彼はいつもあたしより早く起きる。 「…ん…」 トントン、と小気味いい音に深く沈んでいた意識が手繰り寄せられる。 薄く目を開けばぼんやりと襖の奥に覗く後ろ姿と、先程から嗅覚を擽る美味しそうな匂いに、腹の虫が意識よりも先に目を覚ました。 「……」 「あ、お姉ちゃん起きたの?朝ごはんもう少しでできるよ」 「……」 「今日は早いんだね。もしかして起こしちゃったかな?」 ごめんね、と眉を下げて笑う目の前の人物をじっと見つめる。 首からエプロンを掛けてお玉を持ちながら、あたしをお姉ちゃんと呼ぶこの男はイヴ・ティルムという名のあたしの弟。 …いや、正確に言えば本当の弟ではないのだけれど。 でも戸籍上は立派な弟の座に位置しているわけで。 そして、この戸籍上は弟だけれど本当は他人の弟と、あたしは二人暮らしなんてものをしている。 「…今日あんた当番だったっけ?」 「ううん、違うよ」 「だったら何で…」 「んー…でも早く起きちゃったし、それに気持ち良さそうに寝てるお姉ちゃんを起こすのは気が引けちゃって…」 だったら僕がした方が良いかなって思ったんだ。 そう笑って綺麗に盛り付けられたサラダをテーブルの上に2人分置くイヴ。 その美味しそうな匂いに、またお腹の虫がぐう、と鳴いた。 「ちょっと早いけど…朝ごはんにしようか?スープ温め直してくるから椅子に座って待ってて」 「う…」 何とも盛大に鳴り響いたお腹の音に、イヴがくすりと笑ってテーブルへとあたしを誘う。 恥ずかしさで顔を上げられないあたしは、俯いたままイヴの後ろをついていく。 居たたまれない気持ちに苛まれながらも、丁寧に椅子を引いて待ってくれているイヴのもとへと急いだ。 「あり、がと…」 「どういたしまして。あ、そうだ"ルーシィ"」 「っ…」 突然の名前呼びにびくりと肩が跳ねる。 それはいつも、"あること"をする時にだけ呼ぶ呼び方で。 心臓がさっきよりも物凄い速度で脈を打つ。 段々と速まっていくそれに比例するかのように、頬にもかあ、と熱が灯った。 「まだ、言ってなかったよね…?」 イヴの顔が近づく。瞳の中にあたしが映る。 もう心臓壊れるんじゃないかってくらい高鳴る鼓動に、もはや痛みさえ感じてしまう。 吐息を感じる気配になって、あたしはぎゅっと目を閉じた。 「おはよう、…ルーシィ」 耳のすぐ側で、イヴの声が聞こえて。 次の瞬間、柔らかいものが頬に触れた。 「〜っ!!!」 「ふふ、顔真っ赤だね」 「だっ、だってあんたがっ…あんな、っ」 「何言ってるの、いつものことだよ?おはようと、親愛のキス」 「っだったら無駄に飾り立てないでよっ…!」 ぎゃーぎゃー騒ぐあたしの横でひとり涼しい顔して首を傾げるイヴに、頭が痛くなる。 そう、毎朝。毎朝こうやって挨拶の言葉と共に落とされる頬へのキスに、あたしは未だ慣れることが出来ない。 いや、慣れろという方がどうかしてる! 「あんな耳許で囁く必要なんかないじゃない!あと無駄にゆっくりしたスピードで近寄らないでよ!」 「えー?だって雰囲気作りは大切でしょ?」 「親愛のキスに雰囲気作りも何もないわよ!!」 あんたがそうやって色々余計なオプションをつけるせいで、あたしは毎朝心臓を酷使する羽目になっているというのに。 それなのに、あたしがこうしていくら息巻いても、当の本人は飄々としてるのだからたまったもんじゃない。 「もっとこう…普通にしなさいよ、普通に!」 「普通って例えば?」 「た、例えばその…無駄にゆっくりしないで普通に…」 「その説明じゃ全く分からないんだけど」 「う…だから、その…」 「お姉ちゃん説明下手すぎ。普通を説明してるのに説明文の中に普通って使ったら余計わかんないよ」 「っ、だ、だったらどうすれば良いのよ!普通っていったら普通なんだから仕方ないじゃない!」 はあ、とため息までついて呆れるイヴに、恥ずかしさからムキになるあたし。 じゃあどうすれば良いのよ!と声を荒げると、イヴにがにやりと口角を吊り上げた。 「だったら…実践して見せてよ」 「…え?」 「言葉で伝わらないなら行動で示すしかないでしょ?」 え?え?と青ざめるあたしに、イヴが笑顔を張り付けたまま近づいてくる。 …どうしよう。嫌な予感しかしない。 そのままどんどんイヴとの距離が縮まって。 あと数センチというところで、その動きがピタリと止んだ。 「…どうぞ?」 「っ…!?」 「あ、ひとつ言い忘れてたけど、ルーシィからのキス、まだ終わってないからね」 「なっ…」 「忘れたとは言わさないよ?お互いに毎朝するって、そういう約束だからね」 がっちりと腕を掴んだままにっこりと笑うイヴの笑顔が、怖い。 あはは…と苦笑いを浮かべるあたしにもはや逃げ場は残されてはいないのだろう。 