月のよく見える夜だった。


壁外調査を翌日に控えた夜は寝付きが悪い。
神経が昂っているのか知らねぇが、睡魔がなかなか降りてこない。

こんな夜はベッドでじっとしていても無駄なのは経験上知っていたから、眠る事は諦めて部屋を出る。

外に足を向ければ、薄着で出てくるには少し冷える気温だ。
いつの間にか夏が終わろうとしている。


…あいつに、なまえに出会ったのは確か夏の初めだった。
随分と昔の事にも感じるし、ほんの数日前の様な気もする。


明日の壁外調査ではなまえは俺の班に所属させてある。
骨折後初の壁外調査だから俺の目に届く所に置いておいて出来るサポートをしたい。

…いや、本心を言えばもうあいつには壁の外には出て欲しくない。
壁の外に行くという事は常に死ぬリスクを背負っていると言う事だ。
いくら俺がサポートすると言っても限界があるだろう。壁の中にいるのが一番安全だ。


けど俺にあいつの行動を制限する資格は無い。権利が無い。正当化できる理由が、無い。

なまえの安全を願って行動を制限するのは俺の傲慢だ。

…はぁ。

肺の奥から息を出せば白くなって消える。

それを視線で追って上を見れば屋根の上に人影が見えた。

長く黒い髪を風に流しながら、そっと月を見上げる女の影。

一瞬ギョッとするが、目を凝らせばそれが今まで俺の思考を占領していたなまえだと分かってまた一つ息を付く。

眠れないのは俺だけでは無かったらしい。


見つけたからには無視も出来ず、俺も屋根に登る。



屋根の上をコツン、コツンと響く俺の靴音が聴こえない訳が無いのになまえは一向にこちらを振り返ろうとはせずただ月をじっと見上げている。


こちらに背を向けているなまえの表示は見えないが、触れれば割れてしまいそうなほど薄く固い空気が彼女を包んでいるのが分かる。



「…おいなまえよ、何をやっている」

「兵士長ですか……こんばんは」




声をかけてもなまえは振り返ろうとしない。
空気が、冷たい。



「嫌な所見つかっちゃったなぁ」

「何が、……」

「あの、びっくりしないで下さいね。ちょっとした薬の副作用なんで」

「一体なんの話だ、さっきから…………っ!」




こちらを見ようとしないなまえに痺れを切らし、回り込んで顔を覗き込めばなまえの双眼から涙が流れていて言葉を無くす。


何があったんだ、とかどうかしたのか、とか。いくらでも頭の中に言葉は湧いてくるのに声に出すことが出来ない。喉を通るのは乾いた空気だけだ。

何処か痛めているのかとなまえの身体に目を走らせるが、特に外傷はないように見える。


俺に骨を折られた時でさえ見せなかった涙。
痛みのあまり瞳の淵にめいいっぱい溜めてはいたが、決して零す事のなかった雫。
それをいまはただひたすら静かに流している。


驚いて言葉の出ない俺を見て、なまえは涙を流しながら静かに話し出す。



「これは、涙の出なくなる薬の副作用なんです。だから、とても生理的な物で。特に痛いとか悲しいとか無いので、ほんと、気にしないでください」

「涙の出なくなる薬…?」

「……はい。涙を流したくない時間の12時間程前に服用すると、飲んでからしばらくして涙が流れ出します。そこで出し切って、指定の時間には涙が流れないようにするんです」

「なぜ、それを今 お前が飲む」

「……………………見つかっちゃったからには仕方ないですね」



ふぅ、とひとつ溜息をついて、何かに踏ん切りを付けたような顔をしてゆるく笑うなまえ。


何か話す気だと悟った俺は無言のままなまえの隣に腰を下ろす。


なまえは俺が座ったのを見た後、視線を前に戻してから話し始めた。



明日の壁外調査に備えて、薬を飲んだ。自分は非力だから仲間を助けられずに何度も目の前で巨人に大切な仲間を食われた。悲鳴はなんとか手で口を覆って抑え込める。だけど涙だけは抑え込めなかった。どんなに堪えようとしても仲間と共に過ごした楽しかった日々と目の前で生きたまま食われた光景が脳裏にこびり付いて消えずに涙として目から流れ出す。必死に止めようとしても、次は自分の番かもしれないと思って恐怖に身体は震え、更に涙が流れ出てくる。恐怖に涙するなんて、兵士として恥ずかしい。私達は人類の為に命を賭す覚悟があるはずなに。なのに、この止まらない涙は何なんだ。恥ずかしくて仕方ない。怖くて仕方ない。



「だから、この薬を必死になって開発しました。これを飲めば少なくとも壁外調査中には涙は出ません。人前で、無様な泣き顔を晒さなくて済むんです」


まぁ、今日は兵士長に見つかっちゃいましたけど。あんまりにも月が綺麗だったから部屋にいたくなくて出てきちゃいました。もし私が明日死ぬのならこんなに美しい月が私達の世界にあったという事を記憶に染み込ませてから死にたかったんです。



そう言ってふわり、と笑って見せたなまえから視線を外せなくなる。


ただひたすら、美しいと思った。
月夜に照らされたなまえの透明な涙に濡れた顔が夜に溶けて、この世の物とは思えないほど幻想的で美しい。

あぁ、と脳みその端で唐突に理解する。
きっと、俺に死ぬ瞬間が来るのならば、俺の頭に最期に浮かぶのはなまえのこの美しすぎる泣き顔なんだろう。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -