どこまでも続く深い闇。
いくら馬を走らせても出口が見えず、今自分が目を開けているのか閉じているのかも定かでは無くなる。
すぐ近くで信頼の置ける仲間が命を落としていく叫び声が聞こえる。
きっと、次は愛しいあいつの番だ。
助けなくては。俺の命に換えてもあいつだけは。
必死にもがくように暴れても、光が見えることはない。
俺はいつまでこの闇を彷徨うんだ。
ハッと目を開いて、自室の天井が見えて我に返った。
汗で濡れた身体のまま荒い息を整えると徐々に落ち着きが戻って来るのがわかる。
…またこの夢か。
なまえが巨人と接触して意識を失ったのを境にどうやら俺のことだけ綺麗に忘れてしまったと分かってから度々見る、同じ夢。
あの日、なまえの目が覚めたという情報は訓練所にいた俺に早馬で伝えられた。
居ても立ってもいられずに訓練の中断だけ言い捨てると、装備を解く時間も惜しくてとにかく最速で医療棟を目指した。
近くで事務処理でもしていたんだろう。先にハンジが到着してやかましく話していたが、そんなことは気にもならかった。それほどまでに、なまえの目が開いて、喋っている事実が堪らなく嬉しかった。
どうしてもすぐにその体温に触れたくて、声をかける余裕もなくふらふらと近寄って行った俺に向けられた表情と言葉。
まるで知らない奴を見るような怯えた表情と「はじめまして」と辿々しく紡がれた言葉はなまえの目が覚めたと聞いて浮かれていた俺を一瞬で絶望に叩き落とすには十分だった。
ハンジと会話を続けながらも俺が入院中の部屋にいることを不審そうにしているなまえを目の前に、そこに長居することは到底出来なかった。
情けないことに、俺のことを忘れているなまえをあれ以上直視することが耐えられなかった。
すぐに医者へ状況の説明を求めれば困惑しきった顔で稀に起こる症状であると告げられる。
「恐らく、思考に強く抱きすぎて怪我の拍子に記憶がすっぽり抜けてしまった可能性が高い」と。
何かの拍子に思い出す例も少なくないことから積極的に関わってみてはどうかと提案を受けたが、さっきの怯えたような表情を思い出して気が滅入る。
今の俺はあいつにとってただのよく知らない奴で、あいつは自分のことをただの下っ端の兵士だと思っているんだろう。
そんな相手にどうやって近寄れと言うんだ。なまえの性格のことだ、警戒されて挙句に避けられて終わる結末が目に見えている。
なまえの記憶を戻す方法を探ることは急務だが、それより先にやっておくことがあった。
医療棟を出たその足でそのままエルヴィンの部屋へ向かい、現状の説明と共に今後もなまえを壁外調査へは参加させない様釘を刺す。
俺のことを覚えていようがいまいが関係ない。
なまえの記憶はどうであれ、俺にとってのかけがえのない人間である事実は揺るがない。
なまえが壁外に出て命を危うくすることだけはもう絶対に避けなければならない。
そう奴に告げれば、エルヴィンは静かに「それが君の出した結論なんだね」と言って、全面了承を出した。
その後、相変わらずなまえは俺のことを思い出してはいないが、壁外調査へはハンジから上手いこと適当に言って参加させられていない所を見るときちんと抑止力が働いたようだ。
不参加の理由はこれからもハンジがそれらしい理由を見繕えば済む話だ。当面のなまえの命の危険は去った。
しかし、なまえに忘れられた俺は相当荒んで見えたのか、他の兵士は腫れ物に触れるように極力刺激をしないように応対されているのが分かった。
そうされて初めて自分がどんなザマだったか自覚するなんて、俺も相当追い込まれていたらしい。そんな自分にもイラついて、更に周りが怯える見事な悪循環が確立した。
また、俺が本人に何も言わないという姿勢と事実がどうやら無言の箝口令となったのか、なまえに余計なことを言う奴は出てこなかった。
中途半端に記憶をかき乱して混乱させることが上手く作用するとは限らず、逆により強固に脳の奥底に記憶を埋めてしまう可能性もある以上、俺とのことを一方的に伝えることだけは避けたかった。
