※来神





「―――玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」


古典の授業中、ぼんやりと窓の外を見つめていた臨也は、中年の古典教師の低い声に不意に意識を引き戻された。癖のある、お世辞にも綺麗とは言えない字に埋め尽くされた黒板に目をやる。ついでに教室を見回すが、いつも通りの授業風景だ。
「この歌の作者は…」
低くこもるような声は、聞いていて心地よくはない。再び窓の外に目を移し、教師の声を意識の外へと追いやる。
窓の外では、隣のクラスの生徒がグラウンドを走り回っていた。よく目立つ金髪が、きらきらしている。

同じように低い声でも、シズちゃんの声はもう少し心地いいのにと、僅かに意識に入り込む教師の声を聞きながら思った。普段はがなるような唸るような、敵意を込めた声でしか臨也に向けない静雄が、時折…本当に稀に、穏やかに臨也を呼ぶことがある。その時の静雄の声を、臨也はひっそりと気に入っていた。

窓の外の金色は、動き回る集団とは離れたところに立っている。おそらくその人並みはずれた怪力で人を傷つけることを危惧して、自ら参加を辞退したのだろうなと臨也は思った。ぼんやりと集団を見つめるその姿が、臨也には呆然と立ち尽くしているように見える。
静雄は、基本的に怒りさえしなければ穏やかだ。臨也は怒り狂っている姿ばかりを見ているが、こうしてひっそりあちらに気づかれないように観察していると、静雄の本来の気性が穏やかであることを実感した。
相手が臨也でさえなければ、臨也が好む穏やかな声音で相手の名を呼び、語りかけるのだろう。臨也は稀にしか聞けない声を、静雄は臨也以外にならあっさり聞かせてしまう。

カタリ、小さな音を立てて立ち上がる。周囲の数人が臨也をちらりと見たが、すぐにノートへと視線を落とした。教室を出ていく臨也に教師も視線を向けてきたが、諦めたような呆れたような顔をしただけですぐに手元にある教科書へ意識を戻していった。止められないのは好都合だ。
しかし授業を妨害する気もないので、なるべく音を立てずに教室を出た。
屋上へ向かう足は、なぜだか少し重かった。







がちゃり。
屋上に続く扉を開けば、ふわりと風が臨也の頬を撫でていく。フェンスに寄りかかるようにグラウンドを見下ろす。わあわあと風に乗って屋上まで響いてくる喧噪に、臨也は目を細めた。静雄は、教室からグラウンドを見下ろしたときと同じ場所に佇んでいる。
「…玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」
誰に聞かれるわけでもないのに、自然と囁くような声音になった。大事に抱え込むように、そっと柔らかく言葉を舌に乗せる。
ただふと言葉にしてみただけなのに、そんな風になってしまう自分を鼻で笑ってやりたくなった。

臨也は、静雄が好きだった。
始まりはいつだか分からない。ただ、気が付いたときには嫌悪が恋情に変わっていた。
稀に嫌悪も敵意も含まない穏やかな声で名前を呼ばれると、ひどく幸せな気分になった。向けられるのが敵意でも嫌悪でも、臨也だけを見て追いかけてくる静雄のまっすぐな感情や視線は心地よかった。時折静雄に穏やかな声音で名前を呼ばれたいと願うこともあったが、それでも臨也は静雄との関係を変える気はなかった。
臨也がどう努力しても、静雄は臨也のことを根の部分から嫌っている。静雄に嫌われないためには、それこそ別人にならなくてはならないが、臨也自身ですら自分を変えることはできない。
おそらく真っ直ぐに好意を向ければ、なんだかんだと律儀で優しい静雄は態度を変えるだろう。しかし、同情や憐憫で与えられる優しさなど、臨也には惨めなだけだ。臨也が静雄に抱く感情を知られてしまえば、静雄はきっと臨也を心の底から嫌えなくなる。殺せなくなる。そういう男だと知っていた。
好かれることなどないと知っている。ありえないことだから、望んだこともない。臨也が望むのは、一番に嫌われて殺したいと願われて、静雄の心に嫌悪という形で自らを刻み込むことだ。臨也の感情を静雄に知られてしまえば、それが叶わなくなってしまう。
そんなのは、ごめんだった。

だから、どうか気づかないでくれと思う。臨也の想いになど気づかないまま、静雄はただ臨也を嫌っていてくれればいい。
嫌悪という強い感情も、きっと静雄はいつか忘れてしまう。今はまだ自分の力を持て余している静雄も、きっとあと何年もすればその力の使い方を覚えて、人に囲まれるようになって、臨也のことなどなんとも思わなくなるのだろう。
本来穏やかな男であることを知っている。行動が矛盾していても、暴力を嫌っているというその言葉に嘘がないことを知っている。静雄は短気なだけで馬鹿ではない。暴力を振るわせる存在である臨也を遠ざければいいことに、存在を無視すればいいということにいつか気付いてしまう。いや、もしかしたらもう気付いているのかもしれない。ただ、怒りを制御できないから実行できていないだけで。
ならば、それを実行できるようになるのはいつだろう。力を制御できるようになるのはいつだろう。きっと、そう遠い未来ではない。
けれど静雄に嫌われることしかできない臨也は、それしか選択肢を与えられていない臨也は、せめてその時が少しでも遠のくようにと静雄の傷を抉るのだ。




片恋



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たぶんつづきます。


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