「此処は−−」
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、ヴァルバトーゼは小さく息を吸った。
頭がうまく回らずぼんやりとしていて、おまけに視野が霞んでみえる。
まるで長い眠りについていたかのような−−そんな不思議な感覚に、ヴァルバトーゼは眠たげに瞬きを繰り返した。
次第に意識がはっきりとし始め、ヴァルバトーゼは仰向けで地に寝ていた躯の半身を起こすとあたりを見回した。
「花……?」
そこは一面が目に優しい色の花で溢れている場所だった。
それに、空が青く澄み切っていて淀んだ雲がひとつも見当たらない。それを見たヴァルバトーゼは首を傾げる。
−−此処は魔界なのだろうか?
しかし、こんなにも綺麗に花が咲き乱れた場所が魔界に存在しているとは到底思えない。ならば此処は、人間界なのだろうか?
ううむ、と腕を組んで考えるが人間界とも思えず唸るばかり。結局、今いる場所が何処なのかは全くわからなかった。
「−−それにしても、見事なまでに花が咲き誇っている場所だな」
立ち上がって歩きだしてみるがどこを見ても柔らかな色をした花が咲き誇っていた。
そういえば魔界に咲く花は目に悪い毒々しい色をしていたり、毒を含んでいたりと花としては何とも言い難いものばかりだった。まあ、魔界にもほんの僅かにだが此処に咲いているようなものもあったが。
魔界に咲く花と比べながら見つめいたヴァルバトーゼだったが−−ふと、花を眺めていて心地のよいものを感じた。
花に心が安らいだことなど一度としてなかったのに変だ。この花畑といい先程感じたた心の揺れといい、一体何なのだ。それに、何故ここには俺しかいないのだろう。
ヴァルバトーゼは眉を顰めた。
*
ただ、当てもなくひたすら花畑の中を歩き続けていた時だった。何か遠くから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、ヴァルバトーゼは思わず歩みを止めた。
何処かで聞いたことのある声だったのだ。
ヴァルバトーゼは暫くその場に立ち止まっていたが何も聞こえて来ず、気のせいかと首を傾げ歩き出そうとした−−その時だった。
「ヴァルバトーゼ、様……?」
後ろの方から聞こえたそれに振り返ってみれば、そこにはフェンリッヒが信じられないとばかりに驚いた表情で立っていた。
自分以外に誰も居ないとばかり思い込み不安を感じ始めていたヴァルバトーゼはこの出来事に素直に喜び、フェンリッヒのもとに駆け寄った。
「フェンリッヒよ、此処がどこだかお前には分かるか? 俺にはさっぱり分からぬのだ」
一番に知りたいこと、それは此処がどこなのかということだった。
フェンリッヒはそれに戸惑いを含んだ声で答える。どうやらフェンリッヒにも此処がどこだか分からないらしい。
もしかしたら知っているのでは、と期待していたフェンリッヒに首を横に振られてしまい、ヴァルバトーゼはしゅんと肩を落とすと眉をハの字に下げた。
「本当に此処はどこなのだろうな。……む、フェンリッヒよ、あれを見るがよい!」
何かを見つけたらしいヴァルバトーゼは先程までの様子とは打って変わって活き活きとした表情になると、興奮気味にそれに向かってピシッと指を差した。
フェンリッヒはその指が差す向方へと視線を移した。指差された方向にあったものはアイテム界によくある扉だった。
「なんだ、ここはアイテム界だったのか。あまりにも様子が違うものだから全く気づかなかったぞ!」
扉までやや距離があるが直ぐに辿り着くだろう。これで漸く此処から出られるぞ!
謎が解けたとヴァルバトーゼは大いに喜んだ。
だが、ヴァルバトーゼとは逆にフェンリッヒは扉を見た瞬間に顔色を悪くさせた。
それにヴァルバトーゼは気づくことなく扉の方へと歩きだす。その後ろをフェンリッヒは追うがどこか足取りが重い。
「それにしても驚いたぞ。アイテム界にはこの場所のように花ばかりのところもあるのだな!」
「ええ、そうみたいですね……」
「フーカやデスコあたりに教えたら、喜びそうなものだ」
「……、」
「そういえば、此処に来てから心なしか身体が軽い気がする。気のせいか?」
「……閣下」
「ん、何かあった−−」
振り向いたヴァルバトーゼは動くことが出来なかった。
気がつけば、フェンリッヒより幾分小さい自分の躯がフェンリッヒの腕の中に収まっていたのだ。
その時、ヴァルバトーゼの胸が小さくざわめいた。
(前にもこのようなことがあった気がしたのだが、気のせいだろうか?)
「さっきからどうしたというのだ、フェンリッヒよ」
「……っ…」
「フェンリッヒ?」
「申し訳、ございません。ですが、もう暫くこのままで居させて下さい」
悲しさを滲ませたフェンリッヒの声にヴァルバトーゼは何も言えなかった。
腕に抱かれたヴァルバトーゼはその肩に静かに頬を寄せ、ただ黙って背中に腕を回すと自分を抱くフェンリッヒの腕に微かに力が籠められたのを感じた。
−−ああ、やはり以前にもこんなことがあった気がする。
「ヴァルバトーゼ様」
「なんだ」
「私を、私を置いていかないで下さい」
縋るようなその言葉に、ずきりとした痛みが胸に走った。
話が見えない。俺がお前を置いて何処かにいくわけがないだろう!
何故、そんなことを聞くんだ。何故、何故なんだ。俺はお前に何かしてしまったのか?
「これしきのことで、俺は死んだりはせん」
……俺は、
「なあ、フェンリッヒよ」
「……はい、閣下」
「約束を、しよう」
俺は、
「−−そうか」
「閣下?」
「思い出したぞ」
「一体何を、」
俺は死んでしまった。そうなのだろう、フェンリッヒよ。
肯定するかのようにフェンリッヒの身体が微かに揺れるとヴァルバトーゼはするりとフェンリッヒの腕から抜け出し、扉の前に立つとそれを見上げながら言葉を続けた。
「何故、忘れていたのだろうな。俺はお前に謝らなければならないことがあったというのに」
「謝る…? 閣下が私に謝ることなど何一つ−−」
「あるから俺は此処に存在しているのだ、フェンリッヒよ」
どんなに歩き続けても景色が一向に変わらない世界。それもそのはず、未練があるのに先に進むなど出来るわけがないのだ。
「俺はあの時こう言ったはずだ−−お前を残して死んだりはしない、と」
「はい、確かにそう仰せられてはおりましたが……」
「だが、俺は自ら約束を立てておきながら自ら破った。命が尽きる際、俺が何を思って目を閉じたか知っているか?」
「……いえ」
「俺は、お前との約束を守ることができなかったことを悔いながら死んだ。そして、どうしてもそのことを謝りたかったのだ」
しかし、その時にはもう遅かった。声を出すことさえ出来ないくらいに衰弱しきっていたからだ。
ヴァルバトーゼはマントを翻すとフェンリッヒの方へと向き直る。
「お前との約束を果たすことができず、済まなかった。お前を置いて先にいった俺を−−どうか許してくれ」
「許すも何も、私はあなた様のことを恨み憎んだりしてはおりません」
「−−そうか、その言葉が聞けて良かった」
これで何も思い残すことはない。俺はただ、謝りたかっただけなのだから。
未練がなくなったことに喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、様々な想いが混ざり合いヴァルバトーゼは困ったように小さく微笑むと扉に指を這わせた。
「この扉の先は−−いや、言わなくてもここまで来ればわかるか。俺はこの先へと行かなければならない」
「ヴァルバトーゼ様、私も−−」
「いや、お前は来るな。お前を連れて行くべきところではない。これは俺が通る道であって、お前が通るべき道ではない」
その言葉にフェンリッヒは悔しげに唇を咬んだ。
その姿にヴァルバトーゼは胸元で拳をぎゅっと握ると悲しげな声を小さく漏らした。
「−−本当は、その手を取りたい。今までのように隣に立っていて欲しい」
「なら、何故なのですか!?」
「フェンリッヒよ、俺は−−お前には生きていて欲しいのだ」
どうせお前のことだ、此処にいるということは俺の後を追うようなことをしたのだろう?
