―ピピ…ピピ…―
独特の薬品臭に、ずっと見ていると目が眩むような白。
永遠と一定のリズムを刻みつづける機械音。
そして、私の目の前に横たわるのは、白とは真逆な燃えさかる赤。
生命の象徴である赤が、これを見るとなんだかしおらしく見えて来てしまう。
改めて目の前の赤い髪をした彼を見る。
やっぱ綺麗な顔してるな…とか、こんな所にほくろあったっけ…とか、痩せたな…とか。
付き合ってた頃は当たり前すぎて思いもしなかった事が、不思議と目につく。あ、今も付き合ってる内に入るのかな…?
こんなことアイツが聞いたら、「付き合ってんに決まってるさ!」とか言って私のことをしかってくれるんだろうか。
「名前ちゃん」
私を呼ぶ声に、はっと我に返る。
「すみません、おばさん」
「いいのよ。そろそろ面会時間終わるわ…外もう暗いけど、一人で大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「また来てやってね。ラビもきっと喜ぶから」
「もちろんです。また明日来ます」
***
―パタン…―
病院の自動ドアをくぐってすっかり暗くなった外に出ると、生暖かい風が頬を撫でた。
その気持ち悪さに、名前は思わず眉根を寄せる。
(昼間、35度超えてたもんなぁ…今日の夜も熱帯夜か)
滲み出す汗をハンカチで押さえながら、名前は家路へとついた。
***
「ただいま…」
扉を開けて中に入れば、いつもと変わらない真っ暗な部屋が私を迎える。
最初は、帰った時にあの明るい笑顔が無いのがさみしくて、一人で泣いたりした夜もあったけど、流石に三年目ともなれば慣れた。
本当はこの慣れが怖いんだけど…
名前は、部屋に入ると慣れた手つきでテレビをつけた。
時間帯が時間帯なだけあり、テレビからはバラエティー番組の騒がしい声が聞こえる。
うんざりした名前はリモコンを手にチャンネルを回し始め、とりあえず唯一静かなニュース番組で落ち着くと、部屋着に着替えて冷蔵庫へ向かった。
***
麦茶をコップに注ぎながら名前は部屋を見渡す。
(殺風景になったもんだよなぁ…)
ラビと名前が親に同棲を認めて貰い、ようやく一緒に借りたマンションの一室。
住みはじめは、二人だけの空間に胸が高鳴ったものだった。
お揃いのマグカップや色違いの歯ブラシ。
二人で雑貨屋に出掛けてはちょくちょく買い集めた。
本棚にはラビの趣味の分厚い本が詰め込まれているし、鏡台にはラビよく付けていた赤いピアス。
私もラビと同じピアスが付けたくて、怖かったけど穴を開けに行ったっけ…
驚かせようとしてピアスをつけてラビに見せたら「名前はオレがそんなに好きなんさね」と言い、ニッコリ笑って抱きしめてくれた。
どれも随分前の話だけど、私はまだこんなに覚えてる。
麦茶を一気に飲み干して、ふとテレビに目を向けるとニュースはいつの間にか終わりに近付いていて、お天気キャスターが日本地図をバックに喋っていた。
『今夜は、昼間の暑さがおさまりきらず、寝苦しい熱帯夜となるでしょう…』
やっぱり、今夜は熱帯夜になるみたいだ。
この暑さはいつまで続くんだろう…そう思いながら名前はカレンダーを見るため壁に目を走らせた。
「あ…」
名前はカレンダーの10の位置についた赤い丸に言葉を失った。
(8月10日って…明日、ラビの誕生日だった…!)
仕事やら、毎日の病院と家との往復やらですっかり忘れていた。
ってことは、ラビがこうなってからもう三年目…
事の始まりは、三年前にさかのぼる。
この日も、茹だるような暑さが残る夜だった。
「ラビ、お誕生日おめでと!」
「ありがとうさ、名前」
同棲を始めて最初のラビの誕生日。
「外に食べに行こう?私が奢るから」と言う名前に、「名前の手料理が食べたい」と言い張るラビ。
照れながらも名前は、ラビの大好物の肉を使った料理を振る舞った。
「やっぱり、名前の料理は美味いさ!」
ラビはガツガツと勢いよく肉を頬張る。
「本当?よかったぁ。ラビはいつも美味しそうに食べてくれるよね」
名前は両手で机にほお杖をつき、自分の食事はそっちのけでラビの食べる姿を見つめていた。
「ほらっ名前も食べるさ」
そう言って、ローストチキンを刺したフォークを名前の口元に差し出すラビ。
「ん、ありがと」
「ど?美味しいだろ?」
「美味しっ。だって私が作ったもーん」
「はい、そこ自分で言わなーい」
口をもぐもぐさせて笑う名前を、ラビは愛おしそうに眺める。
一緒に住み、彼氏の誕生日に彼女が手料理を振る舞う。そんな当たり前で、幸せな誕生日のはずだった。
ここまでは。
「あ、そういえば飲み物買うの忘れてた!ラビ、何飲みたい?」
名前が思い出したように言った。
「え、ビールだけど…名前今から買いに行くんさ?」
「うん。ラビの誕生日だし私が行くよ」
