プラネタリウム
 

「そういえば」
 なんて、承太郎が深刻な声を出したもので、ぼくは丁寧に崩していた糸こんにゃくから顔を上げた。承太郎は透明なグラスから日本酒を煽り空を見上げるようにしてぽつりという。
「今夜は十五夜か」
 夏の間は閑散としていた屋台のラーメン屋やおでん屋に、客の姿が多く見当たるようになってから、もう随分と経っていた。細々と枯れた木々が風に揺られてすっかり冷え込み出していた。ぼくは空を見上げる。月は確かに程よく丸かった。しかし、それが少しだけ欠けていることに承太郎は気がつかないのだろうか。
「十五夜は昨日だよ」
 ぼくは笑って酒を煽ると、呟いた。目の前で熱い湯気を出すおでんがぐつぐつと煮えている。
「そうだったか」
「うん、地下に篭りっきりで忘れたのか?」
 海ばかりに興味があって、てんで空を眺めない君のことだから無理もないけどさ、と、ぼくはくすくすと笑っていった。
「夜は一ヶ月ぶりだからな」
 承太郎もそういうと、屋台の店主が、薄い木々で四角に区切られた変わったおでんの鍋の中身をつつきながら驚いた声で言った。
「なんだい、おたく、変な人たちじゃねぇよな」
 困惑した店主に承太郎が、さあな、といって無用に煽るので、ぼくは慌てて否定した。彼はぼくと承太郎の顔を交互に見た後、まだどこかふに落ちない様子で首をかしげているので、ぼくは困ったように笑ってしまった。
「東京は空気が悪いな」
「そうだね」
 ぼくらは静かに笑って晩酌を済ませる。此処のところ付ききりであった研究がようやくまとまったのだ。集中できないから、といって、自宅には帰らず研究所に篭りっぱなしになる彼を外に引っ張り出すのはぼくの仕事だった。
「でもこんなに綺麗に月がみえるんだから」
 ぼくは空を眺める。そのまま背もたれのない椅子を転がって空を眺めたくなった。
「昨日は雨だったからなあ」
 店主も、屋台の屋根から顔を出して、ぼくらは三人で、ぼうっと空を眺めていた。まるでずっと昔から、そうしていたみたいに。




「まいど、また寄ってくれよ、兄ちゃんたち」
 店主が赤ら顔をにこやかに解して手を振った。ぼくらは柔らかい足取りで煌煌と明るいそこから離れる。架線下で、大きな音をたてて光の塊が頭上を通過していく。ありふれた光に、平穏を感じてしまうのはどうしてだろう。
 緩やかな坂を上り家路を向かう。ほとんど真丸の月が、ぼくらのあとをついてきた。
「ほとんど満月だ」
 ぼくの横を、明らかに歩幅を狭めながら歩く承太郎が言った。空を見上げる首元は、骨が浮き出て綺麗だった。
「そうだね」
 承太郎の手の平が、そっとぎゅっとぼくの手を握った。承太郎が、集中できないから研究所に篭もるのは、ぼくのせいだ。
「久しぶりの君の体温だね」
「ああ」
 恋しいと、愛しいと、本当に飽き足りないくらい言葉にしても、ぼくは彼に思いのたけを伝えきることなどできないと思っている。それは、やっぱり触れ合うことでしか、表現できないのだ。切ないくらい、そう、思える。
 触れた手の平が、温かくて久しぶりで、ぼくは泣き出しそうだった。一ヶ月、彼を思っていた自分自身が信じられないくらい聖者に思えた。彼の首に抱きついて、強く抱きしめたかった。そんな風に、自分が人を愛していくだなんて、少年の頃のぼくには想像もできなかったのに。
「嬉しいよ」
 呟いたぼくの言葉が、冬の匂いを帯びた風に揺れた。承太郎は低い相槌を打つ。喧騒から離れた静かな住宅地は、酷くひっそりとしていて、冷たい。空の月が、濃紺のドームを照らし出す。夏の名残に、一際明るい星が、白く、月の隣りを順守しているようだ。
「離れれば離れるほど、君の事好きになるみたいだ」
 プラネタリウムだ、と、ぼくは空をみて思った。これは天然のプラネタリウムである。薄い微弱な星々の光が、静かに夜を演出する。薄ら白いドームの空と、今眺めている空は似ていた。似て非なるものだった。
「月と太陽みたいに離れ離れになったら、きっと悲しいね」
 言うと同時に、ぼくの手を握っていた承太郎の手の平がぎゅっと強張った。怒ったみたいに眉を顰めている承太郎が、その厚くてぽってりとした唇を振るわせる。真っ白の歯(煙草はやめたらしい)が、闇に三日月に浮かんだ。
「そいつはファンタジーとかメルヘンとかだな」
「ええ、全くです。全くファンタジーやメルヘンですね」
 さあ、帰ろうと、承太郎がぼくの手を引っ張った。先ほどのように歩幅をあわせたゆったりとした速度ではなく、ざくざくと広げきったコンパスみたいな速度で。
「せっかくゆっくり秋の空を満喫しようと思ったんだがな、オメーがあんまりにも酷い表情で見てくるもんだから、俺だって我慢の限界だぜ」
 抗議するぼくの言葉を聞き流して、承太郎はずんずん進む。ぼくは小走りでそれに続くけれど、足がもつれるみたいにしか歩けない。
「安心しろよ、倒れたって、手を貸してやる」
 ふわふわと、アルコールが回る。ぼくは揺れる空と自分の前髪を視界に捕らえて、ああ、承太郎は月であり太陽であり、そして星なのだなと、思った。
「きみは、プラネタリウムだ」
 高らかな宣言をして、ぼくはたまらない、と飛び跳ねるように、承太郎の腕にしっかりと捕まって見せた。

 太陽も月も、星たちも、多分飽きることなくぼくらを見守っているのだろう。






2010/9/25
十五夜には間に合いませんでした…!
バカップルで、職場ではよきパートナー。
プラトニックノットイコールラブラブ






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