lepus mens
 

 こっそりと立てた計画。
 ぼくは小ぶりのボストンバッグに入れた荷物を肩に抱えた。数日間の、ほんのささやかな旅なので、そこまでの荷物は必要ない。最低限の衣類と寝具。それに読書のための本を二冊。どちらも小難しい哲学で、それを読む前にぼくは旅先でのさまざまな情景に目を奪われるに違いなかった。そして、その先々にある、何かとてつもないものを、胸に秘めて戻ってくると思うと、途端に身体が興奮で満ち溢れてくる。
 寝室で眠る恋人には、一週間前に一言旅行に行くと告げただけだが、恐らく理解してくれるだろうと思っていた。
 いや、理解ではなく、それが自然なことなのだ。テーブルには焼いたトーストと、ミルクの入ったグラスがある。彼が起きてすぐに目をやると思うし、それできっと察知してくれると思う。
 ぼくは極力、音を立てないように廊下に出た。履きなれたスニーカーは、真っ白だったはずなのに、いつの間にか泥や砂で汚れてしまっていた。
「行ってきます」
 返事がないのは分かっている。なぜなら、こんなにも身体が重たいのだ。昨晩の密事はぼくの身体を極限まで戦慄かせた。震える指先と、承太郎の慈しむような身体に触れて、ぼくらはまるでどろどろに溶け合ったチョコレートのようだった。形もなく、ただゆったりとそこにあるだけの姿。
 ぼくは、もう一度室内を振り向いた。爽やかな朝の太陽が、室内に舞う埃をきらきらと反射し、パリッとした清潔感に満ち溢れていた。外気の冷たさを感じさせないその穏やかなぬくもりに、ぼくはもう一度、酷く小さな声で、行ってきます、と、呟いた。
「おう、行って来い」
 ぼくが玄関を開けて出ると、部屋からそう、声がした。


 マンションのエレベータで、ぼくはポケットの中から飴を取り出して口に含んだ。先日、スーパーで特売をしていた大きな飴玉で、緑の色彩がとても美しい。舐めるとメロンの味が口内に広がって、ザラザラとした砂糖が舌に触れる。
 エントランスのところで、近所の奥さんが花壇に放水している。それは、きっちりとした弧を描いて、まるで計算されたかのような角度で花の目を濡らしていた。
「おはようございます」
 ぼくはボストンバッグを、右から左にかけなおして一礼した。奥さんは他愛のない世間話――おはよう、天気が良いわね、のような――をしてぼくに手を振った。
「行ってらっしゃい」
「ありがとうございます。行ってきます」
 こんなとき、ささやかな人のぬくもりに、ぼくは泣き出したくなる。


