ベッドの中
 

 夜、花京院は悲鳴で目を覚ました。窓の外には美しい月が丸く切り抜かれたようにぽっかりと浮かんでいた。
 悲鳴、と、言うのは、誰かの、ではない。自分のだ。花京院はまだ荒い呼吸を抑えるように寝巻きの襟元を握り締めた。はっはっ、と、短く息を切る。心臓が壊されそうなほどに脈打っている。
 なぜ、と、思った。なにか、酷く恐ろしい夢を見た気がするのに、まったく覚えていないのだ。月明かりだけがぽっかりと花京院を照らすので、花京院は不意にその月を見上げた。
 眠るのには、もったいないくらいの月夜だった。


 パジャマの上にジャージを纏って、花京院はそっと窓を開けた。冬と春の入り混じったまだ冷たい風が優しく頬を掴むので、ハイエロファントグリーンを屋根まで伸ばしてそのまま上った。ふわりと、身体が浮く。このあたりは住宅地で、屋根に上ると他の建物は下に見える。
 満点の星空が、あたりに大雑把に散らされている。宝石箱をひっくり返したような光景に、花京院はしばらく酔いしれた。空の殆ど真ん中に、オリオン座が鎮座している。まったく静かな光景だった。
「花京院」
 忍ばせるような低い声に突然名前を呼ばれて、花京院は驚いた。花京院。もう一度声がする。
「な、承太郎?」
 花京院が屋根から身を乗り出して路面に目を向けると、そこにはミリタリージャケットにジーンズと、いつもと違う承太郎の姿があった。すらりとした影が、街角のライトに照らされて奇妙に伸びている。
「なんで君がここにいるんだよ」
「てめーが呼んでいる気がしたんだ」
 花京院は目をまるくした。
「なんだよそれ」
 承太郎は、花京院の居る場所を確認すると、ゆっくりと出現したスタンドの力を使って、いとも簡単に屋根に飛び乗った。
「こんなにいいところを知っているなら、もっと早く教えてほしいもんだ」
 承太郎はポケットに手を入れて、天然のプラネタリウムを眺めると、感嘆の声をだした。それは確かに溜息をつきたくなるほどの満点の空で視線に釣られて、花京院も空を眺めた。
「怖い夢を、見るときがあるんだ」
 花京院の声は、細く夜の街に響いた。満月から放射線状に発せられる輝きを、花京院は手の平で覆い隠した。それが、まるで夢の中で見た、恐ろしい悪魔の瞳に見えるからだ。どこに居ても、花京院の頭上多角で、強かな監視の目を続けているような、末恐ろしい感触が、肌に蘇る。
「ぼくは、その夢に、敬服してしまう。自分の意思とは、全く違った場所で」
 花京院は、自分の肩を抱いた。足元から冷気が身体の表面をすべるように襲ってきた。
「すごく、怖かった」
 花京院は自分を奮い立たせるようにこぶしを握り締めて、承太郎にそう呟いた。それまで、じっと静かに花京院の言葉に耳を傾けていた承太郎は、おもむろにジャケットのポケットから煙草を一本取り出した。
 くしゃくしゃになった箱の中から、一本丁寧に引き抜くと、そっとそれを花京院の手に渡すと、承太郎は何も言わずに屋根の大棟に腰掛けて、自分も煙草を咥える。
「煙草の吸い方なんか、ぼくは」
「こっちこいよ」
 承太郎は言うと、花京院の顔をじっと見た。星の瞬きが、そのまま瞳に吸収されてしまったように、承太郎の目はただきらきらと輝いていた。それは、深い緑色で、どこか地球を思わせた。花京院は慣れない手つきで煙草を咥えると、承太郎の隣に腰を下ろした。
 承太郎が、ポケットからファミレスで貰ったブックマッチを取り出して、片手で器用にすり合わせた。赤燐が鮮やかな炎を出して一際明るい光を放った。承太郎は、その火が風で消えぬように手の平で風除けを作りながら、花京院の咥えるタバコの先に当てた。
「ゆっくり吸うんだぜ」
 承太郎は呟いて、自分も同じようにその火の中に煙草の先を触れさせた。ジリっと、紙が燃える。
 花京院は、承太郎の見よう見まねで、煙を吸ってみたが、途端にむせかえってしまった。
「……ごほっ、君、ばかだろう」
 舌の先を、つんとしたいやな感覚が残っていた。承太郎は花京院の言葉を聞いてか聞かずか、空を仰ぎ見てプカっと煙の輪を吐き出していた。
「そんなの、身体に悪いだけだろう」
 花京院は体育座りのまま、顔だけ承太郎のほうを見た。
「どーだかな」
 花京院は、膝の上に頭をおいて目を瞑った。煙の匂いが、髪に染み付いたように香った。
「でも、これでゆっくり寝れそうじゃねぇか」
 承太郎はニッと口角を上げ、花京院の頬に触れた。それは、共に成長してきた友人の触れ方ではなく、恋人を慈しむような、酷くやさしい触れ方だった。
 花京院は、丁度自分が思っていたことと、彼が今想像していることとが、奇妙に合っていることに違和感を覚えながらも、小さく微笑んで呟いた。
「なんだ、君、分かっていたのか」
 花京院は胸の奥がつんと傷むのを感じた。承太郎は知らん振りをして、また煙を吐き出した。

 自分の弱さゆえに、旅から帰ってきた後も、しばらくあの亡霊に付きまとわれた。心を食荒らすあの悪魔にじわじわと侵食される自分のことを、おそらく承太郎なりに心配していたのだろうと、花京院は思った。きっと、何日かそうして自分の姿を、彼は見守りに来ていたのかもしれない。
 孤独に打ち破るのは、自分との戦いで、自分だけで乗り越えなければと、花京院は思い込んでいた。それゆえに、どんなに孤独で耐え難くても、両親にさえ秘密にし続けてきていたのだ。
 友達と、呼べる人ができて、初めて誰かに頼ることを知っと思っていたが、今度はそのタイミングに悩んでいた。声をかけていいのだろうか。例えば教室で、例えば町中で、彼の名前を言葉としてつむいでいいのだろうか。迷惑ではないだろうか。そんな風に、自分を追い詰めては自身をなくしていく。
 きっと、承太郎はそんな花京院に気がついていた。だからこそ、こうして。
「深い意味なんてねぇよ」
 承太郎は、ぶっきらぼうに言った。その言葉は、何よりもうれしくて、花京院は立ち上がった。
「承太郎、ありがとう」
 花京院の言葉は、広い空に虹の輪を作るように溶け込んでいった。承太郎の煙が、空にゆっくりと立ち上る。シンとした静寂の夜に、花京院は確かな道しるべの星を見つけている。




2010/03/04






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