決して油断をしたわけでは無かった。
ただ、俺の右手をしばらく使い物にならなくするか、部下を死なせるかの選択を迫られた刹那、考える必要もない程その答えは決まっていた。


そうして無様にも負傷して戻ってきた壁内で待ち受けていたのは、予想していなかったなまえと過ごす僅かな時間だった。
怪我の功名とでも言うのか、俺の世話をさせてしまうのは悪いと思いつつも一緒にいられるだけで嬉しいとも思ってしまう。例えそれが、俺を知らないなまえだとしても。


医療棟から自室へ戻る際、俺の荷物の運搬を自ら進んで行おうとするお人好しなところが好きだ。どう考えても非力ななまえよりも腕一本使えない俺の方が荷物を運ぶことに適していると言うのに。

入院中溜まりに溜まった書類整理を手伝わせれば、こちらの意図を汲み取って指示した以上の対応をする賢いところが好きだ。通常通りの膨大な量に加えて俺の腕がこのザマだから数日がかりになることを覚悟していたが、おかげでむしろ普段よりもスムーズに終わった。

突然指名されたよく知らない奴の看護役を、嫌な顔もせずにこなす業務に対する真摯な姿勢が好きだ。あいつは病室でハンジに「命令ならば」と言った。それに僅かでも傷付かなかったと言えばきっと嘘になるが、そういう誤魔化しのないところがいかにもあいつらしい。


そうだ。なまえからしたらなんの関係性もない野郎の身の回りの世話をしろと急に命令されてそれに従っているだけだ。
なのに、あの警戒心の無さはどうにかならないものかと、なまえがすでに去った部屋で頭を抱える。

男の自室に2人きり。すぐ側にベッドもある。俺も怪我人とはいえ腕一本以外は至って通常通りに動く。
そんな条件下で閉め切った部屋に2人きりは流石に怖がらせるかと思いドアを開けたままにするか尋ねたが、恐らく俺の質問の意図も分かっていないだろう。相手が俺だから今回はいいとするが、長い目で見たときにこの警戒心の無さは致命的な傷を作りかねない。
昔から度々指摘をしていることだが、未だに改善する様子はない。そしてそんな場面に行き当たるたびに心配を募らせてしまう。

もう、俺の恋人でも無いのに。

もう俺には心配をする権利さえないのだろうが、「もう心配はしない」と突然辞められるものじゃない。そんな風に簡単に割り切れるような執着を、俺はなまえに対して持ち合わせていなかった。


なまえの巻いてくれた包帯の箇所を、シャツの上からなぞる。

片腕では脱ぎにくいだろうと介助された時には付き合っている時の記憶が蘇ってきた。
あの頃も、心底恥ずかしそうにしながらもゆっくり俺の服を緩めて行ったことがある。そんな柔らかくも甘い思い出が一気に襲ってきて今現在との差異に心と身体が引き裂かれるような感覚に陥った。


傷を見て怯えるなまえを前にして、俺は始めてはっきりとこんな役目を負わせたことを後悔した。

こんな怪我なんざ俺にとっては今更痛みを感じるようなものでは無いが、俺よりもよっぽど痛そうな顔をするなまえに申し訳なく思った。こいつは人よりも他人の痛みを感じてしまう様な奴なんだ。どうしてこんなに優しくて弱いやつに、こんな酷なことをさせてしまったんだろう。

後悔してももう遅い。

エルヴィンとの約束は医者が完治を宣言するまでの期間だ。

愛おしいなまえに側にいてもらえる幸せと、それはどこまで行っても一方的な想いだという絶望と。
双方を心の内に抱えながら、残りの天国の様な地獄の時間を過ごす他ない。



葛藤を抱えながら迎えた翌朝、部屋に現れたなまえは目の下にうっすらと隈を作っていた。
大方昨晩俺の部屋を後にしてから日中は俺の世話に時間を取られて時間を取れなかった自分の研究を行なっていたんだろう。


「清潔な包帯に変えましょう」
「…あぁ。頼む」


医者の言いつけを守って律儀に頻繁に包帯の交換を行うなまえに従って大人しく作業しやすいように座ると、すぐに処置を始めた。

俄かに驚いたのは、昨晩とは打って変わって手つきに淀みがなかったことだ。

慣れない作業に苦戦しながらもなんとか格闘していた姿はもうなく、するすると迷いのない手つきで新たな包帯が巻かれていく。
綺麗に巻かれた包帯に感心しながらなまえを見れば、照れくさそうに笑っていた。


