薄暗い食堂で催される調査兵団全体規模の食事会。

いつもの如く退屈な場で参加そのものを見送ろうかとも思ったがどうやら今回の寄付者は俺の働きを大きく評価しているらしい。
そうなると短い時間だとしても参加をしないことには兵団側の面目がなくなると告げられ、エルヴィンの顔を立てる形で参加することにした。


しかし来てみればこういう場には滅多に顔を出すことのなかったなまえの姿も見えて、あいつが変な輩に絡まれないか監視することへと参加目的が変わる。


遠目から見るなまえは遅いペースで弱い酒を飲んでいる様子でひとまずは安心するが、そもそも普段から飲むやつでは無いから気は抜けない。


顔を知っている奴から知らない奴まで何度か俺の前に座る人間が入れ替わっても俺の興味の対象はずっと変わらずに、常になまえへと神経を尖らせていた。
そんななまえが時折俺の方へと視線を向けていることに気がついたが、すぐに自意識過剰だろうと思考を打ち消す。

今のなまえにとって俺はなんでもない人間なのだから、こちらを気にしている道理がない。

いい加減なまえのことを考えすぎて都合よく物事が見える様になってしまったかと自分自身に呆れていると、その後しばらくしてハンジが引きずる様になまえをこちらに連れて来るのが分かった。
分かったがそれに対して特に何かできる訳もなく、阿呆みたいにただ座って目の前に来たなまえが口を開くのを待つしか無かった。


「その、先日は訓練時に…ありがとうございました」


予想外の言葉に、一瞬動揺してしまう。
こいつはひょっとして、これを言いたくて俺の前に来たのか。
いや、もしかしたらそもそもこの食事会への参加目的すらこの為なのかもしれない。

そんな自分にとって都合のいい考えをどうしても拭い去ることが出来なかった。それほどまでになまえは出不精で、こんな食事会に来るくらいなら自分の研究を少しでも進める奴だ。

だが、いまここでそれを追求したところで得られるものは無いだろう。
動揺を押し隠して、なるべく冷たく聞こえないように注意して言葉を送る。


「…当然の務めだ」
「そう、ですか…」


俺にとってなまえは替えの効かない大切な相手だ。
公私混合と誹られようとも訓練中どうしてもなまえが気になって仕方がなく逐一安全確認をしていた。だからいち早くこいつの立体機動装置の不具合に気がついて助けに入ることが出来た。

その後も兵士になまえを任せたは良いもののどうも胸騒ぎがして指揮権を部下に渡し、訓練場を引き返した。
どうやら俺はなまえのことに関しては獣並みに勘が働くらしい。
訓練場に併設された休憩所に人の気配を感じて入ってみればなまえが襲われかけている現場に出会して肝を冷やした。


確かに結果から見れば俺が助けたように見えるだろうが、俺はただひたすらに大切に想うから行動をしたまでだ。なまえを守る為ならば俺は出来得る全てを行うだろう。

その意味を込めて当然だと伝えたが、俺の返答を聞いたなまえは黙り込んで次々と目の前にある酒を飲み始める。場の空気に戸惑っていたり気まずく思っている時に出るなまえの行動パターンだ。

さっき向こうで飲んでいた酒よりも高い度数のそれにやや警戒するが、何と声をかけて止めればいいのか考えがまとまらない。第一俺がなまえの飲酒許容量を知っているなんてこと、本人は知らないんだ。どんな風に止めても不審だろう。

結局なにも声をかけることのできない意気地なしの俺は、なまえに倣うように飲み物に口をつける他なかった。

そうして、どれくらいの時間が流れただろう。

俺たちの間に会話こそなかったが、手を伸ばせば触れられる距離になまえがいることに深い安心を感じた。
いっそこのままずっと喋らずともここにいて欲しいと願った直後、不意になまえの顔がこちらを向く。

何か重大なことを伝えようとしている時特有の顔だ。俺のことを覚えていようが覚えてなかろうが、こういう表情や仕草全てがどうしようもなくなまえで愛おしく感じてしまう。


「…あの、私、」
「すみません、私もご一緒していいですか?」


形のいい唇から心地良い声が発せられた直後、女兵士が割り込んできて舌を打つのを抑えるのに苦労した。
俺の記憶のないなまえの目の前で舌打ちをしようもんなら恐らく自分に向けられたものと勘違いして距離を置かれかねない。

そうしてなまえはあっさりと別のやつに俺の隣の席を譲る。
俺がここで怪しまれずになまえを引き止める理由を持ち合わせている訳もなく、黙って見送るほか無かった。


多少おぼつかない足取りで元いた席にふらふらと戻っていくなまえを見つめる。


「リヴァイ兵長、是非次回の壁外調査では兵長の班へ入れてください」
「…ああ」
「本当ですか?!やったあ!」


いつも研究室で連んでいる同僚の傍に帰って行き、かなり強い酒を手にとるなまえに完全に意識を持って行かれて適当に会話に相槌を打てば目の前の兵士に大袈裟なほどはしゃいだ声を出される。
うるせぇな。今俺はお喋りに付き合っている余裕は無いんだ。

元々酒には強くなくてほとんど飲まないことを知っている。
更に俺が目視した限りでも少なくとも3種類の酒を飲み合わせていてよろしくないことこの上ない。
普段なら絶対にそんな雑な飲み方をしないはずだ。何かなまえの心を乱すようなことがあったのか。


なまえと入れ替わりで座って来た兵士は話し続けているが生憎なにも耳に入っては来ず、ひたすらになまえに注意を向けていると何杯か立て続けに煽った後くたりと細い腕から力が抜けるのが見て取れた。


ごちゃごちゃと細かいことを考えている余裕はなかった。


ガタン、と後ろで俺が座っていた椅子が音を立てて倒れるのが聞こえたが振り返ることも出来ずに一気に距離を詰めてなまえへと近寄る。
俺が到着したギリギリのタイミングで頭が落ち、目の前のそれを慌てて支える。


ゆっくりと振り返ったその瞳は焦点が合っている様には見えず、この華奢な身体に回り切る前にアルコールを抜かなければ危険だと判断してすぐに外に向かう。


足早に外を目指し、人気の無い物陰を見つけて座る。
ここなら誰も来ないだろうから迷惑になることもなまえが気兼ねすることもない。


「吐け」
「…え?」
「自分でやらないなら俺がやる」


言葉の意味が分からないのか状況が飲み込めないのか、またはその両方か。
明らかな戸惑いを見せるなまえにゆっくりと説明をしてやる時間の余裕はなくて、小さな口に一気に指を突っ込めば直後嘔吐を始めた。

酒に酔った奴の嘔吐を手助けするなんざ、他の奴なら死んでもごめんだがなまえの緊急時となれば一切躊躇は無かった。
それどころか自分の腕の中で素直に吐いている姿を見て僅かに征服欲のようなものが満たされるのも感じる。


一通り吐き終わり、苦しそうに息をするなまえを振り向かせて無理やり汚れた顔を拭ってやるが、恐らく嘔吐から来る生理的なものだろうと分かってはいてもその顔が涙で濡れているのが見て取れて条件反射で心臓が痛む。
俺は本当に、こいつの涙にはとことん弱いな。


切ない気持ちに苛まれながらも、テーブルから引ったくってきた水をゆっくりとなまえに飲ませてやる。とにかく今はこいつの介抱が最優先だ。


「…なまえ?」


美味そうに喉を鳴らしながら水を飲んだ直後、全身から力が抜けて俺に体重を預けてきたなまえを不審に思い抱き起こす。
アルコールを出すのが遅く、中毒にでもなって気を失ったのかと嫌な汗が背中に伝ったが、穏やかそうな表情と静かな寝息が聞こえて強張った力を抜く。

吐ききれなかった酒がなまえを強制的に眠らせたんだろう。


息をゆっくりと吐き、なまえを抱きかかえてそっと入り口から食事会の様子を覗きに行く。


眠ってしまったなまえをハンジにでも任せようと当てにしたが既にあいつも酔い潰れて寝ているのが見えた。
その他の目ぼしいなまえの同僚も既に帰ったかハンジ同様酔い潰れているらしい。

少なくとも信頼を置いて酔い潰れたなまえを任せられる奴なんて見当たらなくて、腹を括る。


まさか、こいつにとっては恋人でもなんでもない俺が無断でなまえの部屋に入っていく訳にもいかないだろう。
そうなると残される選択肢は一つだ。


夜も深まって静まり返った道を、なまえを抱えながら自室を目指して歩く。

腕の中で眠るなまえは相変わらず真っ白だが今夜は酒の力も加わっているのか更に青白く月夜が照らす。
少し前までは上気している様に見えた頬もすっかり赤みが抜けて陶器のように透明に透けている様な錯覚を覚えた。


俺の部屋に着き、そっとベッドに降ろす。
その衝撃で微かに身じろぎをしたが、そのまま継続して寝息が続いた。


ベッドの近くに椅子を移動させて、穏やかな寝顔を見つめる。
こうしてなまえの寝顔をまた見られる日が来るとは。希望していた様な状況からは大分異なるが、もう二度と見られないと思っていた光景に静かに満たされるのを感じる。

恋人関係にあった時は俺の部屋やなまえの部屋で夜を共にすることもあった。
比較的寝つきのいいなまえは俺が隣にいてもすぐに眠っていたのを思い出す。
その姿を見ていると心の底から安心して隣にいてくれていると実感出来て、俺もまた安心していられたもんだ。
だからなまえの寝顔を見るのが気に入って、飽きもせずに眺めていたのを思い出す。


