仕事の終わった金曜日の夜。開放感を胸に抱きながらお店に向かう足取りは軽い。蛍くんに会うの久しぶりだなぁ。私の仕事が忙しかったり、蛍くんも学校やバレーの練習、試合があって予定が合わずになかなか会う時間が持てなかった。

意外とマメにメッセージを送ってくれたり、夜眠る前のほんの短い間でも通話で声を聴かせてくれたりと、濃やかな彼氏であることは最近ようやく知れたこと。付き合う前は割と淡白な方かなって思っていたけれど。

お店の前に着いて腕時計を確認すれば約束の時間の5分前。ちょうど良く着けてよかった。蛍くんもう着いてるかな。
ささっとスカートの皺を伸ばして、髪の毛を手櫛する。もう一度時計を確認してから、目の前のお店の扉へ手をかける。と、頭上からスッと長い腕が伸びてくる。
その腕がそのまま扉を開くので、顎を上げてその腕の伸びてきた方向へ視線を渡らせれば高いところにある頭。


「蛍くん!」
「どーも」
「びっくりした。よかった、同じくらいに着けて」
「うん。…ドーゾ」


嬉しくなって見上げれば蛍くんは扉を支えてお店の中へと促してくれる。こういう、存外ジェントルマンなことも最近知ったところの一つだ。なんだか今までのイメージに無くて、無性にドキドキしてしまうのを隠しながらお礼を言ってお店に入る。


予約していた旨を店員さんへ伝えればすぐに奥の席へと案内される。半個室の席になっていて、微妙に席が狭いというかお互いの席間が近い。蛍くん嫌じゃないかな。大丈夫かな。


「奥どうぞ」
「あ、うんありがとう」


当然のように奥側の席を譲ってくれる。優しいなぁ。こういうのどこで習うんだろう。
そっと表情を伺えば、特に嫌な顔もせずに蛍くんも席につく。よかった、狭くないみたい。蛍くん大きいからね。窮屈じゃないならよかった。脚をちゃんと揃えていないと膝が当たってしまいそうになる。お行儀よく座っていなければ。


「かんぱーい」
「お疲れさま」


コツンとグラスを合わせて食事をはじめる。
前に会社の飲み会で来たお店で、お料理が美味しかったから絶対に蛍くんと来たかったんだよね。どうしても会社の人と一緒だと好き勝手には飲み食いできないから、次来たときは好きなだけ食べようと決めていた。


「このお料理前来たときも頼んでてね。でも先輩に話捕まって中々食べられなくってさ。やっと席戻ってきたら同期の子がちょっと取り分けて確保しててくれて“食べなよ“って。もっと味わって食べたかったから嬉しいなぁ」
「そうなんだ。確かにその先さん好きそう」


美味しいお料理と久しぶりに会えた蛍くんにテンションが上がって沢山おしゃべりしたくなる。当たり前だけど、会社の人と来るよりも断然楽しい。余計にお料理も美味しく感じて頬が緩んでしまう。


「その後もずっとその子がご飯取り分けてくれたり飲み物気にかけてくれたり、すごいいい人でさぁ。もう結構彼女いないんだって。やっちゃんとかどうかなぁ同期のルックスは悪くないと思うんだよねぇ」
「どうだったかな。…谷地さんに直接聞いてみれば?連絡先交換してたよね」
「でも気を使わせちゃわないかな。なんか彼女そろそろ欲しいみたいなこと言ってたから紹介してあげられればいいんだけど…」


以前蛍くんの高校時代のお友達に会った時にお話をしたやっちゃんを思い出す。可愛くて腰が低くて、とにかく笑顔が可愛かった。ふふ、会いたいな。確か出会いがないってぼやいてたんだよね。あんなに可愛らしい子を世の男性は放っておくのか。
可愛い女の子に想いを馳せてにまにまする私を尻目に蛍くんは何度目かの飲み物のおかわりを注文している。
おっと、ペース結構早いな。
つい最近お酒が飲める歳になったはずなのに、もう既に私よりもお酒に強いんじゃないかな。

