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…………鹿のジャケット。
その存在を認識した途端、身体がカッと暑くなった。
……何、この感じ。ドキドキとかしちゃって、もう身体全体が脈打ってるようで。
やばいって、おかしいって俺。
頭ではそう制止していたのに気づいたら鹿のジャケットに手を伸ばしていた。
「………鹿…の」
昨日、俺を抱いた男。
気持ちよくしてくれた男。
鹿の匂いの残るベッドに居たとき言い知れぬ感情が溢れた。なんて事をしたんだと絶望感を感じていたけれど、その思いとは裏腹に頭の片隅では
嗅ぎ慣れた匂いに、安堵にも似たような落ち着きを感じていた。
この落ち着きは一体なんなのだろう、と。
「……ん…鹿…」
何も考えず、鹿のジャケットに鼻をくっ付けた。
そこに俺の意思なんかなく、身体が勝手にそうしたんだ。
本能的に求めたその鹿の匂いを肺いっぱいに取り込もうとしたとき、
がちゃ…
「…………」
「…………」
「…………あ…」
楽屋の扉が開いた音で我に返ったが、既に遅し。
はっとしてジャケットから顔をあげればそこには鹿が立っていて、驚いた表情をしていて。
……あぁ…完全に見られた。
「……ぃ…いや…その…」
弁解を、なんて思ったが何を弁解するんだ俺。
完全に鹿のジャケットの匂い嗅いどいて言い訳も何もないじゃないか。
「……ぇ――と……」
「…………」
鹿は未だ黙ったままだし…。俺は顔を附せたまま、鹿のジャケットを元あった場所に戻した。
「……………」
「……………」
長く重たい沈黙。
昨日の今日で、俺は鹿に謝ろうって思っていたのに…こんな会い方してどう切り出せばいいのか、完璧にタイミングを見失った。
でも、このままではだめだ。仕事が上手くいかなくなる。ぎくしゃくしてネタすら出来なくなる。そしてコンビ解散…なんて事は本当に困るから、ここは原因である俺がきちっと謝っておかなくては…。
「………ぁ…」
ほら、頑張れ俺!
「……ぁ、あのさ鹿……」
こんこん、
『あ、すみません〜スタイリストですが〜よろしいですか〜?』
「……あ、はい、お願いします…」
「……あっ鹿…」
今のタイミングで?!というくらいジャストなタイミングでやってきたスタイリストさんによって、俺の決死の謝罪は妨害された。
******
『では収録始めまーす』
あれから、スタイリストが来て次にマネージャーが来て…なんてしていたら鹿と二人きりになる時間なんてなくて結局収録本番を迎えてしまった。
だが幸いにも今日の収録はネタ披露ではなく、バラエティー番組の所謂"雛壇"であったから幾分かは楽だ。
……幾分か、だ。
まだ鹿との誤解、というべきか。まだそれを解いていないし、さっきの鹿のジャケットを嗅いでいた変態姿も見られたまんまだし。
「………」
鹿にはこんなにたくさん言いたい事がある。
のに、それを周りがことごとく邪魔をする。まるで、狙っているかのようにも感じてしまう程に。
『わははは!!』
『それあかんやつじゃないですかあ!!』
収録が始まり、現場が盛り上がり始める。雛壇である芸人の俺達が現場、番組を盛り上げる大切な役目であると言うのに。
「……ははは」
こんな渇いた笑いしか出ない俺は芸人失格だ。
今日は上手く笑えない。笑顔が作れない。
「あははは」
ふと横目で鹿を見れば、楽しそうに笑っている。
透き通るような透明感のある鹿の笑み。きらきらとしている。
でもなんだか遠く離れているようだった。隣にいるのに距離を感じる。こんなこと初めてだ。
(……鹿…)
そんな整った美しい顔を収録中だという事も忘れてしばらく盗み見ていた。
◇◇◇◇◇
『はい、では昼食休憩入りまーす。お疲れ様でしたー!』
前半の収録が終わった。今回の番組の収録時間は結構長いため、途中に昼休みが入る。芸人含め出演者はこの昼休みに一端楽屋に戻り弁当を食べたり、昼寝をしたり…と思い思いに過ごせる自由な時間だ。
前回、昼休みを貰ったとき俺達は次回の為のネタ作りをしていた記憶がある。昼休みを二人で過ごしていた。
だから今回も……これでやっと鹿と話せる、なんて思ったんだ。
だから急いで楽屋に…
『藤田くん、』
雛壇から降り、舞台裏から楽屋に向かおうとしていた所でマネージャーに声を掛けられた。
「、はい…なんですか」
『藤田くん今日具合でも悪い?全然笑えてなかったけど…』
「………」
流石マネージャー。普段一緒にいるだけある。ずばりと痛いとこを突いてきた。
でも鹿とエッチして色々と思い詰めてて笑えません、なんて絶対に、口が裂けても言える訳ないから。
「すいません、…ちょっと頭痛くて…。この休憩でちゃんと薬飲んどくから」
なんて嘘をついた。
マネージャー、ごめん。
心配してくれていたマネージャーに頭を下げて足早に楽屋に向かった。
俺がマネージャーと話していたから一足先に鹿は楽屋に戻ってるはず。
………なんて謝ろう。どう切りだそう。
そんな事ばかり仕事中に考えていた。だから楽しい筈の仕事にも身が入らなくってマネージャーにも心配かけて。
「……鹿…ぁ」
早く話して、早くこんな想い、片付けてしまおう。
……仕事に、差し支える!