何もかもがもう手に入らない日常だと思うとどうしようもなく苦しい。

今目の前になまえの寝顔がある喜びを感じると同時に、しかしこれはまやかしの光景であるという事実が俺を苦しめる。





薄暗い部屋の中、眠り続けるなまえを前に思い返すのは数日前に憲兵団の研究員から持ちかけられた取引だった。


『記憶の戻る薬だと?』


俺の表情が強張ったのは見て取れただろうが、目の前の男はより笑みを深くした。


『はい。既に複数の使用例もおります。効果については折り紙つきです』



冗談でも聞きたく無い類の話だったが、流石に中央憲兵の輩が俺に対してよもやま話をしにわざわざ出向いて来たとは考えにくい。
渡された過去の実例に関する報告書に目を通すが、恐らく全てがでたらめな訳ではないんだろう。

一部効果のなかった症例もいた様だが、一方で効果の見られた例もあるとなると何もしないよりはマシに違いない。

俺の恋人が俺に関してのみ記憶喪失である事実は調査兵団中に知れ渡っていることは認識していたがまさかこんな連中にまで届いていたとは。気分のいい話では無いことは確かだ。

だが、こんな形で手を差し伸べられることもあるとは。
必死こいて巨人を殺しているうちにいつの間にか俺の名前が有名になった様だが、有用な情報が手に入るのであるのならば悪いもんでもない。


『ですが、お渡しするには条件があります』
『なんだ』
『リヴァイ兵長、貴方の肉体を研究させてください』


出された条件は、三日間俺の身体を好き勝手実験して観察の記録を取ることだった。

他の奴らとは乖離のある運動能力を聞きつけて何か肉体に違いがあるのでは無いかというのがこいつらの仮説だった。
開始と終了時に記憶混濁の薬を飲む為俺自身なにをされたのか分からずに始まって終わると言う。
調査兵団へは特殊任務への遂行に数日間協力するとでも理由をつければ問題ない。

マトモならばとても受けられる条件じゃ無いだろう。見ず知らずの汚い連中に好き勝手身体をいじくられておまけに終わった後はなにが起こったのか分からないままこの先の人生を過ごすことになる。こんなに薄気味悪い話もない。

ただ、今回ばかりは話が違った。
ことはなまえの記憶が掛かっている。

俺は本気で、俺のなまえが戻ってくるのであれば悪魔にさえ魂を売ってもいいと思ったんだ。

それほどまでに俺にとってなまえという存在はかけがえのない人間で、気が狂いそうなほど欲してしまう相手だった。


しかし、俺が誓約書に署名をしようとペンを取った時、研究員が言った二次的な反応を聞いて手が止まる。


『忘れている記憶を取り戻す代わりに、その他全ての記憶を失う可能性があります』と。


常々、人間の人格というのはそいつが歩んできた経験や触れてきた情報によって形成されると考える。
それはつまりそいつの記憶そのものだ。

なまえが俺と恋人関係にあったことを思い出す代わりに、自分を育てた親や訓練兵時代の同期、今までの自分の勉学や研究、それら全てを忘れたとして。それは本当に今まで通りのなまえと呼べるのだろうか。

そんな状態はもはや人間の皮を被った抜け殻のようなものなんじゃ無いのか。

その状態のなまえは、本当に俺の愛したなまえなのか。


出口の無い思考に捉えられ目の前が真っ暗になった気がしたが、最終的に俺が誓約書に署名をすることは無かった。


今のなまえは確かに俺の記憶を失ってはいるが、愛しているなまえそのものであることもまた事実だ。

生き生きと自身の研究について語ったり、人が苦手なくせに甘いから押しに弱くて目が離せないところも、一つの物事に没頭するあまり自分自身を蔑ろにしてしまう困った習性も。

俺のことを忘れても尚、何もかもが愛おしいなまえの言動だった。

だからこいつの人格が変わりかねない可能性がある条件を飲むことは出来なかった。仮にそれで一生なまえが俺の元に戻らなくなるとしても、だ。




柄にもなく感傷に浸りながら、改めて目の前で穏やかな寝息を立てるなまえを眺める。

このどうしようもなく愛おしく思うなまえがこの先ずっと俺のことを忘れ続けたまま、いつか他の誰かのものになるかもしれないと考えると気が狂いそうになる。


俺はここまで、命を削って生きてきた。
それは人類の為、自分自身の為、仲間の為。色々とその時々で理由はあったが、これからの俺の命は好きな女のために使いたいと心から願っている。

しかしそんなにも想っているのにも関わらずこの先俺は、この鼓動が続く限りなまえのいない世界で生きていかなければならないのかと思うとゾッとする。

化けの皮を剥いだ下にある、本当の俺に触れてくれたなまえにはもう会うことは出来ないのか。
もうとっくに痛みなんざ忘れたことにした古い傷に涙を落として、癒してくれたなまえを抱きしめることは出来ないのか。


すぐにでも触れられるのに決して触れることの出来ない相手。

そんななまえの静かな寝顔を見られるのは本当に今日で最後かもしれない。

それならば、どうかずっと俺の記憶の中に留めて置けるように。

網膜に焼き付くことを願いながら、朝が来るまで飽きることなく眺めていた。
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