結構お腹も膨れてきたし、そろそろデザートメニュー行っちゃおうかなぁ。その前にちょっとお手洗いに失礼しよう。


「化粧室行ってくるね」
「うん」


ハイペースで飲みながらも一切表情の変わらない蛍くんに声をかけて席を立つ。
デザートは何にしようかな。季節のソルベはなんだろう。2つ頼んで、蛍くんと半分こ出来たら嬉しいな。多分快諾してくれると思うんだ。
ちょっと照れながらもきっと優しく分け合ってくれる蛍くんを想像してお手洗いに向かう足取りは軽かった。


「おまたせ。2人並んでて時間かかっちゃったー…ってあれ」


思いの外時間がかかってしまったお手洗いから戻って、席にいる蛍くんに声をかけると返事がない。
その大きな背中を丸めて、テーブルの上の腕に頭を突っ伏して眠ってしまっている。

まだまだシラフに見えたけど、ひょっとして飲みすぎて具合悪くなったのかな、と顔を覗き込むけど表情は読めなくて。でも青かったり赤かったり白すぎたりってことも無さそうだから、本当に眠ってしまっているだけの様子。まぁ蛍くん元から白いんだけど。
忙しくて疲れてたのかな。そんな中、こうして私と会う時間を作ってくれたのが嬉しい。
さて、ここからどうしようか。


「すみませーん。お会計と、あとタクシー1台呼んでいただけますか?」
「かしこまりました」


依然静かに眠り続ける蛍くんをチラチラ確認しつつささっとお会計を済ませると、ほどなくしてタクシーが到着した旨を店員さんが伝えてくれる。


「蛍くん、大丈夫?歩ける?…私が支えるからね。ゆっくり立ち上がって」
「…ん?」
「ほら、よいしょ、わわっ!…ごめんね、こっちだよー」
「っふ…」
「ん?大丈夫?どっか痛くない?歩けるかな」


蛍くんの長い腕を取って、私の肩に回すように誘導する。
片手で腕を掴んで、もう片手で蛍くんの腰を支える。うわ、腰細。でもぎゅっと引き締まっていて固い。いつも触っている自分のとは全然違う。全然ぷにぷにしてない…。
微かにショックを覚えながらも気持ちを切り替え、グッと力を入れて立ち上がると蛍くんの重さに引っ張られて一緒に倒れそうになる。寸前で蛍くんがテーブルに逆の手をついてくれた事で踏ん張れた。
すぐ近くにあって脱力している綺麗な顔。蛍くんが呼吸とは別にふっと息を吐いた気がして覗き込む。
大丈夫かな、腕へんに痛くしてないといいけど。しっかりと支えなければ。
両脚とお腹にさらに力を込めて、蛍くんを支えながら出口へと誘導する。


「すみません、大通りのコンビニ過ぎたところまでお願いします」
「はーい、ドア閉めますね」


えっちらおっちらタクシーに乗り込んで、運転手さんに行き先を伝えて大きく息をつく。はぁ、結構大変だった。
眠り込んでしまった蛍くんを1人で帰すことも出来ないし、かといって今から蛍くんのお家まで送って行ってから私のマンションに戻るのには多分電車が無くなる。そうなるとお店から比較的近い私の部屋に連れて行くのが無難かな、と言うことで真っ直ぐ向かうことにした。
隣で私の肩にもたれかかりながら眠り込む蛍くんの整った顔を横目で見る。
なんか、いけないことしてる気分になってくる…。年下の酔い潰れた男の子をお持ち帰り的な。送り狼ってやつ…?なんか違う?
最近お付き合いを始めた蛍くんとはまだそういう関係にはなっていないから、合意なく家に連れて行くのってやっぱり良くなかったかな…。終電逃しても蛍くんをお家に送り届けて、私は適当に近くのビジホとかに泊まった方がよかったかも。


もんもんと考えている間にタクシーが目的地に到着する。
支払いを済ませて運転手さんにお礼を伝え、せっせと蛍くんを降ろす。


「大丈夫?もう少しでゆっくり寝れるからね」


問いかけても返答がない蛍くんの大きな体を一生懸命支えながらなんとか部屋に入っていく。
玄関で酔っ払って意識のない、それも結構大きめの成人男性の靴をどうやって脱がしたもんか…もういっそのことベッドまでは靴のまま行ってもらって、寝かしてから靴を脱がして床を掃除した方が蛍くんへの負担が少ないかな…と思案していると、なんと蛍くんが自分でスッと靴を脱いでくれた。
おお、すごい。人の習慣素晴らしい。正直私もちょこっと酔っているから今から床掃除は大変だった。助かりがすごい。


「はーい、こっちだよ。よっこい、せっ」


どさり。大きな身体が私のベッドに寝っ転がる。
うちに来るのは初めてだけれど、まさかこんな形で来ることになるとは思っていなかった。予想外の出来事ではあるけれど、とりあえずなんとか無事に寝かせることができて一安心。ふぅ、と息をついて改めてすーすー静かな寝息を立てて眠る年下の彼氏を見下ろす。

いつも見上げてばっかりだから、見下ろすのなんか新鮮だな。
予想通りというかなんというか、やっぱり私のベッドは窮屈そうで、ベッドがいつもよりも小さく見える。長すぎる脚は軽く折り曲げられているけれども、それでも少しはみ出してしまっている。

ソファからブランケットを取ってきて、そっと大きな身体にかける。足先が出てしまって申し訳ない。でも肩冷えるのも良くないし。うーん。

どうしたもんか、と蛍くんの寝顔を見つめて、眼鏡がかけっぱなしだったことに気がつく。危ないから外したほうがいいよね。

「失礼しまーす…」

寝ているとは分かっていても小声で断りを入れる。そーっと、そーっと手を伸ばして眼鏡のフレームを掴んで静かに外す。
何気に素顔は初めて見るなぁ。寝顔だけど。
勝手なイメージだけど蛍くんって眠りが浅いタイプかと思っていた。寝てる時に触られたりするとすぐ起きちゃうみたいな。でも存外起きないな。

これは…と思い立って喉がなる。
綺麗なスベスベのお肌。かっこいいけど、かわいいとも感じてしまう。
酔ってぐっすり眠っているから、きっと大丈夫。かなり飲んでたもんね。
眼鏡を外した時以上にそっと、静かに気配を消して、唇を頬に寄せる。

ちゅ

えへへ、ついつい。我慢できなくなっちゃった。
さてと。シャワーでも浴びて私はソファーで寝ようかなぁ、と立ち上がろうとすると下から腕を引かれたことによって阻止される。

「っわあ!」


反転する視界。背中は柔らかくベッドに落ちて、目の前には「け、蛍くん!」


さっきまですやすや眠っていた蛍くんの少し不機嫌そうな顔があった。


「起きたの?大丈夫?お水とか飲む?」
「起きてたよ」
「えっ、いつから!?」
「そんなことより、いまの何?」


酔って眠っていたはずなのにはっきりとした口調で驚く。状況が飲み込めずにわたわたする私に蛍くんはグッと顔を寄せてくる。薄暗くてはっきりとは見えないけれど、眉間に皺は寄ってるのに、頬がうっすらピンクだ。その頬を見て、先ほどの自分がしたことを思い出しこっちの顔までぼぼぼと熱くなる。やばい、起きていたんだ。


「あの、それは、えっと…ごめん…?」
「なんで謝んの」
「いやその、寝込みを…ごめんね、!!っ…?!」
「謝んなくていいから」


とにかく謝りたい気持ちが強くて謝罪を繰り返せば、ちゅっと唇を寄せられて口をつぐむ。


「無防備すぎ。僕も男だって思い出した?」


微かに笑う蛍くんから目が離せなくなる。
思い出したもなにも、忘れたことなんて一度もない。ずっとずっと、ずっと、その骨ばった指に、筋の浮かぶ腕に、固くしなやかな首筋に惹かれていたんだから。
薄いカーテンから漏れてくる月光に照らされる蛍くんが艶やかすぎて、私はもう唾と一緒に言葉を飲み込む他なかった。



***



約束の時間の5分前。事前に送られてきていた店の住所を確認して、数メートル先に目的地があることを確認する。もうすぐ到着する旨を連絡しようかと思った矢先、店の前に彼女が見えた。
なんだ、ちょうど着いたところだったのか。連絡の手間が省けたな、と思いながら近寄れば「なぁ、あそこのおねーさん1人かな?」「かもな。金曜に1人ってことはフリーの可能性高いっしょ」「声かけてみんべ」2人組の男がすぐ後ろからその先さんを見て話しているのを認識して舌打ちが出る。
冗談じゃない。その先さんの視界にも入らないでもらいたい。

