生命のフリーズ
 

 答えは簡単だ。泣き喚けばいい。

 冬の夜は早い。夜が来ると同時に、花京院の胸のうちに少しずつ忍び寄ったその気配は、太陽が沈むのを待ち、途端に背後に襲い掛かってきた。重苦しい雰囲気に、主人を持たぬ家具は仰々しく其処にあり続けた。どうして、と、思ったが、言葉にはならなかった。ただ、単純にあの男がこの家に居ないということだけが、奇妙な現実として其処にあった。
 承太郎は、今、この家に居ない。本来ならば、やわらかい暖色のライトが室内を照らし、整えられた空調と、都合が付けばオーディオから穏やかなクラシックが流れてくるはずの夜。花京院は一人でそれと退治していた。いや、そもそも、それは花京院にしか見えていない。こうして一人で居るときや、ベッドで自分だけが目を開けているときに、其れは大地を這い回るように近づいてくる。
 不安と罪悪と、それから愛と。花京院は葛藤している。
 承太郎は、先ほどアメリカに帰った。数日だけの日本への出張に、心から喜んだのは事実だ。彼を待つ駅の改札で、暗い空に浮かぶ薄い月を眺めて、それは至極至福なときであった。彼を待つとき、自分は何よりも幸福だと思えた。できることなら、あの時間にもう一度戻りたいと、花京院は一人の部屋で思う。思い出の詰まったこの部屋で、押しつぶされそうな不安と対峙しながら。
 彼と交わした最後の約束を思い出しながら、花京院は流しに立った。彼の使ったカップは、酷く冷たく――例えば死んだ人間のように――流しの中に倒れこんでいた。白く、頼りない、それでいて穏やかな。
 花京院は、それを手に掴んだ。冷ややかな気持ちで。指先が寒さに凍えそうだった。そのまま頭上高く持ち上げ、そのまま床に振り下ろした。つるりと鮮やかに、同時にぞっとするような感触でそれは地面にたたきつけられて、あっけなく割れてしまった。欠けた破片が、ざっくりとした傷をフローリングにつけるのを見て、花京院は発狂しそうな自分に気がついた。
 夜十一時の夜の帳で、声を荒げることははばかられ、花京院はダイニングテーブルの上にあったものを全てあたりに投げ捨てた。薄い硝子でできた灰皿や、テーブルの上に飾ってあるアイビーの鉢。彼の触れたペンや写真。一人分のブルーのテーブルクロス。全てが鮮やかにゆっくりと弧を描いて、壁や床に衝突した。舞い散る灰と、土と、細やかな硝子たちは、室内の白い壁をキャンパスにするようにちりじりに溶け合って行った。
 花京院は、こんなにも悲観的になっているというのに、自分が涙をいっぺんも流していないことに少し驚愕した。
(こんなに悲しいのに)
 硝子が割れる音も、砂が散る音も、花京院は聞こえなかった。絶望が、耳元で魅惑的にささやく。
「もう、いいじゃないか」
 こんなに苦しんでいるだろ、と、花京院は思う。
「ゆるしてくれよ」
 花京院は、殆どすがる思いでそういったが、絶望は決して花京院を許さなかった。恐怖に押しつぶされる。世界にある全ての不幸が、体中に押し寄せてくる。そして、それ以外に、花京院を知る者は何も無かった。あの男が居ない今、自分を知るものは誰も居ない。例えば、こんな夜遅くに、どんな絶望じみた悲鳴を上げようとも、誰も来ない。ただ、静かな夜が、したたかに近づいてくるだけだ。
 怖い、と、花京院は素直に思う。彼が、誰もが、自分を忘れて。時間さえも、自分を忘れて、どこか遠くに行ってしまう気がした。どうしたらいいのか分からなかった。承太郎を送り出したあの駅で、こんな風に絶望が見に迫るなど考えてもしてなかった自分を酷い言葉で罵ってやりたかった。幸福に満ち溢れていたし、それでいいと思っていた。恋人になれなくてもいい、友人として、そばに入れるだけで幸せだと。なのに、と、花京院は思った。指先が、酷く冷たい。床に投げ捨てた灰皿を拾い、キッチンの引き出しから煙草――シルバーのシガレットケースで、表には繊細な花の絵が書かれている――を一本取り出した。ライターが無いので、コンロから火をとる。薄暗い室内で、コンロから出る青い炎と、其処に触れた煙草の先からゆっくりと立ち上がる赤い光が、どこか親密でいかがわしく煌いた。
 そう、幸福だった。煙を吐き出して、花京院は思い出す。承太郎との日々は、幸福だった。裏づけも許可も必要が無かった。親友という、曖昧な関係。目の前で、彼が話す異国は、花京院に鮮やかな情景を見せた。ほほえましく、家族と並ぶ彼の写真も、花京院にとっては目新しく見えた。そしてそれを話す彼は、まるで昔に戻ったかのように、嬉々としてみえた。
 思い出を見るたびに、花京院は過去の自分にさえ嫉妬した。あのときの幸福はあのときの自分のもので、今の花京院には、ただただ忍び寄る絶望だけが唯一なのだ。ほほえましく並ぶ、家族の写真も、あの幸福な数日間を味わった自分も、どちらも同じ憎悪だ。
 おびえる花京院を、絶望はただじっと見つめていた。冷たく、恐ろしい空白は、花京院を飲み込んだ。限界だ。花京院は思った。長くなった灰が、床に落ちた。
 殆ど、すがりつく思いで、花京院はリビングの引き出し――本棚の真ん中にある小さな引き出しだ――に手をかけた。だめだと思ったが、すでに花京院の意識に、自制は無かった。躊躇いなく、引き出しを開く。
 絶望が、すぐ横で、その口を三日月型にゆがめているのが見えた。





2010/3/9







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