「これ、どう思う?」
「どうって言われても…」
真夜中の書庫室。 比較的、夜にはたらく人が多い黒の教団の端っこにひっそりとある書庫室は、めったに使われることがない。むしろ、存在していること自体知らない人の方が多いのではないか。 次期ブックマンのラビは、日々知識の上積みをするために足を運ぶ数少ない書庫室の利用者である。
「これ読んだことあるさ?」
そう言ってラビが差し出した本の表紙へ目を走らせる。
『シンデレラ』
そんな文字と共に、青いドレスを纏(まと)ったシンデレラと王子様が色鮮やかに描かれている。
「え、ラビその歳になってまさかのシンデレラ?」
「これいい話さよ!」
「いや、知ってるけど」
「王子様めっちゃ一途さ!」
王子様がガラスの靴を片手にシンデレラの元へと走り出すシーンを指差しながら、ラビが興奮気味に言った。 わたしもエクソシストになる前…まだ幼い頃は人並みに絵本も読んだりしたから、王子様の姿を頭に浮かべてみる。 あまりにも王子様と似ても似つかない目の前のラビに、思わず吹き出してしまう。
「ラビとは正反対」
「ひどっ」
「女好きでしょ」
「や、それはな、」
焦ってころころと変わるラビの表情が面白くて、ずっと見ていたくなった。
「だってさ、王子様は居なくなったシンデレラを探しに行くんだろ?すごいさ、王子様」
机に頬杖をつきながら、何処か遠くを見るラビは、今にも消えてしまいそうな程に寂しげな顔をしていた。
ああ、ラビはブックマンだから。一つの場所に留まって笑うことが出来ないから。人を追い掛けることなんて出来ないんだ。
わたしは、ゆっくりとラビの向かい側に腰掛ける。
「なあ」
「ん?」
「お前はさ、俺が居なくなったらどうする?」
「…何それ」
「いや、得に理由はないけど」
なんでこんな事聞くんだろう。 「寂しい」「嫌だ」「悲しい」
どれを言ったらいいのか言葉に詰まったわたしはラビの前に置かれた珈琲に目を落とした。さっきまで湯気をたてていた珈琲は、今ではすっかり冷え切って、わたしの困惑した顔を映す。
「ラビは居なくならない」 でしょ?と目で問い掛けた。ラビは一瞬びっくりしたように目を見開いて、ふわりと笑った。
なんで、いつもみたいに笑ってくれないの。 そんなラビの目を見ていたら、どうしようもなく泣きたくなった。
*****
ゆったりとしたジャズのリズムが、店内に流れる。
カウンターで紅茶を啜っていたわたしは、ぐるりと店内を見回した。 端っこの棚には、レコードが所狭しと並べられ、カウンターの中の店主は、葉巻をふかしながらカップを磨いている。
今から三年前。 つまり、永い永い聖戦が終わったあの日。
徹夜している科学班で溢れ返っていた研究室。 ジェリーの美味しいご飯の香りが漂っていた食堂。 探索部隊やエクソシストの声で賑やかだった鍛錬場。 この日は、皆が黒の教団で過ごす最後の日ともあって、どこもかしこも飲めや歌えやの大騒ぎだった。 なかには、神田やわたしのように一人で静かに過ごす人も居たけれど。
だって、ラビが明日居なくなる。意地でも泣かないって決めたから、一人きりで自室のベッドに寝転んでいた。
耳を澄ませば、遠くからラビの笑い声が聞こえて来る。なんで、あんなに笑っていられるんだろう。 わたしも勿論、戦争が終わったのは嬉しい。これからは何処か緑の綺麗なところでひとり静かに暮らしたい。 だけど、神田は旅に出るって言ってたし、アレンは大道芸人になるらしい。そして、ラビはブックマンとして当たり前のように明日、ここを出ていく。
ーコンコンー
渇いたノックの音が静かな部屋に響いた。誰かは何となく予想がついたけど、はい、と返事をした。
「オレさ」
さっき聞こえた楽しそうな声とは裏腹に、ひどく落ち着いた声で訪ねて来たのは案の定ラビだった。
「なに」
「いんや、最後の挨拶」
「あっそ」
"最後"という言葉に、ぼんやりとしか実感出来ないでいたラビとの別れを、いきなり現実に突き付けられたような気がして、もやもやした。
「明日、出てくさ」
「知ってる」
最後の最後に、こんな言葉しか出てこない自分が心底嫌になる。女らしく、少しは可愛く「またね」って言えたら。
「そっか。じゃあ、な」
ベッドに腰掛けたまま俯いていているわたしは、黙ってずっとブーツを見つめる。
「……」
なかなか出ていこうとしないラビ。どうしたのか、とちらり、一瞬目をやる。
ラビは目が真っ赤だった。
「泣いてるの?」
「…っんな訳ねぇさ」
「そう」
団服の袖でゴシゴシと目をこすったラビは、ばっ!と顔をあげて笑った。
「じゃあな!」
「…ばいばい」
ギィ、と虚しく響く扉の音。ああ、もうこれがラビを見れる最後の時なのかもしれない。そう思ったら、どうしようもなく哀しかった。
結局、わたしは最後に彼の姿を見ることなく、ラビは…行ってしまった。
チリンチリン、新たな客の訪れを知らせるかわいらしいベルの音が鳴ると、夜更けの冷たい空気が店内に吹き込み、わたしが読んでいたシンデレラのページがぱらぱらとめくれた。