大股で、男たちがその先さんに声をかけるよりも早く近づき追い抜いて、小さなその先さんが僕の身体で見えなくなるように後ろから扉に手をかける。
突然後ろから伸びてきた腕にびっくりしたのか、振り返ったその先さんの目が丸く見開かれている。


「蛍くん!」
「どーも」
「びっくりした。よかった、同じくらいに着けて」
「うん。…ドーゾ」


振り返らなくとも、後ろの2人組が「なんだよ男いんのかよ」「他当たるかー」と去っていくのが聞こえる。
店に入って店員と話すその先さんに気づかれないように息を吐く。油断も隙もない。


「奥どうぞ」
「あ、うんありがとう」


席に案内されてもなかなか入らずに心なしか困った顔をしている。どうしたんだろう。
不思議に思っていたけれど、着席してからその先さんがぎゅっと自分の脚を寄せているのを見て漸く思い当たる。僕の脚がぶつかるかとか、窮屈じゃないかとか、そんなことを気にしてるんだろう。
確かに狭めの席ではあるけど、相手が彼女で嫌な気分になるはずもない。脚だって、別にぶつけてもらって構わないのに。偶然でもなんでも、触れたいと思っているのは僕だけか。
頑なに触れないようにされていることが少し面白くないけれど、表情には出さずに乾杯をする。こんなことで拗ねるなんて、年下扱いされそうで嫌だ。


「かんぱーい」
「お疲れさま」


お酒のあまり強くないその先さんは甘めのカクテルを口に含んで嬉しそうににっこり笑う。さっきまでのイライラがその顔を見ただけで少し引いて、こっちも釣られて少し頬が緩む。
前に一度会社の集まりで来たことがあるらしいその先さんがあれこれと仕切って注文をしてくれる。僕の好みも分かっているから一緒に食事をするのは結構楽しい。


「このお料理前来たときも頼んでてね。でも先輩に話捕まって中々食べられなくってさ。やっと席戻ってきたら同期の子がちょっと取り分けて確保しててくれて“食べなよ“って。もっと味わって食べたかったから嬉しいなぁ」


選んでもらった料理は確かにどれも美味しくて、アルコールも進みながら食事を進めていると料理を見て思い出したのかその先さんは会社の飲み会の話を始めた。
出た。“同期の子“。
結構な頻度で登場するソイツは男だってことを知っている。その先さんも別に隠してはいない。
そこまで大人数の新入社員がいない会社の為か、同じ年度に入社した社員同士仲が良いと聞いている。きっと新入社員同士じゃないと共有できない様々な苦労があるだろうから助け合うのは必要なことだと学生の僕にも理解ができる。ただ、ソイツは“同期“の仲良しこよし以上を求めているとしか思えなくて、以前から話に出るたびに警戒心を高めていた。


「そうなんだ。確かにその先さん好きそう」


とはいえ目くじら立ててその男に気をつけろとも言えないからスルーして料理の好みにのみ返事をするけど、その先さんは何も気づかずににこにこ笑いながらソイツの話を続けるからたまったモンじゃない。あーイライラする。ソイツを思って笑顔になってる訳?同じ年に偶々入社したことがそんなに特別なの?
でも、そんなこと口に出せるわけないし、絶対に気づかれなくなくてグッと我慢する。学生の僕には、社会人のその先さんの苦労や喜びはきっと分からない。悔しいけど、ソイツの方がそれは共有も共感も出来ているんだろう。


「その後もずっとその子がご飯取り分けてくれたり飲み物気にかけてくれたり、すごいいい人でさぁ。もう結構彼女いないんだって。やっちゃんとかどうかなぁ同期のルックスは悪くないと思うんだよねぇ」
「どうだったかな。…谷地さんに直接聞いてみれば?連絡先交換してたよね」
「でも気を使わせちゃわないかな。なんか彼女そろそろ欲しいみたいなこと言ってたから紹介してあげられればいいんだけど…」


はーーーもう。何をどうしたらそこまで鈍く生きられるのか逆に知りたい。教えて欲しい。そんなことその先さんに言って、もう相手はほぼ告白したと思ってるでしょ。なんでそこまで直接言われて、もしかして自分のこと好きなのかって思い当たらないのか本当に理解できない。なんでここまで徹底的に鈍感かつ無防備であれるのか。っていうか会社で何の話してんの?ソイツもその先さんにアプローチしてないで仕事しろよ。会社でそんな会話を2人で出来る環境にならないでほしい。

