サルビア
 

「おや、先客かな?」
 夕暮れの屋上、薄暗い校舎。夏休み真っ只中なので、どうせ誰も居ないだろうと高をくくっていたが、思わぬ先客にぼくは声を上げた。軋みを上げるドアは、昔、承太郎が破壊してから鍵が外れたままだった。ぼくは重いドアをそっと押す。むわっと温い夏の風が、肌に薄い膜を張るようにまとわり付いてきた。
「なんだ、君か」
 ドアの先、見慣れた後姿を屋上に見つけて、ぼくはなぜか安堵するように息を吐き出してギィィとさび付いた音をたてるドアを力強く開いた。
 音を聞いて振り向いた承太郎は、まっすぐとぼくを見て言った。
「おう、オメーこそどうした」
 夏休み中の校舎には、生徒の姿はほとんどなかった。
 唯一すれ違う、部活動を終えた生徒たちは誰も満ち満ちた表情をしていて、ぼくのことなんか見向きもせずに横を通り過ぎていく。なぜか疎外感を感じながら、いつの間にか一人でいることを当たり前になっていることに気づかされて、気持ちを落ち着かせようと、此処に来たのは、あながち間違えではなかったのかもしれないと思えた。
「夏休みに登校なんてちと優等生すぎやしねぇか?」
 堂々と屋上で煙草の紫煙を吐き出す承太郎の姿は、どこか大人びている。どうしたって正しいはずは無いのに、承太郎はどうしてこんな風に堂々とできるのだろうか。
「市立図書館が改装で閉鎖中だろ。だから学校の図書室に来たんだ。君は?」
「……補習だとよ」
「高校三年生の夏休みに補習だなんて、君は余裕があるな」
 ぼくが言うと、彼は嫌そうな顔をして鼻で笑った。
「この内申じゃ、どこも行けやしねぇよ」
 ぷか、と、彼が話すのと共に吐き出された煙が、温い風に消えた。心もとなく視線で追うと、承太郎は言葉を選ぶようにして煙草を吸った。
「図書室に来た奴がどうして屋上なんかに上ってきやがる」
 承太郎はそう訊いてぼくの方に視線を投げつけた。言い訳を考えるのも、何か違う気がして、ぼくは彼の隣りに立つように屋上の柵へと体重をかけて町を見下ろした。
 遠くのほうで、オレンジの太陽がゆっくりと山並みに消えていく。背後から迫る群青の夜が、町を飲み込んでいくみたいだ。
 昔、御伽噺で見かけた太陽と月がくるくると回る時計を思い出して、ぼくは仄かな感傷に浸る。
「せっかく来たのにただ帰るのももったいなくて」
 承太郎が居るならもっと早く来たのに、と、ぼくはさりげなく付け加えると、彼は驚いたように瞳を開いて笑った。
「オメーは本当に友達がいねぇんだな」
 失礼だ、と、ぼくは唇を尖らせたが、実際承太郎にだって大した友人が居ないことを知っているので、それ以上何か言うのも悪い気がして口をつぐんだ。
「それで、補修はちゃんと出たのかい?」
 まさか、と承太郎は笑った。馬鹿な男だな、と、ぼくも笑う。承太郎は、頭がいいのにどうしてそんな風に人生を無下にするのだろうか。ぼくはそっと承太郎の顔を覗き見るが、相変わらず目を顰めたまま、不機嫌そうな表情だった。
(二人で居るときくらい笑えば良いのに)
 承太郎は、あまり学校で笑わない。例えば旅の途中は、あんなにも近くそばに感じていたのに、日本に戻ってからどうしようもない一定の距離感がぼくらの間には存在していた。
「卒業できないぞ?」
 ひゅ、っと強い風が吹いて、ぼくの言葉が薄色の空に流されていった。夕闇が、ぐんと近づいた気がして、ぼくは柵から身体を離す。
「別に」
「本当、馬鹿な男だ」
 ぼくの呟きを最後に、再び沈黙が降り注いだ。ぼくは空の端を探すように遠くのほうに目をやった。ミニチュアみたいな町は、ぼくらが居なくても機能していくんだろうか。
「……今日ね、ぼくの誕生日なんだよ」
 いつの間にか、口にしていた言葉を、ぼくは今更取り消すこともできないままじっと空の端を睨み続けていた。
 承太郎が踏み潰した煙草の吸殻から、静かに視線を上げてぼくの背中を見つめる。視線を感じ続ける背中は少し居心地が悪い。
「それは知らなかった」
「言ってなかったからね」
