ニードレスと己を称する男、カフカの命も最早これまでだろうと、蟷螂も蝶々もそして蜜蜂も信じて疑わなかった。
 宵闇に浮かぶ満月が見下ろす中、罪人を裁かんとする処刑執行人の如く、蜜蜂は凶刃を振り下ろす。それはカフカの首を斬り落とす──はずだった。

 静謐を打ち破る、金属特有の高く鋭い衝突音が響き渡る。それに一番驚愕したのは刃を手にしている蜜蜂だ。

「え……?」

 刃は首に到達する前に、あるものに阻まれていた。カフカが身を守らんと頭上に持ち上げた利腕によって。
 馬鹿な、と瞠目する蜜蜂はカフカの利腕に、腕をすっかり覆ってしまう程幾重にも巻かれた糸を見た。そう、自分か神にしか断つことが出来ないとカフカが語ったカンダタストリングが。

「離れろ、蜜蜂!」

 蝶々が叫ぶが、間に合わない。カフカは地に膝をついた身体を起こしながら、蜜蜂の太刀を弾いた。くるくると円を描きながら刃は宙を舞う。
 蜜蜂は忍らしい優れた反射神経で後ろに飛び退くが、完全に距離を離しきる前に、カフカの長い足による蹴りが腹に直撃した。

「がはっ……!」

 蜜蜂は思いきり吹き飛ばされ、石段脇にそびえる木の幹に勢いよく叩き付けられた。そのまま幹づたいにずるずると身体は崩れ落ちる。
 ごほごほと咳き込み、胃からせりあがってくるものをなんとか押し止めながら蜜蜂はカフカに問うた。

「……なん、で……動け……?」

 蜜蜂が撃ち込んだ、全身に痛みを伴う神経毒は今この時もカフカの身体を蝕んでいるはず。何故立ち上がることが、そして自由に動くことが出来るのか。

「はっきりとした確証があるわけではないが、恐らくニードレスだから、だろうな」

 ニードレス。
 日本に投下された爆弾により出来た汚染区域ブラックスポットにおいて、病に倒れ死ぬことなく、しかも強靭な肉体とフラグメントを手に入れた者である。
 汚染された空気や土壌。ブラックスポットに身を置いたその瞬間から、見えない有害物質に晒され生きてきた彼らには、少なからず毒への耐性が備わっているのだろう。
 事実、毒をその身に受けたカフカだったが、時間と共に痛みは徐々に軽減していき、今では普通に動くことが可能なまでに調子を取り戻している。

 身体に撃ち込まれた毒が致死性のものであれば、カフカの命を奪うことも出来ただろう。しかし蜜蜂が今更それを悔いても、もう遅い。

 ひゅんっ、としなる音と共にカンダタストリングが舞う。それは太い木の幹に身体を預けている蜜蜂に向けられ、彼は幹に磔られるように糸に拘束された。腕を動かせないように施された糸による拘束は、蜜蜂の首や胸元、胴にも巡らされる。

 カフカが蜜蜂に向けた両腕を交差させ、指先に意識を集中させた。己の身体に這い回る糸が肉を裂こうと、僅かに身を圧迫してきたのを感じた蜜蜂は、他人からは被り物に隠れて見えない瞳を閉じた。
 彼とて忍である。いつ命を落としてもおかしくない稼業についたその日から、死ぬ覚悟は出来ている。

──すみません……蟷螂さん、蝶々さん。

 胸中で二人に謝罪しながら、蜜蜂は自身の人生に幕が引かれる時を静かに待った。

「…………?」

 しかし糸は一向に動く気配を見せない。蜜蜂の命を握っているカフカも何故か動きを止めて黙りこんでいるようで、ただ静寂だけが辺りに漂う。流石におかしいと感じた蜜蜂は、恐る恐る瞼を押し上げた。

「あ……」

 彼は一目で状況を理解した。そしてカフカが何故自分に止めを刺さなかったのかを悟った。
 別にカフカは蜜蜂に情けをかけたわけではなく、今更殺すのを躊躇ったわけでもない。止めを刺したくても、刺せなかっただけなのだ。
 カフカはぜんまいが切れたカラクリ人形の如く、微動だにしない。そうせざるを得ないからである。

 蜜蜂を殺そうものなら次の瞬間には自分が殺されてしまう、それ故に。

「…………」

 カフカは眼前に突き出された拳と、首元にひたりと突きつけられた鋭い爪にそれぞれ視線を走らせた。
 そう。カフカの眼前には真庭蝶々が、背後には真庭蟷螂がそれぞれ己が武器をカフカに向けているのである。

 蝶々はカフカが胸の高さで交差させた両腕のちょうど交差箇所に自身の重さを消して立ち、カフカの額に拳を突きつけていた。
 一方、蟷螂はカフカの背後から彼の首をすぐにでも狩れるよう、首の皮に爪合わせで鋭く伸ばした爪を押し当てている。
 だがカフカと同様に両者もまた、そこから先は進むことは出来ずにいた。蟷螂と蝶々の両方或いは一方がカフカに止めを刺そうとすれば、間違いなく蜜蜂の命は失われるからだ。