あまりの鈍さに一瞬意識がくらくらする。はぁ。喉が渇く。
一気にコップを空にして、おかわりを注文するとその先さんがトイレに立った。

ぱたぱたと足音が遠ざかっていくのを確認して、重ねた腕に頭を突っ伏す。微かに感じるアルコールの酔いと共に軽く目を閉じて思案する。
やっとその先さんと付き合い始めることができて若干浮かれていたけど、結構気を引き締めないといけないんじゃないか。どうしたらその先さんに男に対する危機感を持ってもらえるだろう。こんなに男に対して警戒心がなくのほほんとしてるその先さんが怖い目に遭う前になんとかしないといけない。


「おまたせ。2人並んでて時間かかっちゃったー…ってあれ」
「!!」


しまった。もやもやと考えていたら意識していたよりも長く時間が経っていたらしい。席にその先さんが戻ってくるのに気が付かず、テーブルに伏せたままだった。
こんなことで悩んでうずくまっていたのが気恥ずかしくてそのまま咄嗟に目を閉じて寝たふりをするとその先さんはあっさりと騙されたようで店員を呼んで会計を始めた。


「すみませーん。お会計と、あとタクシー1台呼んでいただけますか?」
「かしこまりました」
「…?」


なんでタクシー?しかも1台。
普通に起こされて、軽く酔ったふりでもしながら起きるのを想定していたけど。
素早く会計を済ませたその先さんは僕の傍でしゃがんで声をかけてくる。


「蛍くん、大丈夫?歩ける?」


後で食費渡さないと、と考えながらそろそろ起きる演技をしようとするとその先さんの腕が僕に伸びて来て、あまつさえ抱えるような動作を見せるから完全に虚を突かれて再度狸寝入りから覚めるタイミングを逃してしまう。


「私が支えるからね。ゆっくり立ち上がって。ほら、よいしょ、」
「!!!」


僕の腕を取って、自分の肩に回させてくる。こんな、細い肩でデカい男の何を支えようと思っているのか。
理解出来ないと呆れつつも、腰に手を伸ばされて身体の密着度に心臓がうるさい。いままで感じたことのない柔らかな感触に、一気にアルコールがまわって酔いそうになる。全力で握ったら、砕けちゃうんじゃないかと本気で思った。そんな小さな肩で支えられるわけ無いのに。その先さんの体温に意識が奪われて、力の制御が出来ずに体制が崩れそうになるのを咄嗟にテーブルに軽く手を突いて立て直す。


「わわっ!…ごめんね、こっちだよー」
「っふ…」
「ん?大丈夫?どっか痛くない?歩けるかな」


危ない。あまりにも一生懸命体重を支えてくれようとする姿がおかしくて我慢できずに笑ってしまう。
この人、本当に僕の身体を支えて歩いていると思ってるのかな。ありそう。その先さんが支えられるであろうギリギリを見計らって体重を預けてなが歩くのはなかなか疲れる。普通に歩く数十倍。
どこまでも僕の心配をしながらゆっくりと歩くその先さん。きっと誰に対してもこんなんだから会社の男にもつけ入る隙があると思われるんだよ。
チッと舌打ちを打ちそうになるのを我慢して、誘導されるがまま大人しくタクシーに乗り込む。
乗り込んでから再度今の状況を反芻する。ひょっとしなくても、これは、


「すみません、大通りのコンビニ過ぎたところまでお願いします」


その先さんのマンションに向かっている…。




程なくして着いたのは間違えるはずもないその先さんの住んでいるマンション。
何度か前まで送ったことがあるから知っている。まさかとは思っていたけど、本当にここに連れてこられるとは。
酔っ払った男なんて適当に起こして適当に1人にすれば勝手に帰るのに。でもきっと彼女の中にそんな選択肢はないんだろう。これは、僕が彼氏だからここまで優しくするの?それとも、誰でもこうするの?
さっきから顔も知らない“同期の子”がモヤモヤと頭の中に浮上して落ち着かない。ソイツにも、こんな風に親切にするのだろうか。会社の集まりは比較的多いと聞く。まさか、もうソイツもこうして部屋に来たことがあったりするのだろうか。
自分以外の男と一緒にいるその先さんを想像しただけで胃がムカムカしてくる。けれど寝たふりをしている今どんなにイラついたところで無力だ。僕に回されているこの細い腕を掴んで抱きしめたらどんな顔をする?そのままキスでもすれば、少しくらい男に対して警戒心を持ってくれる?
そんな不穏な考えが浮かぶけど、実行できないことは自分が誰よりも知っているからおとなしく酔っ払って眠り込んだ演技を続ける。


「大丈夫?もう少しでゆっくり寝れるからね」


玄関が開いて、一歩足を踏み入れた瞬間その先さんの匂いが充満してドッと心拍が上がる。相変わらず支える様に身体が密着していて変な気分になってしまう。イライラとドキドキが同時に両方襲ってきて、はぁ。もういっそのこと本当に眠ってしまいたい。

その先さんが僕の靴をどうしようかと悩んでいるのを感じてそっと自分で脱ぐ。
流石に起きてることがバレるかなと思ったけど、そこまで深く考え込まずにいてくれたらしい。いやホントにこの人そのうち騙されて壺とか買わないように注意して見張ってないとやばいな。他人に対して疑いなさすぎでしょ。流石にここまで鈍感だと怖いんだけど。
僕の心配をよそに、部屋を進んでベッドの前に到着する。え、ちょっと待、そっちにソファーあるじゃん、ソファーでいいんだけど、


「はーい、こっちだよ。よっこい、せっ」
「!!!!」


抵抗も出来ずにベッドに寝かされた瞬間、玄関に入った時に感じた以上の濃縮されたその先さんの香りに包まれて一瞬思考が停止する。なんだこれ、まるで僕がヘンタイみたいじゃないか。
必死に理性をひとまとめにして落ち着こうと努力するけれど、なかなか心拍が落ち着かない。ずっと好きで手に入らなくて、それでも諦めきれずにずっと想っていたんだ。そんな女性の濃厚な気配に一気に襲われて心臓がバクバク鳴る。
そんな僕の状態なんてまるで知らないその先さんが呑気にブランケットをかけてくれる。
さっきまでは本当に眠ってしまえたらと考えていたけれど、上からも下からも甘く柔らかな匂いに包まれて眠れる訳がない。香水の匂いとも違う、その先さんの肌の香りがする。好きな女性の部屋が、自分をこんなにも危険な人間にするだなんて知らなかった。

どうにかして落ち着かなければ。そうだ、その先さんがシャワーにでも立ってくれれば、距離を取ってくれれば少しは冷静になれる。
それまでのもう少しの辛抱だ、と静かに深く息を吐いていると不意にそっとメガネが外されて呼吸が止まった。


「失礼しまーす…」
「…………」


本当に勘弁してほしい。
どうせ、“蛍くんってすぐ起きそうなのに案外起きないなぁ“くらいに思っているんだろう。どこまでのほほんとしてるんだ。起きないわけないじゃないか。
自分で自分が危険な状態になっているのがよく分かる。ずっとその先さんの香りで脳が溶かされ続けている状況な上に、彼女の部屋に2人きり。伸ばせばすぐに触れられる距離に大好きな彼女がいて、こんなにも舞台が整っている。
だからこそ早くどこかに行って欲しかった。その先さんを怖がらせるようなマネはしたくない。どうか、このまま距離をとってくれたら、そのまま僕は身体の内側の熱を抱えながら長い夜を一人で過ごすから。こんな僕を、男を知らなくて済むから。
柄にもなく必死に願っていたけれど、そんな思いはその先さんによってあっけなく打ち捨てられる。


ちゅ


頬に柔らかな感触。
認識するよりも前に衝動が襲って、すぐそばにある細い腕を引く。


「っわあ!」
「…」
「け、蛍くん!」


本気で驚いている顔にむしろこっちが驚いてしまうし、本当に騙されてくれていたのかと呆れて眉間に皺が寄ってしまう。


「起きたの?大丈夫?お水とか飲む?」
「起きてたよ」
「えっ、いつから!?」


いつから起きてたか、なんてアホな質問をするその先さんの顔をよく見たくて顔を近づける。
すると顔を赤くして目をしどろもどろ泳がせるから、そんな姿が可愛くて僕もまた体温が上がるのを感じる。


「そんなことより、いまの何?」
「あの、それは、えっと…ごめん…?」
「なんで謝んの」
「いやその、寝込みを…ごめんね、!!っ…?!」


謝ることがあるとしたら騙していた僕の方なのに、一体なんの謝罪だよ。同期の男にもこういうことしたの?そんなに可愛い表情を僕以外の男にも見せたの?