「すみません、珈琲を一つ」
新たな客(声から察するに男性)は店主にそう告げた。 こんな遅い時間はいつもわたししか居ないのに珍しいな。そんなことを考えているうちに、珈琲豆の香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。ああ、ラビも珈琲が好きだったな。思いだしたくないから、わざと紅茶を選んでいたのに。 こんな小さなことに彼を重ねる自分が可笑しくて、自然と口角が上がる。
わたしの隣の隣に腰を下ろした男性は、息を吐き出すと、口を開いた。
「女性が随分と遅くまでいらっしゃるんですね」
「ええ」
「シンデレラ、ですか?それ」
「ああ、これ。ある人から貰ったんです」
わたしは本から目を上げずにそう答えた。 別にその新しい客に興味は無かったし、今はなんとなくラビのことを考えていたかった。
しばらくの沈黙の後、男性はおずおずと、しかし凜としたよく通る声で言った。
「貴女はその人が好きだったんですか?」
「……」
「失礼」
「いえ、構いませんよ」
「と、言いますと?」
「…………ええ、好きでした」
「今も?」
「ええ、今も」
「…それって、今でも間に合うさ?」
その独特の語尾を耳にした瞬間、わたしはバッと顔を上げて、その男性を見た。
まず目に飛び込んで来たのは、目に眩しい赤色。 次は、エメラルドグリーンの左目。
「ら…!」
驚いて突然立ち上がったわたしの後ろで、木製の椅子がガタン、と音をたてた。 ラビ、といいかけて私は口をつぐむ。 ああ、この人は、もう「ラビ」じゃない。 だって、口癖がもう抜けてしまっている。 今は何処か私の知らない景色を見て、私の知らない言葉を話している「ラビ」であって「ラビ」じゃない。なんてもどかしいんだろう。手を伸ばせば「ラビ」に触れられるのに。 ラビ、と呼ぶのは過去のラビに申し訳ないような気がしてならない。
そんな私を見て、ラビはあの日から何一つ変わらないエメラルドグリーンの左目でどこか寂しげに微笑んだ。
「どうしてここに?」
「ん」
ラビは私の手の中の本を指差した後にわたしを見つめて言った。
「シンデレラを探しに来たんさ」
「何それ」
ああ、変わってないな…そう思った。いくらか笑い方も変わったし、彼が纏う雰囲気も変わった気がする。まあでも、それは彼がブックマンである限りしょうがない事だし、逆に変われなければブックマンなんて務まらないんだろう。 でも、笑った時にちらりと見える八重歯とか、えくぼとかは変わらない。全然。 こんな恥ずかしいことをサラっと言ってのける彼の陽気な性格も。
「ラビ、ブックマンの仕事は?新しい記録地は何処なの?」
わたしは「ラビ」しか知らない。それ以外になんて呼んだらいいのかもわからない。 ラビは随分と長い間わたしを見つめて、口を開いた。
「んなの、もうどうだっていい。俺はお前に会いに来た」
心の中では、「そんなの駄目だよ。私は大丈夫」って大人らしくそう言いたかった。でもやっぱり体は正直なもので、何年ぶりかのラビの匂い、緑の左目を前にして、分別が効かなくなった私は、ラビに抱きしめられるがまま、ゆっくりと彼の背中に腕を回した。
ああ、なんて暖かいんだろう。
*****
「…ん…さん…お客さん」
ゆっくり目を開くと、店主がわたしの肩を揺すっていた。店主の口にくわえられた葉巻の煙が滑らかな弧を描くきながら天井へ昇る。
「こんな所で寝ていたら風邪引きますよ」
ああ、夢。わたし、寝てたんだ。体を起こすと、カウンターで寝て痛んだ首を回して、店内を見回した。
店内はカウンター以外の明かりが消えていて、カーテンも閉まっていた。 ちらりと掛け時計に目をやれば、既に丑三つ時。
「すみません、こんな時間まで」
わたしが立ち上がって荷物を持ちながら謝ると、店主は「構わない」と言う様に頷いた。
「ありがとうございました」
お勘定を済ませた私は礼を言って扉を開いた。
ーチリンチリンー
身を切るような冷たい風がひしひしと当たる。
「……あ、」
何か忘れているような気がしていたのが、今のベルの音で思い出した私は、急いで店に戻った。
「すみません!」
「ああ、貴女でしたか。丁度良かった、今忘れ物を届けようと思っていたところです」
店主はカウンターから出てくると、わたしの前に本を差し出した。
「シンデレラ。お好きなんですか?」
「はい、あの…わたしが寝ていた間、誰か来ませんでしたか?」
店主はしばらくの間の後、ゆっくりと首を横に振ってこう言った。
「今夜は冷えますよ。お気をつけて」
真夜中25時の眩惑
(やっぱり夢) (店を出た後の風は、さっきより冷たさを増したような気がした)
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20100916
Mrs.Tokyo様に提出。
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