「昨日は上手にできなくてすみません。練習しました」


昨夜遅くまで研究室に残っていた奴を付き合わせて練習台になってもらったと話すなまえは、本当に記憶が無いのかと疑わしくなってしまうほど俺の知っている、俺の愛しているなまえそのもので眩暈がする。

今すぐにこいつの細い肩を捕まえて、本当のことをぶちまけられればどんなにいいか。

記憶がなくたって構わない。俺はずっとお前の気持ちが向くまで待つ覚悟は出来ているから、俺がただただひたすらに待ち続けていることを認知してもらいたかった。

それによって再びなまえに好いてもらえるなんて自惚があるわけじゃない。知っていてもらえるだけで、それでいい。お前にとってなにも関係の無い人間で居続けることが辛かった。どんな形であれなまえの心の中に存在したかった。


どうしようもなく女々しい思いが次々浮かび上がっては、喉元まで言葉を押し出しかけて俺の理性を苦しめる。


欲望と理性がぶつかり合っていることなんて知りもしないなまえは至って穏やかに役目を果たそうと雑務を始めた。


「班の方からお預かりした書類です。これは綺麗になった洗濯物ですね。私が片付けていいですか?」
「頼む。…シャツは左の、」
「え、」


テキパキと動き回りながら渡すものや回収するもの、片付けるものなどを手に作業を進めるなまえの姿を見て、思考が止まった。


洗濯から戻ってきた衣類を片付けるなまえに、収納場所を教えようと目を向ければ俺が口を開くよりも先に該当する棚を開いていたからだ。


俺の自室での収納場所が分かったことを偶然だと考えるには動きに迷いがなさすぎた。


違和感を覚えると共に唐突に思い出す昨日の出来事。

なまえが持ってきた紅茶を淹れる時にも俺に指示を仰ぐことすらなく的確に必要な茶器などの場所を探し当てて当然のように使っていた。
あの時はあまりにも動作が自然で見落としていたが、明らかにおかしい。


そして何より、今目の前のなまえの表情。


焦っている様な、泣き出しそうな、本気で困っている時の顔だ。


速る鼓動を無視して、なんとか喉の奥から声を絞り出す。


「…なぜ、シャツを入れる棚が分かった?」
「え、と…それは…」
「昨日もそうだ。どうして俺の部屋で淀みなく紅茶を淹れられる?」
「…っ」



泣く寸前のなまえへと、縋るような視線を向けているであろう俺はどう映っているんだろうか。



変なことを聞くようで悪いが、と前置きをする俺の喉が鳴るのが遠くで聞こえた気がした。



「……思い…出したんじゃ無いのか?」



なまえは黙ったまま答えないが、確信めいたものがあった。
返事がなくとも、全て分かった。間違いない。

なまえの記憶が戻ったんだ、と希望を手にしたのも束の間、どうしてそれを隠し続けていたのかという暗い疑問が湧いてくる。


俺と付き合っていたことを、俺という存在を思い出したなまえが、記憶のないふりをする理由。

そんなの一つしかないだろう。
そうか。



「……それがお前の出した答えか」


こいつはもう俺との関係性をやり直す気はないんだろう。

沈黙を守り続けるなまえの瞳からついに涙が溢れるが、俺はそれを拭ってやることも出来ずに絶望する。


こんな状態で、このまま部屋に2人きりでいることには耐えられない。
自身の声が無様にも震えるのを感じながら、そっとなまえから視線を外す。


「悪いが今日はもう1人にしてくれ」
「…っすみません」


小さな音を立ててなまえが部屋から出ていくのを視線の端で確認してから、ずるずると椅子に座り込む。


いつか、いつの日かきっとなまえの記憶さえ戻れば元通りの生活が帰ってくると信じていた。
また愛おしいなまえとの穏やかで温かな日々がきっと手に入ると。そんな希望を胸にここまでやってきた。

なのに、一体誰がこんな結末を予想しただろうか。
まさか記憶が戻ったなまえに拒絶されて、忘れ続けているフリをされるだなんて。こんなに滑稽なことはない。

どうして、だとか、どうしたら、だとか。
疑問を抱く気力も残っていない俺に、ただただなまえを永遠に失った現実だけが重くのしかかった。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -