「キスをしろ」
それはあまりにも突然すぎる台詞だった。
それを耳にした瞬間、頭の中から色々なものが勢い良くすっぽ抜け、フェンリッヒはひゅっと短く息を吸うと一瞬所か数秒も固まった。見事なまでにびしりと音を立て、石のように固まって動かなかった。
それでもフェンリッヒの脳の活動の再開は早かった。何かの聞き間違いかと疑い、目を瞬かせる。
目の前には唇に指をあてがいにっと意地悪く笑う吸血鬼の男−−暴君ヴァルバトーゼの姿。
「俺はお前のコイビトとやらなのだろう?」
違うのか?
ヴァルバトーゼがフェンリッヒに尋ねる。
その声色には不安や疑心は一切ない。むしろ、自信の溢れたものだった。
−−だからと言って、そのようなことをいきなり言われましても!
どうしてよいものかと狼狽えるフェンリッヒ。しかし、ヴァルバトーゼはフェンリッヒの気持ちなどお構いなしに強請る。
強請るというよりかは迫るに近いかもしれない。
「−−フェンリッヒ」
トーンをひとつ落とした、甘ったるさを微かに含ませた低い声。
耳元で名前を囁かれ、フェンリッヒの心臓は大きく音を立てた。相手にも聴こえているのではないかと思ってしまう程に脈打つ。
−
−ああ、オレは振り回されてばかりだ。
そう思いながらもフェンリッヒは首を巡らした。周りに自分たち以外誰も居ないことを確認するとそっとヴァルバトーゼの腰を引き寄せる。
赤い瞳と視線が合う。
気恥ずかしくも思いながら、フェンリッヒはヴァルバトーゼの唇に自分の唇を重ねた。
「−−これで満足ですか、ヴァルバトーゼ様?」
「……ああ」
血染めの恐怖王、鮮血の絶対悪、破壊と暴虐の帝王−−ヴァルバトーゼは周りの悪魔達からそういった名前で呼ばれている人物だが、この時ばかりは全く違う。
悪魔や人間達を冷ややに見つめ、時に挑戦的な光を灯す赤い瞳は擽ったそうにうっすらと細められ、悪意や嘲りなど一切ない、ただ純粋に喜びを感じ穏やかに笑っていた。
きっと、これはフェンリッヒしか知らないヴァルバトーゼの姿だろう。
「ヴァルバトーゼ様」
「ん? なん−−」
小さなリップ音。
それと共にヴァルバトーゼは額に温もりを感じ、驚きから目を見開いた。
「フェンリッヒ、お前、今何をっ」
「キスをしただけですが?」
振り回されてばかりではつまらない−−時にはこちらが振り回す側になってみたい。その気持ちに背中を押されたフェンリッヒはちょっとした悪戯をした。
不意打ちのキスと額に残るフェンリッヒの唇の感触にヴァルバトーゼはたまらず声をあげ、落ち着きなく視線をさまよわせた。
それは、フェンリッヒの予想していた反応以上のものだった。
どうやら、直球には強いがこういった隙をついた攻撃には弱いらしい。
「いきなりは止せ、心臓に悪いぞ…」
ぽつりと呟くとヴァルバトーゼはフェンリッヒからふいっと顔を逸らす。それと一緒に朱の紐で括った黒髪がゆらりと揺れた。
成人している悪魔だというのにその行動が妙に子供っぽく見え、フェンリッヒは小さく笑う。
「だ、だが、こういうのも悪くはないな」
未だに視線を逸らすのをやめないヴァルバトーゼだが、満更でもなさそうな態度でそう口にした。
その様子に、フェンリッヒの心臓はまたもうるさく鳴りだした。このままでは、いつの日かこの妙に可愛らしい面をもつ吸血鬼が原因で心臓が破裂するかもしれない。
だが、それはそれでいいかもしれない。
くすり、と小さく笑ったフェンリッヒは隙だらけのヴァルバトーゼにもう一度悪戯をした。
(照れるあなた様はとても愛らしい)