普通にしろ、と喚いていた数分前の自分を恨みたい。 「……」 「ルーシィ」 「っ、せ、めて…目くらい閉じなさいよ」 「え?頬へのキスなのに?」 「………」 「はは、わかったわかった。だからそんなに睨まないでよ」 そんな真っ赤な顔で睨んでも可愛いだけだからさ。 そう耳許で囁かれて、頭が沸騰しそうになる。 「っいいから早く目閉じて…!」 「はいはい、ごめんね。…ん、これでいい?」 「…い、いいわよ」 ごくり、息を飲む。 だって、目の前のイヴが綺麗すぎるから。 元々中性的な顔立ちをしてるとは思っていたけれど。 最近は、その中にも男らしさを感じるようになって。 心臓が、とくん、と甘く響く。 弟にそんな感情を持ってはいけないと、分かってはいるつもりだけど。 そんな境界線なんて、と思う自分もいて。 幼い頃、何も気にせずキスを交わしていたあの頃と同じようにはもういかない。 だから最近こういうのは控えようとしていたのに。 (イヴは弟。弟なんだから…!) 心に沸いた邪心を振り払うように頭を振って、さっさと終わらせてしまおうと、その頬に視線を落とす。 女のあたしでも羨むくらい白く滑らかな肌は、より一層そこへ触れることを躊躇わせて。 それでも、と覚悟を決めて手を伸ばす。 これも、約束だから。 約束なら、守らなければ。 口をきゅっと引き結んで。 震える手をそっと伸ばして頬へと顔を近づける。 指が頬に触れると、ぴくりと身動くイヴに戸惑いながらも、唇を寄せて。 ―――ちゅ。 「…っはい終わり!」 「…短くない?」 「だって、も…無理!!」 そう言って不満気なイヴを力任せに引き剥がして距離を取る。 えー?と口を尖らせるイヴを見ないようにして、もうすっかり冷めてしまった朝ごはんに手を伸ばす。 そんなあたしに、もう何を言っても無駄だと悟ったのかはあ、とひとつため息を吐いて、あたしのスープを手に取って台所へと向かうイヴ。 そんなイヴの様子にほっとしながらサラダにフォークでつつく。 心臓が、壊れるかと思った。 未だにドキドキと音を立てるそこに、そっと手のひらを乗せて深く息を吐く。 ちらりと横目で盗み見見たイヴの背中は、いつのまにか細いけれど頼りがいのあるものへと変わっていて。 そんな彼に、あたしの心臓はまた性懲りもなくその動きを早めるのだった。 やっぱり、このままじゃ。 「…まずいわよね…」 「え?まずかった?」 「っひゃ!い、いいいイヴ!?き、急に声かけないでよ!!!」 「えと…?ご、ごめんね?それより朝ごはん美味しくなかった?」 「へ、え?」 「だってさっき"まずいわよね"って…」 「あっ、ち、違うわよ!さっきのは別のことで…っ、イヴのごはんはすっごく美味しいから!」 しゅん、となるイヴに慌ててそう返すと、安心したのかほっとしたような表情を浮かべて。 温め直してきたのか、美味しそうに湯気が出ているスープをあたしの前に差し出して笑った。 そのスマートさに、くらりと目眩がしそうになる。 「はい。温め直したから、火傷しないようにね」 「あ…ありがとう」 「どういたしまして。…それで?さっきのまずいわよね発言は何のことを指して言ってるの?」 「…っ、別に…あんたには関係ないから」 「ふーん…本当に?」 「本当に!」 「へぇ…そっか…」 「……」 「………」 「…………」 「…ところでさ、急がないとあと30分で出る時間だよ?」 「…え?」 イヴの言葉に時計を目を向けると、その針はいつもの時間を大幅に通り過ぎていて。 サーっと全身から血の気が引いていく。 「はっ…早く言いなさいよ馬鹿イヴー!!!」 まだ着替えてないし、髪だって整えてない。 ご飯なんてのんびり食べてる余裕なんてなく、慌てて部屋へと戻るあたしに、イヴは余裕の笑みで。 「それじゃあ僕風紀委員があるから先に行くね。あ、くれぐれも遅刻しないように。減点になっちゃうからね?」 そんな風に爽やかに笑いながら、片手をひらひらと振りながら玄関へと消えていく薄情な我が弟。 「っ誰のせいだと思ってんのよー!!!!」 全ての元凶である彼に怒りをぶつけるも、静かになったリビングには、あたしの叫び声だけが空しく響くのだった。 おはようのキス (もう絶対にしてなんかやらないんだから!) ――――――――――――――――― 風紀委員設定で書こうとしてたんです。 でも出来上がってみれば風紀委員要素ゼロ← とりあえずせっかく姉弟ってことでやってるんだから二人暮らしでいいじゃないか。 ついでにおはようのキスとか毎朝してればいいじゃないか。 …という妄想からこんなのが産まれました。 出直ししたいとこが多々あるけれど、とりあえずはこんなのどうですかってことで。 次ページ おまけ程度のイヴside ← → |