「や、そりゃ駄目さ!可愛い女の子を一人でこんな時間に出歩かせられないさ」
ラビはそう言うと、棚から車の鍵を取って「名前もビールでいいさ〜?」と尋ねながら玄関へ向かいだした。
「そんな、悪いよ…」
「いいのいいの!名前はお留守番頼むさ」
「わかった。ありがと、ラビ」
「おう!すぐ戻ってくんな!」
ラビは、靴を履くと勢いなよく立ち上がった。
「いってらっしゃい」
「あれ、名前、何か忘れてないさ?」
ラビはそう言ってトントン、と人差し指で自分の頬を叩いた。
「馬鹿っ!」
それがいつもの「キスして」の合図だと分かると、名前は顔を真っ赤に染めてラビの背中を押した。
「ちぇー、シャイな子さね〜名前は」
ニヤっと笑うと、「行ってきます」と言ってラビは名前の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いってらっしゃい」
ラビはひらひらと手を振って扉を出て行った。
これが、名前が元気なラビを見た最後の瞬間だった。
***
数時間後、ベランダに出てラビの帰りを待つ名前の元に、一本の電話が入った。
「もしもし……はい、名字ですけど……はい、はい………えっ、ラビが…?」
ガチャン、とベランダに受話器が落ちる。
外では、夜だというのにあぶら蝉が騒がしく鳴いていた。
***
「ラビさんが、コンビニの途中の道路で飲酒運転の車と正面衝突しました」
こう連絡を受けた名前は、慌てて病院に駆け込んだ。
幸い一命は取り留めたものの、重体には変わりなく、あっという間に緊急手術室に入れられた。
手術が終わって、麻酔が切れる時間になっても、ラビは……目を開けなかった。
あの夏から早くも三年が経とうとしている。
あれから、「一命は取り留めたのですが、我々の力が及びませんでした…」なんて、ドラマみたいな台詞を言った医者の人から、ラビの容態やこれからの予定を聞かされた。
しばらくするとラビの両親も駆け付けて来た。
正直展開が早すぎて飲み込めなかった私は、話が右から左だったので、ラビのお母さんに言ってその場を離れた。
後からラビのお母さんから詳しい説明を受けた。
外傷は少なくて不幸中の幸いだった事。
でも、頭を強く打ったこと。
そして…ラビは、これからいつ目覚めるかわからない事。
***
名前は、ふと我に返る。
しばらく三年前の事を思い出していたので、コップには大粒の水滴が付いている。
気付くと、時計の針は夜中の12時の5分前を指していた。
(ラビ…)
名前はベランダに出た。
夜にも関わらず、外ではまた蝉が鳴いている。
振り返って、部屋の中の掛け時計の秒針を見つめた。
5,4,3,2,1……0。
「ラビ、お誕生日おめでとう」
名前は熱くなる目頭を押さえて夜空にそう呟くと、部屋に入って眠りについた。
ベッドに潜った後、溢れる涙が頬を伝い、シーツに染みを作った。
***
「おはよう、ラビ」
今日でこの言葉をかけるのも1095回目になる。
結局あの後、寝ては覚めての繰り返しで、名前は思いきって起きて、面会時間が始まって一番に病院を訪れた。
相変わらずラビから反応は無いけれど、彼の赤い髪が窓から差し込む朝日を受けて、炎の如く輝いた。
ラビが「おはよう」と言ってくれてるようで、なんだか嬉しい。こんな事は初めてだった。
心臓の鼓動がドキドキと激しいのは、何故だろうか。
…私、何かが起きるって期待してる?まさかね。
期待したら、その分苦しさも強くなる。
名前はそう割り切ると、花瓶の花を変えに廊下へ出た。
***
「これでよし」
早朝ともあって、病院内は水を打ったように静かだ。
名前は呟くと、ラビの誕生花、真っ赤なハイビスカスを活けた花瓶を手に病室へと歩き始めた。
―ガラガラ―
部屋に入ると、後ろ手に扉を閉める。
淵すれすれまで入っている水をこぼさないように、下を見ながらそーっとベッド脇まで歩み寄った。
窓から差し込むやわらかい朝日が、筋になって部屋を照らし出す。
空気中の埃が、太陽の光に当たって金色に舞った。
名前は何気なくその光の筋を目で追う。
「おはよう、名前」
光の筋を辿って行った先には、緑色の左目をしっかりと開いたラビが笑っていた。
「甘い香りがした」
名前は、「ハイビスカスだよ」と答えようと口を開けるが、言葉が出ない。
「何さ。今日はオレの誕生日だろ?」
ラビはゆっくりと目線を壁のカレンダーへ向けた。
名前は力一杯首を縦に振る。
「おかえり、ラビ」
かすれた声が、ようやく口をついた。
それを聞くと、ラビはゆっくりと首をこちらに向け、にこりと笑って自分の頬を人差し指でトントンと叩いた。
「あれ、名前、何か忘れてないさ?」
「馬鹿っ」
朽ち行く世界に君が居るなら
(君ともう一度笑い合える幸せ)