 蟷螂、蝶々、蜜蜂、そして蜘蛛。虫達は皆動けず沈黙する。

 一陣の風が吹き、辺りの樹々が葉をさわさわと揺らす。真上で輝いていた月は、繰り返される攻防の間に西へと幾分か傾いていた。

「……取引をせぬか?」

 押すことも引くことも出来ないこの状況。それを打破したのは虫組の指揮官である蟷螂だった。

「取引だと?」

「そうだ。お主、蝶々と話していた際に言っていただろう? 『私は過去へ来てしまったのだな』と」

 カフカにとっては独り言のそれを、蟷螂は忍らしく研ぎ澄まされた聴覚でしっかり聞き取っていたらしい。

「その話ぶりからするに、お主は本来ここに存在するはずのない人間なのでは? 更に言えばお主は己の意志でここへ来たわけではない、と」
「……確かに私はこの時代の人間ではない。望んでここに来たわけでもない。だとしたらなんだ?」
「本来あるべき場所へ帰る手だてはあるのか?」

 その問いに返す言葉がカフカにはなかった。
 彼はどうやって自分が400年以上も前の日本に飛ばされたのか正確に分からなかったし、当然どうすれば元の世に帰れるかなんて、分かりようがなかったのだ。

 仮に時空に干渉できるフラグメントを持ったニードレスがいたとして、その者が今回の現状を引き起こしたのだとしよう。もしそうならそのニードレスを倒すなりなんなりすればフラグメントの効力は失われるわけだが、しかし相手がこの時代にいるとは思えない。
 いたとしてもカフカはそのニードレスと面識があるわけでもないので、探し出すことだって途方もなく困難な話である。

 つまり、手だてなど完全に無いに等しかった。

「その様子だと、ないようだな」

蟷螂は内心安堵する。この取引は、そうでなければ成立しないからだ。

「カフカ、と言ったか。短刀直入に言おう」
「……なんだ?」
「お主、真庭忍軍に身を置かぬか?」

 その言葉に一番驚いたのは虫組の面子である。

「かっ、蟷螂殿!? 何言ってんだよ!?」
「そうですよ! そんなこと言っちゃって大丈夫なんですか!?」
「お主らの言いたいことは分かる。だがここはひとまず私に任せて貰えぬか?」

 そう言われると両者は何も言えない。虫組の指揮官は蟷螂であり、最終的な決定権は彼にある。
 そして何より、蝶々も蜜蜂も蟷螂を信頼している。彼の忍としての経験や実力、判断力は真庭忍軍の中でも一目置かれる程で、そんな蟷螂だからこそ二人は彼についていっているのだ。

「……分かった。ここは蟷螂殿に任せる。蜜蜂、お前もそれでいいな?」
「はい。蟷螂さんの判断が間違っていたことなんてありませんからね」

 二人からの全面的な信頼を感じた蟷螂は、ごく僅かに表情を柔らかくした。
 一人一人が高い戦闘力を有しているが故に個々で動くことが多い真庭忍軍だが、例外もある。それが虫組なのだ。先程のやり取りを見ても分かるように、彼らの結び付きは強い。

「……もういいか?」

 自分を挟んでのやり取りが一段落したと思われるところで、すかさずカフカが声をかける。途中で口を挟まないあたり、彼も案外人が良いのだろう。

「ああ。ではもう一度聞こう。真庭忍軍に身を置かぬか?」
「……仮に私がお前達真庭忍軍とやらに入るとして、私にとってそこにメリットはあるのか?」
「めりっと?」
「利点のことだ」

 横文字が使えないというのは地味に面倒なものだと、カフカは内心独り言ちる。彼は今更ながらに400年という時代の差をまざまざと感じた。

「利点ならあるぞ。真庭忍軍は暗殺が専門と言っても、本来忍に要求される情報収集能力も優れている。お主の望む、帰る手だてについての情報を集めることも可能だ」
「成程。それでその見返りに私に真庭忍軍で働け、ということか」
「察しがよくて助かる」
 蟷螂がカフカを真庭忍軍へ誘った主な理由は、厄介な敵を作らない為、である。
 今後カフカがどうするつもりかは分からないが、これだけの戦闘能力があればどこぞのお偉方に目を付けられ雇われないとも限らない。もしそうなった場合、どこかで真庭忍軍と対峙する可能性も出てくる。
 今後起こらないとも限らない面倒事を思えば、今のうちに味方として引き入れておいた方が得策だと蟷螂は考えたのである。

 それからもう一つ。カフカが未来からやってきた人間だということも大きな要因だ。
 蟷螂としては未だ半信半疑ではあるが、もし紛れもない事実ならカフカの持つ未来の知識や技術が真庭の里に利益をもたらすことに繋がるかもしれない。
 そんな貴重な存在をみすみすここで逃すこともないだろうと蟷螂は判断を下したのだ。

 蟷螂の思惑をよそに、カフカは思案していた。
 確かに真庭忍軍で働く代わりに情報を得られるのはメリットではあるが、だがカフカとてシメオンの情報部隊の部隊長である。情報を得る術は心得ている。ただ、それが過去の世であるここで常通りにいくかがあやしいところではあった。
 それならば、この時代の人間の手を借りた方が目的を成し遂げやすいだろうとカフカは思う。何よりここでの常識や通貨を持ち合わせていない彼にとっては、有難い誘いでもある。

「いいだろう。元の世に帰るまでの間、お前達真庭忍軍に所属することにする」
「交渉成立というわけだな」

 カフカ、蟷螂、蝶々は同時に武器を納める。
 虫組三人とカフカが切った張ったを繰り返し、取引を終えた頃には空は白み始めていた。もうじき、夜が完全に明けるだろう。

 こうして、一夜という長くない時間の中で彼らは出会って、言葉を交して、殺し合って、取引をして、そして手を結んだのである。
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