 振り返ることができないまま、ぼくは吐き出すように言ってみた。承太郎からの返事は無い。どうしてそんな(まるで祝って欲しいといわんばかりだ)言葉を口にしたのだろうか。しかし発せられた声は、想像を絶する速さで承太郎の鼓膜を微弱に震わせてしまう。
 承太郎は何も言わない。沈黙は、穏やかに膜を張り続ける身体を、やんわりと撫でていった。実は承太郎はもうそこに居ないんじゃないかなんてことまで考えて、ぼくは慌てて振り向いた。しかし、承太郎は先ほどと変わらない表情のままぼくのことを見つめていた。
 きっと、知らない人が見たらぼくは彼に恐喝でもされているのだろうかと思うだろう、それくらいに酷く手厳しい目だった。
「……お、屋上から見える特等席を知っている?」
 ぼくはもう留めることのできないありったけの言葉を吐き出した。なんでもいい、沈黙を破れるものならば何でもよかった。次々溢れる言葉の一つが、承太郎が微かに表情を変えた。
「特等席?」
「……夏の間だけなんだけど」
 承太郎がそっと表情を緩める。ぼくは久しく見ていなかった彼のそんな表情に、すこし拍子抜けした。
 承太郎の視線を感じながら、ぼくは塔屋の向こうにある古くさびた柵を乗り越えた。屋上の柵の向こうはどこも人が立てるスペースなど無いのだが、そこだけは、排水のためか五、六十センチ各ほどの床がある。
 承太郎が心配そうに、おい、と声をかけたが、ぼくは舞い上がる風を浴びながらそっと振り向いた。
「大丈夫、来いよ、承太郎」
 ぼくの長い髪は、ふっと巻き起こる突風に揺れた。またぐんッと夜が近づいて、ぼくは息を飲んだ。青く染まる町並みは、とっぷりと水に浸かっていくみたいだ。
 承太郎が、差し伸べたぼくの手を取る。それは、ぼくの手を頼るというよりも、ぼくの手を支えるみたいだった。確かなぬくもりはあっけないほど簡単に境界線さえ飛び越える気がした。懐かしいそのぬくもりに、ゆるい夏の夕暮れの風が懐かしい砂の匂いを帯びて心地よく触れていった。
「……いったいどこが特等席なんだ」
 変わらぬ景色に、不満そうに承太郎が言う。ぼくは黙ったまま覗き込むように校舎裏に目をやった。
 午後には日陰に変わってしまう、校舎裏は、部活棟で殆ど人が居ない。
「あくまで、ぼくにとっての特等席なんだって」
 指差した先を見て、ぼくはやっぱり幸せになった。校舎に沿うように作られた花壇は園芸部のものだ。夏野菜や色鮮やかな花が咲いている。一角を彩るそれと、もう一つ、ぼくが最高に気に入っている花壇がある。
「……こいつは立派だな」
 承太郎はヒュゥ、と口笛を吹いた。ぼくは自分が魔法使いにでもなった気がした。花壇一面に咲き誇っている花の名前はサルビアだ。穏やかに揺れる花はまるで真っ赤な絨毯だ。四方にある花壇のどれもが、鮮やかな赤で染まっている。それはさながら海底の珊瑚のようだった。
「サルビアだよ、ぼくの誕生花だ」
 ぼくはサルビアの赤のように心の中に芽生えた恋情を大切に感じた。手放すことの許されない其れはぼくの胸の中であの花の絨毯と同じようにどこまでも続いている。
「確かに、これは特等席じゃねぇか」
 承太郎は、殆ど感傷的にいって、ぼくの手の平をぎゅっと強く握った。何気ない景色を、承太郎は色とりどりに染めていく。あっけなくも、簡単に。
「……なあ、承太郎」
 ぼくはそっと囁く。彼の耳元や首筋や、開け放たれた学ランの襟首を愛しく思いながら。そしてその愛しさが、決して他人への恋という思いに変わってしまわないように。
 承太郎は相槌もしなかった。それでもぼくは、途端に縮まった距離感に、もう飛び上がりそうなほどうれしくて、そしてそれを勘違いしないように目を閉じた。
 温い風が、微熱じみた肌を、二人の繋がる手の平を、幸福になで上げる。
「なあ、これって、とても青春っぽくないか?」
 ぼくが言うと、承太郎は少し照れたように笑って、そしてぼくの身体を強く強く抱擁した。




2010/08/06
花京院は時々至極に幸せにしてあげたくなります。この二人には悲しいこともう必要ないと思います!
花京院誕生企画に参加させていただきました。




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