「………あ」
自分等の楽屋が見え、もう扉が2、3歩進めばってところだったのに 俺が手を伸ばす前に中から扉が開けられた。
現れたのは、もちろん鹿。
「…鹿……」
「…っし、紫さん」
…なんでそない驚くんや…
過剰なその鹿の反応に眉間にシワを寄せつつも、話を先に進めた。
「……なに、どっか行くん?」
「…ぁ……いえ、別に…」
鹿の手には、財布と携帯。明らかにトイレ等に行く持ち物ではない。鹿は普段財布や携帯を肌身離さず、なんてしないし、楽屋からも出歩く事は少ない。
それで気づいた。
……こいつ、俺を避けているんだと。
そう思ったら凄くショックで、苦しくなった。痛いほど拳を握り締めてて、
気付いたら鹿の胸ぐらを掴んで楽屋に押し返し、畳の上に押し倒していた。
「……っあっあの…」
「…酔ってへんよ」
「……え…」
「…昨日みたいに、誘ったり…俺から挿れたりせぇへんから安心せぇ」
「…紫、さ ん……」
鹿の瞳がぐらっと揺れた。覚えていたんですか、とでも言いそうな眼。
「…思い…出してん…」
鹿とやっと話せた。
そう思ったら、鹿に言いたい事がたくさんたくさん溢れてきて、
その影響なのかなんなのか、俺の眼から液体が零れだして
「……っ、鹿…ごめんな…昨日、めっさ酷い事言うてもうて…。
俺…全部思い出してん。鹿は、俺の事襲ってなんかない。寧ろ襲ったんは、俺なんや。ごめんな、ほんとごめん……
だから……っ、頼むから…俺の事避けんといて」
堤防が決壊したかのようにぼろぼろと溢れてくる涙。それが、眼鏡のレンズに受け止められていく。お陰で視界が歪んで…
「………泣かないで下さい…」
涙の溜まった眼鏡が、鹿の手によってゆっくりと外された。鹿の手付きは優しい。
「……紫さんごめんなさい。僕、弱い男だから…紫さんに何て言われるか怖くて避けてました。紫さんの顔を、どうしても見れなくて…。、きっと疚しい思いがあったからですね…」
疚しいこと。
それは昨日の事、だろうか。
「鹿……でも"俺の意思やから"とか言って押し切ったの俺や。本当…ごめん」
「そんなに謝らないで下さい。僕も…自分を抑えられなかった。心のどこかで やっと願望が叶った、なんて思ってしまいました。だから僕にも大いに責任があるんです。
紫さん…傷つけてしまってごめんなさい」
押し倒されている鹿が、泣きそうな顔でそう言った。
……胸が苦しかった。
鹿の、そんな表情を見るのが、とても 辛かった。
やっぱり鹿には笑っていてほしい。
「………」
……気づけば、いつも鹿は笑って俺の傍にいてくれた。
――辛い仕事も嫌な事があった日も、俺が悩んでいた時にいつも鹿が隣にいて癒してくれた。
それが俺には当たり前のようで、その存在の大きさに全く気付かなくて。
だから、失って初めてわかった。鹿にはすぐ傍にいてほしい、と。
何度も俺を救ってくれたその笑顔が大好きで。隣でいつも笑っていて欲しくて。
そんな大事な笑顔を今、俺のせいで曇らせてるって思ったら自分に腹が立った。
恋愛感情なのか、と言えば首を傾げるが
今高鳴っているこの胸はきっと紛れもなく。
もしかしたら気付かないうちに鹿の事、好きだったのかもしれない。
――でも、それでも、いいよ。ね?
「………泣くな。笑え…」
「…っ紫さ…」