守りたいもの
 

人が生きていくうちに、溜まってゆく膨大な記憶は、本当に大切なものを残して、他のものを捨てていかなくてはいけない。
曖昧になってゆく記憶、こぼれていく記憶、どうしても捨てられない記憶。
全部全部、残していたら、きっと鞄は壊れてしまうから、僕は、何を捨ててゆくんだろう。


何の変哲もない朝だったはずなのに、僕は相変わらず直らない癖毛と、そしてそんなことを考えていた。
承太郎は三日間も前から書斎に篭りきっているし、春休みで大学は休みだったので、僕は散歩に行ったり読書をしたり、あとは、ただ一日を業務的に繰り返して生活していた。
時折、承太郎がやつれきった表情でリビングに出てくるので、僕は熱いコーヒーを入れてテレビのスイッチを入れる。
それでも承太郎はどこか空ろで、蒼白な顔面でコーヒーを啜って、ため息ひとつもらさずにまた書斎へと入り込んでいくので、会話らしい会話はここしばらくしていなかったと思う。

今日は何をしようかと、僕が洗面所から戻ると、白いソファーに承太郎はぐったりと倒れこんでいた。
まぶたは厚く落ちたまま、まるで壊れてしまったおもちゃのようにぐったりと投げ出されている肢体と、少し落ち込んだ頬。
僕は洗面所から出てきた足取りのままキッチンに立ち、やかんにお湯を張り火にかけた。

「大丈夫かい?」

僕は承太郎の元に歩み寄って言った。承太郎は、重たそうなまぶたを軽く持ち上げて、低くうなるような声で返事をする。

「ああ、大丈夫だ…コーヒーをくれ…」
「今お湯を沸かしているよ」

シュンシュンと、軽やかな音がキッチンから聞こえてくる。承太郎もそれが聞こえたようで、再びまぶたを落としてまた無言になった。
僕はキッチンに戻り、手早くドリッパーにフィルターと挽いた粉を準備する。やかんがお湯の沸騰をけたたましく呼びかけて来るので、僕は火を止めて、もう一度承太郎をみた。
何も変わらずに、そこに伸びている承太郎の体は大きく、それでも彼に似合わない部屋着が少しだけ柔らかく、窓から入る日の光に当たっていた。


カタン、と小さな音を立ててローテーブルにカップを置くと、承太郎はひどくゆっくりとした動きで体を起こし、ソファーに座りなおした。
僕はその向かいの床に、直で座り、コーヒーにミルクと砂糖を混ぜた。それは、宣伝や広告のように、きれいな円を描くことなく、じわりと染み渡っていった。

「仕事は終わったのかい?」
さっきから質問ばかりだ。僕は少し申し訳なくなって、なんでもない、と言うと、承太郎がゆっくりと顔をあげた。
「ああ、今さっき終わった。すまんな…しばらく振りだな。」
承太郎はそういって笑った。笑って、それでも少し苦笑いのようになってしまっていたので、僕も思わず笑ってしまった。
日の光が、柔らかく僕らを包み込んでいて、まるでその時間を丸ごと留めて置くように暖かく、僕は胸の奥が、チクリとか、コトリとか、なんだか妙な音を立てたような気がしてしまった。
「うん、久しぶりだね、お疲れ様」
僕が言うと、承太郎はカップをテーブルにおいて、僕の髪へと触れた。相変わらずの癖毛を、まるで愛撫するように撫でて、その手は首筋から僕の頬へと伝い、唇をかすめ、鼻先に到達して離れた。
「大丈夫か?」
「なにがだい?」
僕は少しだけ驚いた。先ほど寝癖を直しに鏡に向かった限りでは、そのようなことを聞かれる要因は微塵もなかったはずなのに、承太郎は、確信めいたような口調でそういったからだ。
その、承太郎の言葉で、しばらく頭の中に住み着いて離れなかった疑問が、僕の脳裏にふつふつと沸いて出てきたのだ。
「なにがだい?承太郎」
僕はもう一度、なんともないようにいい、カップの中でゆらゆらと揺れるミルクとコーヒーが混じった液体を見つめた。
「……なんでもねぇが…」
言いよどんで、承太郎はまたカップを手に取りコーヒーを飲み干した。飲み干した後も、しばらくカップを弄んで、僕の回答を待つかのように押し黙ってしまう。
僕はすっかり困ってしまった。別に取り留めのないことを考えていただけなのに、それを、承太郎がしっかりと見抜いていたことや、心配されるべき彼から心配されてしまった僕が、なんだか少し滑稽で悲しく感じたのだ。
「言いたくねぇならかまわない。言いたくなったら…」
「記憶がね。」
僕は承太郎の言葉を遮った。別に隠すような事ではないと思ったし、取り留めのない。ただそれだけのことだったから、別に言った所で何の代わり映えもないと思ったので、ゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように話した。
「記憶について考えてたんだ。たとえば、この先、生きていく中で、頭に残せる記憶が限られているとしたら、僕は何を残して何を忘れるのか。たとえば、あの長いような旅路も、ひとつの記憶に選別されて、薄れていってしまうんだろうかと、君が僕を思う気持ちも、そして僕が君を思う気持ちも、いつか風化したかのような記憶に成り下がってしまうのかと。そんなことを考えていただけなんだ。」
僕はそういい、そういったお陰でなんだか心の奥がふっと軽くなったような気がした。
承太郎は少しだけ考えて、そうか、と簡素な返事をしてきた。それでも、僕はその承太郎の、そうか、という言葉が、僕が取り留めも無く考えたことに関する答えだと感じて、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。

「テメーも疲れたんじゃねぇか?」
承太郎はそういって立ち上がると、僕の腕を引き上げた。バランスを崩した僕の体重は、承太郎へと移り、承太郎は口元を軽くゆがめて言った。
「今日は昼寝でもしようぜ」
僕の返事を聞くまでも無く、承太郎はさっさと寝室へ僕の腕を取ったまま歩き出し、僕は承太郎に引かれながらも、横目でローテーブルに並んだカップを見た。
それは、朝日のような、昼間の光のような、そんな暖かそうな白い光に照らされていた。

承太郎が言うように、たまには朝から眠るのも悪くないかもしれないと、数時間前に一人でいたベッドにダイブし、ゆるゆると眠りにつく自分と彼を想像して、まさにその思い描いた姿を真似るように、軽やかな気持ちで寝室の扉を閉めた。




end


2008.3.15




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