そう問うとフェンリッヒは気まずそうに視線をそらした。どうやらその通りらしい。
自分が死んだ後のフェンリッヒの様子、その後に起こすであろう行動なんてものは直ぐに思い浮かぶ。ヴァルバトーゼは静かに告げた。
「いいか、後追いなどしても俺は喜ばん。それに、お前は俺とは違い生きている」
「この私が生きている……? 閣下と同じく此処にいるのにですか?」
「正確には死にかけている状態、死ぬ一歩手前だな。それでも今ならまだ間に合う−−どうか、その命が尽きる日が来るまで生きれるだけ生きてくれ」
「しかし、閣下を亡くした今の私には」
「ふむ、ではそうだな。言い方を変えよう、俺の分まで生きてはくれまいか?」
「閣下の分まで、ですか?」
「ああそうだ。もう生きることの出来ない俺の、俺が生きるはずだった分まで生きて欲しい。俺が願うのはただそれだけだ」
「閣下の、願い…」
「それと、まあ、その……願いを押し付けるかわりに、お前の命が尽きた時、どんな手段を使ってでもこの俺が直々に迎えに行こうと考えている」
それを聞いたフェンリッヒは伏せていた瞳をヴァルバトーゼに向けた。
ヴァルバトーゼはこほんと小さく咳をする。
「再び会うまでには気の遠くなるような時間が掛かるだろう。だが必ず、その時が来たらお前の前に−−この場所と共に現れようではないか」
約束しよう、次こそは必ず果たしてみせる。だから、
「生きてくれ」
真剣な眼差しで放たれたそれに、フェンリッヒは折れるしかなかった。
そして、恭しく胸に手をあて頭を下げると口を開いた。
「そこまで仰るのであれば、その約束を信じて私も約束をしましょう。あなた様の分までこの心臓を動かし続けると」
その言葉にヴァルバトーゼは満足げに頷く。
「ああ、約束だ。必ずお前を迎えに来る、絶対にだ。それから−−そうだな、約束の証にこれをくれてやろう」
ヴァルバトーゼは何時も身に付けていたチョーカーを外すと、やや強引にフェンリッヒの右手に押しつけ握らせる。
フェンリッヒはヴァルバトーゼのその急な行動に驚き、慌てて握らされたチョーカを返そうとするがヴァルバトーゼはにっと唇の端を持ち上げて笑うと、くるりと背を向け目の前にあるドアノブを握ると躊躇なく捻った。
その瞬間、ガチャリと音を立て開いた扉からは勢いよく光が溢れだし、洪水となってヴァルバトーゼだけを飲み込んだ。
「……っ、ヴァルバトーゼ様!」
フェンリッヒはその光のあまりの眩しさに一旦は瞼を閉じかけたが、消えゆく主の姿に目を見開くと手を伸ばした。
しかし、ヴァルバトーゼはその手を取ることはしなかった。その手を取るのは今ではない。
「お前まで死なないでくれ」
今の言葉は無事に届いただろうか。届いているといいのだが。それにしても身体を包み込む光がとても暖かく心地が良い。
心地良さを感じながらヴァルバトーゼは薄れていく意識に身を任せ、瞼を閉じる。
時が来たらまた会おう、フェンリッヒよ−−
*
「……、」
酷く眠く、目を開くのも億劫で再び眠りに落ち掛ける。だが、起きなければいけない。
フェンリッヒは今まで固く閉じていた瞼を持ち上げ、ゆっくりとまばたきをした。
−−頭がぼんやりとする。
頭が働かない。オレは、ベッドに寝かされているのか?
「フェ、フェンリッヒ? お、おい。ボクのことが分かるか!?」
「……こぞ、う」
「こ、小僧じゃなくてエミーゼルだ! 今、みんなを呼んで来るから安静にしてるんだぞ、いいな!」
ドタドタと慌ただしげに離れていく足音にフェンリッヒはふっと笑うとゆっくりと半身を起こし、自分の身体−−治療がなされた場所に左手でそっと触れ、軽く撫でた。
「ああ、俺は−−失敗したのか」
だが、それで良かったのかもしれない。現に、閣下は俺がついていくことを望んではいなかった。
俺としてはその隣に並び、ついていきたかった訳だが。
「それにしても閣下も無茶を言いなさる。吸血鬼の寿命まで背負えだなんて」
くつくつとおかしげに笑うと、手の中にある今は亡き主が身に付けていたチョーカーを握りしめた。
目が覚めた時、あれはただの夢だと思った。会いたいと強く願った結果生み出された幻だと。
しかし、そうではなかった。今握りしめているものはこの世にはもうない筈のものなのだ。
なのに、この手の中に確かに存在している。約束の証として。
「生きる意味を下さり有難う御座います、我が主ヴァルバトーゼ様。再び出逢える日が来ることを楽しみにしております」
*
月日が経つのは早い。
生きれるだけ生きてはみたが、あれからどのくらいの時間が流れたのだろう。曖昧としていて詳しいことはよくわからないがとても長かったのは確かだ。
それでも、どんなに時間が過ぎ去っていってもあの時交わした約束が薄れることはなかった。
今となっては色褪せ、無理やり渡された時と比べるとややボロボロになってしまったが、チョーカーも肌身離さず持っている。
「漸く、か」
漸く、待ち望んでいた時間に辿り着く。
瞼が重い。もう、息をするのも億劫なくらい眠い。
ゆっくりと、段々と小さくなっていく自身の胸の鼓動に人狼族の男は少しばかり唇の端を持ち上げると、吸血鬼の男との約束を胸に抱きながら静かに眠りについていった。
(約束を果たしに来たぞ)
(ええ、私もですよ、閣下)