 バス停で、時刻表と顔を向き合わせることも、近頃では随分少なくなっていた。久しぶりの遠出に、微かに胸が高鳴っているのを感じる。例えばこうしてあと数分後のバスを待つことすら、幸福だ。備え付けられた簡素なベンチは、雨風にさらされて色をなくし、さび付いている。たゆたうようにして歩いてきたお年寄りが、腰をかけると、それは頼りない音でギィっと鳴いてみせた。
「どこかへ行くのかい?」
 最初、その言葉が自分に向けれているのとは気がつかずに、ぼくは、ぼうっと道路を眺めていた。角を曲がってバスの頭角が見える様子はない。
「その荷物なら日帰りだね」
 ようやくそれがぼくに投げかけられている声だと気がつき、ぼくは視線をゆっくりとおろした。ベンチに座ったお年寄りは、杖に手を突いたまま顔を上げなかった。恐らく、だが、腰が曲がっているため、上を向けないのだろうと思う。ぼくはそっとお年寄りの前にしゃがみこんだ。
「残念です。これでも二泊なんですよ」
 ニコリと笑ってみせる。前髪が顔にかかるので、耳に欠けると、お年よりは、にぃっと口元をゆがめた。金色の歯が二本見える。
「そうかい、いいねえ、男の子は荷物が少なくて」
「ぼくは特別かもしれません」
「そうかもね、そうかもね。うちの孫どもは、いつも大きな荷物を持っているよ」
 お年寄りは、会話を楽しむようにそういって、ぼくの顔を見た。白髪にまぎれている長い睫毛や、年の割りに形の良い唇が、若かりし頃を彷彿とさせていたが、今では声も身体もおばあさんなのか、それともおじいさんなのか判別はつかなかった。
 いづれ、ぼくらはこんな風に年をとっていくのだろうか。どれだけ強靭な肉体であれども、こんなちっぽけになり行くぼくら。しかし、そのお年寄りを見て、ぼくは悲しみなどぜんぜん浮いてこなかった。そこにたどり着くために、ぼくらは生きているのだからそれも、間違えではないのだと思う。
 ぼくは腕時計を見た。バスの到着時刻はあと三十秒ほどだが、一向に気配は感じられなかった。
「おばあさんは」
 ぼくはそう切り出した。彼女は聞こえていないのか、聞き流しているのか、どちらにせよ返事をしなかった。
「これからどこへ?」
「どこかねえ、どこかねえ。ずっとずっと遠いところだねえ」
 そういって、亀がそうするように、少しだけ首を伸ばしてみせる。ぼくはしゃがんだままの足に痺れを感じたので、素直にベンチに腰掛けた。また、ギィっと言う頼りない音がしたが、ベンチは穏やかで逞しくぼくの体重を支えた。
 朝日が少しずつ高くなり、ぼくらの足元を、ゆっくりと日差しが迫ってくる。
「いきたいねえ、じいさんと一緒にいきたいねえ」
 おばあさんは呟くように言うと、手に持っていた小さな巾着袋を覗きだした。皺皺の指先が、巾着の中から何かを取り出す。そっとぼくの膝に置かれたそれを見ると、それはピーズで作られたウサギのキーホルダーであった。
「それを、じいさんにあげたいんだけどねえ、いっぱい作ってやったんだけどねえ。あんた、届けてくれないかい」
 おばあさんは、ゆっくりと時間をかけてそう呟いた。白いビーズの真ん中に、真っ赤なビーズが二つ並んでいる。
「いいですよ、届けましょう」
 ぼくは言った。きっと、おじいさんは、おばあさんをおいて、先に旅に出たのだろう。彼女の行きたい、という言葉が、ぼくにはまるで逝きたいとも、生きたいとも聞こえた。後者であってほしいと願うように、そっとそのウサギを手の平に納める。
 バスはまだ来ない。時計を見るが、時計が止まってしまったようにゆっくりに見えた。
「じいさんは、ずっと遠くにいるんだよ」
 おばあさんは杖を左右に揺らした。懐かしい思いに馳せるようにゆっくりと正確なリズムを刻んでいる。
 しばらくそのまま、ぼくは空を見上げて、彼女は大地を見つめていた。どれだけ時間が経ったか分からない。ほんの一瞬にも、永遠にも感じられて、ぼくは時が止まっているのかと錯覚した。
「おばーちゃーん」
 声とともに、バスが来る予定の角から、走ってくる女性が見えて、おばあさんは立ち上がった。ぼくも連れられて立ち上がる。息を切らしている彼女は、恐らく四十には達していないだろう。
「おばあちゃん、だめよ、急にどこかに行ったら」
 追いつくや否や、彼女はおばあさんの手をとった。半ば引きずるようにして、ぼくから遠ざけると、なにもされませんでしたか?と小声で訊いた。ぼくはウサギのキーホルダーを見えないように握り締めて、首を振った。おばあさんは相変わらず曲がった腰で、地面ばかりを見つめている。
「本当にごめんなさい、お年寄りだから、呆けちゃって」
 彼女は申し訳なさそうに言った。真っ白で汚れのないエプロンに、日差しが反射する。
「いえ、大丈夫です。バスを待つ間、話し相手になって頂いただけなので」
 ぼくが言うと、彼女は深く頭を下げた。よく見ると目元の皺が、彼女の苦労を物語っている気がしなくもない。それにしても、ぼくは思う。
(いい天気だなあ)
 まだ、バスは姿を見せない。


 都会から離れるために、一度都会に出なくてはいけないというのは、酷く難儀なことだと、ぼくはしみじみ感じる。十一時二十三分発の列車に乗り込むまでに、たくさんの人とすれ違った。それらから、解き放たれることは、誰もが望んでいるはずなのに、誰もその中から抜け出ようとはしていなかった。
 退屈。しばしばそう感じるこの日常に、逸脱した感性を持ち合わせるのは中々平常の人間には難しいことだろう。例えば、ぼくらみたいな自由人であればきっと別なのかもしれないが。
 ガタゴトと、規則的にゆれる列車は、どこまでも長い線路を走り続けた。情景が、次々に流れては消えていく。通り抜ける駅のホームに寄り添っている男女や、退屈そうに欠伸をする売店員などをすり抜けて、ぼくはどこまで行くつもりなのか知れない。

 しばらくして、トンネルを抜けると、海が見えた。白い波がいくつもせめぎあっているのを見て、ぼくは承太郎のことを思い出した。承太郎の髪の質感、声のトーン、骨ばった指先の整った爪。見つめる瞳は、いつも迷い鳴く、夜に暴かれたぼくを映し出していた。
 赤く上気する身体。触れた指先から次々へとこぼれていく愛とか、そういう感情。鮮やかな色彩を連れた極楽。ぼくは、咄嗟に手のひらを握り締めた。
 旅に出ると、ぼくはたいてい承太郎のことを思い出した。距離があけば開くほどに、ぼくは彼を思うことができる。承太郎の身体のラインを思い描いて、ぼくはそっと息を吐いた。うずく身体を抱えて、あと一時間の道のりを行くのは、なぜか心地が良かった。
 日常から逸脱するからこそ、ぼくは彼を思っていける。ぼくは鞄の中に入れてある、ビーズのウサギを取り出して手の平に乗せた。ずっと遠くに居るおじいさんは、きっとこれを受け取ってくれるだろう。色彩をなくした真っ白なウサギ、純度の高い、愛の形。


 ぼくは目を閉じた。電車の音が、ゴトゴトと鳴る。
 日常が、音を立てて後方に流れて崩れていく。近所の奥さんも、バス停のおばあさんも、全てが窓の奥に流れて消えた。
 きっと、承太郎さえも消えるときがくるのかもしれない。それでも、あのおばあさんのように、ぼくは彼を思っていけるだろうか。速度を上げる列車の汽笛が、ぼくの思考を肯定するように、遠く、悲しく響いていた。





2010/2/22
旅に出て、自分を保つ花京院と、距離を持つことで関係を保つ承太郎のお話。








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