つまり俺には現時点で打てる手立ては無く、なまえを失った現実と共にただただ生きていく他無くなった訳だ。
何も出来ないくせにうじうじと悪夢を見るような己の脆弱さに吐き気がする。
俺はいつからこんなに弱い人間に成り下がったんだろうか。
なまえが俺を変えたのか。なまえという恋人を得て、俺はより強くありたいと願えるようになったはずだった。
けれどこうもあっけなく最愛のなまえを失ってみて、残ったのは心に空洞を抱えた脆い自分だ。
自分たちの関係を告げることも出来ず、かといってなまえのことを忘れることも出来ず途方に暮れていた折に部下が回覧書類を届けてきた。
一通り目を通してから、次の回覧予定はハンジと記載されているのを見つけて席を立つ。
普段なら部下に持って行かせる用事なのは分かりきっていたが、どうしてもなまえの顔を一目見たくて我慢ができなかった。
研究室に着くと、そこにはいつもの場所でいつものように働くなまえがいた。
親しくなってからもう何度も迎えに来ては、共に出かけたり部屋に行ったりしていたから作業場所は把握していた。
ただ今のこいつにとって俺はあくまでもただの兵士だ。
怯えさせてはいけないから元気な姿を確認してすぐに立ち去ろうと決めていたが、前よりも少し痩せた本人を目の前にするとそんな決意はあっけなく崩れ去り声をかけずにはいられなかった。
俺と一緒だった時は半ば強制的に栄養を摂らせていたから多少なりとも健康的だったというのに。
入院中には他の奴らの見舞いに紛れ込ませて好物の菓子を贈ったが、退院した今となってはそうやって食糧を与えることも出来ない。目立ちすぎて怪しまれて終わるのが目に見えている。
すぐにハンジが姿を見せ、気を利かせたつもりなんだろう。なまえと会話をする機会が出来た。
なまえは自分で行っている研究に一定の自信と責任を持っているから、相手が誰だろうが関係なく分かりやすく丁寧かつ端的に説明を行う。
例えそれがどんな内容であったとしても、2人きりではなくとも、手を伸ばせば触れられる距離で生きているなまえと話が出来て、声が聞けて嬉しいと思ってしまうのを止められなかった。
今すぐにその細い身体を抱きしめて、柔らかい肌の香りを感じることが出来れば、どんなにいいか。
そうすればもう悪夢に襲われることなんてないと断言できる。
喉から手が出るほどに求めて止まない存在に触れられもしない現実に眩暈がした。
どんなに欲しても俺はなまえに触れることなんて出来ずに、惨めに去る他無かった。
それから数日後、広い食堂でやかましく騒ぐ男たちの会話が聞こえて来た。
「なぁ、あのハンジ分隊長のところにいる色白な子は?」
「ハァ?お前知らないのかよ。あの子は手ぇ出したらマズイ」
「でももう別れてんだろ?よく知らないけど」
すぐに、話題に上がっているのがなまえだと分かったが向こうは俺に気がついていないらしい。
最近憲兵団から調査兵団へ移ってきたと言う長髪の男は、内輪で開催を予定されている男女懇親会への参加者を検討してなまえに目を付けたらしい。
懇親会と言えば聞こえはいいが、要は交際に発展もしくは夫婦となる相手を漁る場だ。
以前から調査兵団に所属していて俺とのことを知る奴は止めようとしていたが、新入りはそんなことお構いなしに話を進めている。
別れた、か。
交際関係が維持できていない以上、その表現が間違っているってことは無いんだろう。
俺はこんなにもなまえを求め続けているのに、そうはできなくなってしまった。
壁外調査に行かないよう手を回すことは出来ても、なまえがこれから誰とどのように交際していこうとも止める術も道理も無い。
本当にこのまま俺はなまえを失ってしまうのか。
この出口の見えない絶望の中、何に光を見出して生きればいいのか。
寝ても覚めても闇が迫ってくる現実に、頭がおかしくなりそうだ。