとしていた。考えることができなかった。それは、海が当たり前のように俺を無視して、そして当たり前のように日常に溶け込んでいたからだ。寄せては引いていく波に、砂浜は飲み込まれていくのに、そこの砂は絶対量を減らない。ただ、波の流れるままに揺られているその砂を見て、俺は少しだけ泣いた。
 貝や蟹や小魚たちが、悠々と泳ぐ海は、俺を、誰かを許すようなことをしない。命が育まれる大地も、俺を攻めるようなことはしない。
 そして彼らは、絶対の永遠を持ったまま、ゆらゆらと漂っているだけなのだ。
 頬が涙で濡れるのは、多分、生命の神秘を肌で感じたからなのだと、俺は自分に言い聞かせた。


「承太郎、今日のご飯は唐揚げよ」
 帰宅して早々、母はいつもの底抜けの明るさで俺を出迎えた。まるで、全てお見通しよ、というように、どこか演技じみている笑顔で。
「ああ、あとで食う」
 空いた穴を埋めるために、互いの会話が多くなったのは事実だ。それは社会人になってからも変わらない。どんなに長い年月が経っていても、お互いのそれを埋める代りにはならなかった。思い出だけが、悲しく蓄積されていく。憎悪さえ感じさせながら。
 出張が多くなるにつれて、アパートを借りているのは無駄と思うわ。自分の部屋へと続く襖を開けたところで、俺はその言葉を思い出した。昼間は開け放たれている縁側の雨戸も、日が落ちるとすべて母親が丁寧に閉めていく。そして、闇の気配が色濃く残る中で、自室にある小さな窓から月明かりがぽとりと落ち込んでいた。
 そんな言葉を思い出したのは、きっとこの部屋に思い出が多くありすぎることが原因だと、俺は思った。広すぎる館に、少なすぎる家族がぽっかりと、それでも、それは幸せであった。帰宅の少ない父親のために、自分が母を守るべきだと思っていたが、心は素直にはいかなかった。家計であるのかは定かではないが、俺は父親と同じように旅に出ることを選んだ。
 こんな大きな家に、母親を置いて。

「おい、少し味が濃い」
「変ねぇ。いつもと変わらないのに」
「味覚が狂ったか。病気になるぞ」
「はぁーい」
 漆塗りの端で食卓をつつく母は、昔と変わらず健康だった。そしてそれは俺も変わらない。本来ならば、この食卓を囲む義務のある宿主は以前の帰宅よりすでに三か月以上が経っていた。主人を失った角席は、悲しげに影を落としている。ジリジリと、電球の鳴く音と、テレビから聞こえる野球中継が、この食卓を鮮やかに彩った。
「承太郎、もっとお肉食べて頂戴」
 母は言うと、俺のさらに二、三個大きな肉の塊を置いた。自称ベジタリアンな母は、人参のグラッセは私に頂戴、と、お咎めを受けない無邪気な声で笑った。
「来週から一か月ほど研究に行く」
 母から与えられた肉を頬張り、俺はなんでもないように言ってみた。しかし、母は、ほんの少し沈黙した後、I see.と笑う。どうした、と、訊くまでもなかった。親父はいつ帰ってくるのだろう。そう、思った。

 部屋に入ると、いつの間にか蒲団が敷かれていた。たっぷりの羽毛が詰まったそれは、祖母が送ってよこしたものだ。日本の冬は寒い、としきりに言いながら、それでも雪が降るのは美しいと笑って何度か来日もしていた。
 俺は部屋の電気もつけずに、するりとその蒲団の中にもぐりこんだ。蒲団の中にあるぬくもりは、母の入れた湯たんぽだった。気がきく、と、俺は素直に感じた。
 守るべきものが、解らなくなるとき、大抵は、こう言ったぬくもりが脳裏を冷静にさせていく。


 翌日は雨だった。冬と春が入り混じった温いムッとした空気が、雨戸をあけたことによって室内に雪崩れ込んできた。ゆるく履いた寝巻きを脱ぎ捨てて、洗い縦のジーンズに足を滑り込ませる。冷たい感触が、肌を粟立たせ寒さを増す。やはり冬の朝である。
 家にはすでに、他の生き物の気配はなかった。母親はどこかへ出かけたようで、ダイニングテーブルの上にあるメモ書きに、チンして食べて、と、昨日の残りが置いてあった。それをタッパーに詰め、俺は身支度を始める。伸びた髭を剃り、歯を磨く。立派な大人になったんだな、と、花京院は言うだろうか。
――変わらないで
 花京院の言葉が、鮮明に蘇った。互いの熱を持った肌を密着させながら、花京院は俺の腕の中で殆ど号泣するようにそう言った。やけにはっきりとした声で、変わらないで、と懇願した。変わるものだ、人間というのは日々変化していかなければいけない。自分は確かそう答えたはずだ。いつまでも、己の中で燻り続けてはいけない。
――それでもいい、変わらないで
 なにに対して、その言葉を言っているのかわからなかった。変わらないということは、死んでしまうことだ。進化しない生き物は、遥か昔に死んでしまったものだけだ。人は、完璧にはなれない。どんなに努力や才能をもってしても、それは決して変わらないことだった。
 変わらない。俺は冷たい水で顔を洗った。水道ドウドウと流れる水が、花京院の声もかき流していく。亡霊とは思いたくない、それは俺の弱さである。花京院典明という存在を、今だ諦められていない俺のみっともなく情けない精神が、その言葉をよみがえらせている。
――変わらねえよ
 俺は思った。この感情だけは、絶対に変わらねえと。


