高校というものは、中学校や小学校とは決定的に違うものがある。勉強内容はもちろんだが、何しろ、通学時間がまったく違う。徒歩から、自転車や電車通学に変わるのだ。通学手段が変われば必然的に時間もかかるわけで。わたし場合、いつもは徒歩だけど、今日は朝寝坊というミスを犯したので、自転車を倉庫の奥から引っ張り出して、ただいま爆走中。
ぎーこーぎーこー
ペダルを漕ぐ鈍い音が、朝の住宅街に響く。相変わらず、ここらへんの坂きっつー。わたしの有って無いような脚力では、坂を登るのもちょうスローペース。あ、やばい…!足首つりそう…!でもあとちょっと…!
おらぁー!なんて、女らしくない声を出して、ラストスパートをかけたそのとき。
ぎこぎこぎこぎこ
自転車で坂道を登っているとは思えないなんとも軽快な音を耳がとらえた。うわ、今の声きかれたかも…少し頬が熱くなって、うつむく。
「お前、ずいぶん野太い声してんな」
さっきの声をもっとも聞かれたくなかった人が、爽やかな風といっしょにわたしを追い抜いた。背中で綺麗な黒髪が揺れた。
「神田くん…!」
恥ずかしさと驚きでわたしは神田くんの広い背中を見つめることしか出来なかった。神田くんは一瞬、ふっ、と微笑むとあっと言う間に坂を登りきって行ってしまった。やっとの思いでわたしが坂のてっぺんに立ったとき、その背中は坂のずっと下の方に見えなくなりつつあった。
「あ、おはようって言い忘れた!」
朝から神田くんに会えたことと、挨拶できなかったことが頭の中でぐるぐると混ざり合ったまま、わたしは学校への残りの道を急いだ。
***
「あ、名前おはよう」
「はぁーっ!間に合った!?間に合ったよね!?」
「チャイムまであと17秒。ギリセーフさー」
「朝からむさ苦しいですよー」
「朝っぱらからポテチ食ってるアレンに言われたくないわ!」
ばっちり着席しているリナリーと、チャイムまでの時間を正確に言い当てたラビ、朝っぱらからお菓子を持参して、もぐもぐばりばりやっているアレンに迎えられた、いつも通りの朝。
教科書なんて置き勉が当たり前のわたしは、軽いかばんを机においた。
「お、おはよ」
「……ああ」
そして、机にふせていた隣の神田くんにさっきし損ねた朝のあいさつ。緊張して少しどもっちゃったけど、神田くんがわざわざ顔をあげて返事をしてくれたので結果オーライだ。
ああ、寝坊はしたけど、今日の朝はいいことばっかり。朝の白い光を浴びてきらきらしている神田くんの髪をちらり、と見て、今日も学校が始まった。
***
「48ページ開けー」
先生の間延びした声と共に、一限目が始まった。この先生は普段はこんな感じでゆるいけど、怒るとなかなか怖いのがラビで証明済みだ。そのとき没収された漫画は未だ返されてないらしい。わたし的には、一番前の席のアレンが授業中に一箱のペースでガムを食べてるのにバレないのが不思議でしょうがない。まあ多分、それだけ場数を踏んでいるのだろうけど。
そんな事を考えているうちに先生が板書を始めたので、慌てて教科書を出した。えっと、48ページ…うわ、なんかちょう難しそう…
がさがさ
ちょうど、ノートを開いてふで箱からお気に入りのシャーペンを出したとき、近くから妙な音がした。
右隣りに目をやる。
ふざけた赤い髪のラビが、これまたぐっしゃぐしゃなルーズリーフにさっそく落書きを始めていた。こっちの視線に気づいたのか、自信作らしい落書きを無理矢理見せようとしてきたので無視した。ラビはうなだれた。
どうやら、さっきの物音はラビじゃないらしい。
続いて、左隣に目を向ける。わたしの左隣はつまり、神田くんなわけで。「ガン見してくるキモい女」とは思われたくないので、目を向けると言ってもチラ見だ。
がさがさがさがさ
神田くんは、かなり必死で机の中をガサガサしていた。どうやら何かを探している模様。目が若干こわい。
「チッ」
しばらくそうやっていたかと思うと、舌打ちをかました神田くんは朝と同じように机にふせてしまった。え、ちょ、何がどうなったの。
少しためらってから、わたしは神田くんの黒いセーターの端をちょいちょい、と引っ張った。
「……あ?」
「あ、あのさ、どうかした?」
声を潜めてそう言って少し眠そうに目を細めた神田くんに聞いてみる。
「………」
「あ、もしかして具合悪いの?」
「違う」
「え、じゃあ…?」
「教科書わすれた」
「あ…ああ…!」
納得。実に納得!だから机ガサガサやってたんだね!冷静になって考えてみる。あれ、これは結構なチャンスじゃないか。教科書を見せるっていうこれまた「いかにも!」なシチュエーションも、席が隣だからできることだぞ!勇気をだせ名前!
「あ、よかったらわたしの教科書みる?」
「いや、いい」
開始三秒、名字名前散りました!
「ご、ごめんっ!お節介だったよね」
「………」
「ごめんね…」
「おい、」
「ん?」
「やっぱり貸してくれ」
「へ…?」
「教科書、見せてくれ」
「…うん!」
すっかり拒否されたと思っていた中、予想外の神田くんの言葉にわたしは先生がこちらに背を向けている隙に、机を移動させて神田くんの机にくっつけた。
先生が黒板にチョークを走らせる音。
生徒が教科書をめくる音。
時計の長針が進む音。
これらの微かな音しか存在しない静かな教室に、わたしの心臓がどくどく、と速く、それでいて大きく動く音はさぞかしうるさかったと思う。
今にも触れそうな左肩が、熱い。机の上に置かれている神田くんの男の子らしい手が、わたしの手の近くにある。石鹸の爽やかな香りが、いつもよりはっきりとわかる。
わたしと神田くんが二人っきりの空間に居る気がして、自然に笑みがこぼれた。
とんとん
10分ほど経っただろうか。わたしにしか聞こえないほど小さな、机を叩く音。神田くんが指でリズムを刻んだ音だった。わたしが首を動かして左の方に少し首を傾けると、す、とノートが差し出された。
『お前、好きな食べ物はなんだ』
神田くんらしい少し癖がある文字で、そう書かれていた。
『甘いものかな…。でも、どうして?』
神田くんのノートに返事を書くのもなんだか気が引けたので、自分のノートにいつもより幾分か丁寧に綴って、神田くんの方に差し出す。
先生がこちらを見ている気がしたので、神田くんの様子はよくわからなかったけど、わずかに頷(うなず)いたようだった。
その頷きの意味はよくわからないけど、今のわたしにはそれでも良かった。
天にも昇る気持ちって、こういうことを言うんだと思う。
(神田くんが好きって気持ちを再確認できた日。)
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20101212
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