「謝んなくていいから」


喉の奥から絞り出した自分の声が、くぐもって聞こえた。苦しい。こんなに想っているのに。
あっさりと僕の寝たふりなんかに引っかかる彼女には、男がどういう存在なのか知ってもらった方がいいようだ。どうせ僕のことなんて年下の弟みたいに思ってるんだろうけど。


「無防備すぎ。僕も男だって思い出した?」


ベッドに広がるその先さんの髪の毛が艶やかで、見えない引力に抗えない。
瞳をとろんとさせた表情がどこまでも甘くて、何度も何度もキスを落とす。



「んっ、ふ、っぅ、ま、待ってッ」
「待たない」
「あ、ちょ、っ違くて、あっ、その、」
「っはぁ。…なに?」


深くなるキスに酔いしれているとその先さんから制止がかかる。“待って“に耳を貸す気はなかったけど、意志を感じる抵抗に少し冷静になって身体を離す。…まずい。これじゃ襲っているのと変わらない。
その先さんに止められていなかったらこのまま自分は何をしでかしていたのかと考えるとザーッと血の気が引く。最低だ。こんなんじゃ会社の奴にどうこう言う資格なんてまるでない。
大切な彼女を怖がらせることがあってはいけないのに、一体僕は何やってるんだ。
自分の愚かさに愕然としながら視線を合わせる。このまま恐怖されて距離を置かれても仕方ない。またゆっくりと距離を詰めて僕のものになるように外堀から埋めて、とこれからのことをざっと脳内で展開させるけど、その先さんの表情は怒りや恐怖は浮かんでなくて首を傾げる。薄暗いし裸眼だからはっきりとは見えないけれど、恐らく顔を赤くして、その先さんはゆっくりと言葉を選びながら声を出す。


「え、っと、シャワー…浴びてきても、いい…ですか」
「…は?」
「だ、だから、こういうのは、初めてだから、せめてシャワーを…!」
「…え?」


予想だにしていなかった発言に思考が停止する。
初めて、って、その先さんハジメテなのか…?前の彼氏の話も聞いたことあったし、いつも年上ぶって余裕ぶるから普通に経験しているのかと思っていた。
っていうことは今まで散々悩んでいた同期の男とももちろん何もなかったってことで。…いや当たり前か。
その先さんの言葉によって一気に頭が冷えて、冷静になっていくのが分かる。ちょっと落ち着いて考えればその先さんが会社の人と中途半端に遊んで、更にはそれを他人に紹介しようとなんてする訳ないのに。底抜けにお人好しなのと鈍いのは問題大有りだけど、それでもちゃんといままで何もなく安全に過ごしてきているのも事実だ。そうだった。僕は、優しくて人に騙されないか不安になるけど、決してバカじゃない彼女を好きになったんだ。

自然と笑みが溢れてくる。僕も大概アホだな。

必死になって僕を見上げているその先さんの腕を軽く引いて身体を起こす。そのまま腕で包めば、すっぽりと収納出来て安心する。
僕の、その先さん。大切な彼女。大概のことなら、この無駄に成長した身体で守ってあげるから。だから、僕から離れないで。


「急にごめん」
「いえいえ、謝ることじゃ…」
「シャワー、浴びよう」
「う、うん」
「でも、」


安心したように、肩の力を抜いた彼女の額に自分のを合わせてじっと見つめる。うん、この距離ならよく見える。


「それ以上は待たないよ。お店でデザート食べ損ねたしね」
「蛍くんが寝てたからじゃん!」


赤くなって叫ぶのを見て、自分はいま意地悪く笑っているように見えているんだろうなと思う。でも、この表情を嫌いじゃないことも知っている。
願わくば、これから先もその先さんの知っているオトコは僕だけでありますように。

20230414





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