 車を走らせる。濡れたアスファルトを走るのには、もう慣れていた。最初はカーブにあるマンホールでスリップをすることもあったが、それももう昔の話だ。
 インターから高速に乗る、次々に流れていく景色を見るまでもなく、車はどんどんと速度を上げた。小高い丘にある、彼の住処に向かうには、高速に乗るのが一番早かった。平日の昼間、周りはトラックやタクシー、だけで、ほとんどガラガラだった。スムーズすぎる勢いに、俺は彼に会いに行くことなど造作もないことを感じた。
そうなのだ、この距離は、決して長い道のりではない。たとえばそこに、彼の姿がなくても、彼が茄子や胡瓜の馬にまたがって、盆という限られた時間しか俺に会いに来れないこととはまったく違う。俺はこの足で、この腕で、この身体で、すぐにでも彼に会いに行くことができるのだ。
とたんに、ふっと、腕の力が抜けた。どれだけ強く突っぱねていたのだろうか、左手の感覚がほとんどなかった。あっという間だ。花京院に会いに行くことなんて造作のないことだ。
 俺はふっと顔をあげた。渋滞に捕まった、先頭車両が、目の前で列をなしている。


 俺は、その後の事を覚えていない。後日聞いた話をするのであれば、俺はあのあと、目の前の渋滞に激突したらしい。ブレーキも踏まない時速八十キロの車は、ただの凶器ででしかなかったと、今ではただただ反省している。そして、それを知るのはもっと先の話である。
 実際の今は、目覚めた時に目の前にあった母親の顔だけが全てだった。何があったのかわからず、俺は言葉を発しようとしたが、それはできなかった。喉の奥が焼けるように熱を持ったかと思うと、液体のような吐瀉物がせりあがってくる感覚に見まわれた。
 母は、慌てて俺の視界から消えた。口が動いていたが、声も聞こえなかったので、いよいよこれは唯事ではないと俺は思う。しかし、体はどこも、例え眼球さえも動かせなかった。ただ拷問のように空を見上げるだけである。
「馬鹿者!」
 突然、鼓膜を激しく揺さぶるような音がした。俺は驚き、動かない身体にもどかしさを抱えた。
「大馬鹿野郎だ、本当、何を考えているんだ」
 俺は、すぐにその声の主に気がついた。そうすると、ふっと視野に彼の美しい髪が見えた。天井からするりと彼は降り立って、そして俺の目を覗きこんだ。
「そのビー玉みたいな蒼い目で、君は一体どこを見ていたんだ」
「花京院か」
 すんなりと発せられたのは、確かに俺の声であったが、俺には口元を動かしたつもりは毛頭なかった。そもそも、花京院が今、この目の前にいるということは、きっと彼は俺に会いに来たのだろうと察した。もしくは、俺が彼の元へ行ってしまったか。否、それでは母親がいたことが説明できないので、やはり花京院が俺に会いに来たのだろう。
「俺は、変わったか」
「変わったァ?変わったどころじゃないな。左手の骨折、右足の複雑骨折。首は鞭打ち、全身打撲。全治三ヶ月の大怪我だ。交通事故だよ、わき見運転。幸い怪我人も死人も出なかった。君一人が重傷だ」
 でも、と、花京院は続けた。ふわりとした動きで俺の瞼にそっと触れる。白くて細い指先は、天井のランプを透けていた。
「でも、できるだけ守ったつもりだったんだ。なにしろ咄嗟のことだったから、実体のないぼくに取って、これは本当にびっくりしたんだ。君の体を、こう、抱えるようにして……」
 花京院は言いながら、その時を再現するように、俺に覆いかぶさった。緑の制服から透けるライトが鮮やかな海の底のようにきらめく。
「だから、顔は大丈夫だったろ。瞼は切れてしまったけれど」
 そっと撫でる花京院の指先に、俺の瞼の傷があるのだろうと憶測した。目をつぶることが叶わないので、俺は目を開けたまま花京院の透ける身体を眺めていた。抱きしめたいと思ったが、それができないことは重々承知であった。
「会いに、来たのか」
 言うと、ムッとした違和感が腹部に襲いかかった。それが嘔吐感だ。
「誤解しないでくれ、ぼくは茄子や胡瓜に乗ってくるわけじゃない。ずっと、君のそばにいるんだ」
 気が付くと、花京院の姿は消えていた。どこへ行った、花京院。と声を出そうとしたが、それはできなかった。先ほどまで楽にしていた呼吸が、突然水中に落とされたように苦しくなった。内臓が競り上がるように苛立ちを増して、俺はもがいた。花京院の声は聞こえない、それと同じように、一瞬で視界は開けていき、誰かの大きく叫ぶ声、母が俺を呼ぶ声、電子音、呼吸器の空気が抜ける音、さまざまな色や音、形が俺の目や耳から駆け巡るように流れ込んできた。
「空条さん、大丈夫です。私たちが絶対に助けます」
 看護婦が、俺の顔を覗き込んだ。茶色い髪が、花京院の姿と重なる。腕を伸ばしたかった。謝るべきだと、俺はその時に悟った。
 誰に。母親や、この医師や看護師。
 そして花京院に。
――いいよ、謝んなくて。
 脳裏に、花京院の声が聞こえた気がした。
――その代り、もっとよぼよぼになってから、ぼくにプロポーズでもしに来てよ
 ……そうか。
――指切り拳万!!



END



2010.2.5
ちょっと弱い承太郎






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