少しずつ返して


「あ、兄貴……」


海を思わせる碧い双眸が真っ直ぐにこちらを射抜いた。彫刻のような美しい顔が眼前にまで近付いて、両頬を男らしく節くれだった手が覆う。まるでキスでもするようなそんな雰囲気に赤くなった。どうしよう、ここはアジトなのに。誰かに見られでもしたら恥ずかしさで死んでしまう。ドキドキとうるさいくらいに心臓が脈打って、おかしくなりそうだ。ああでも兄貴を待たせるなんてそんなこと。覚悟を決めたようにきゅっと目を瞑る。





「合ってねえな」

「……へ?」

期待したものとは違うそれに思わず間の抜けた声が出る。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら呆ける私に盛大なため息をついた兄貴は化粧、とただ一言呟いた。




「ねえ名前、ちょっと今時間あるかい?」

事の始まりはメローネのこの一言だった。
新作コスメを入手したらしく、私にそれをつけて欲しいとのこと。自分で試せば?と言ってみたらもう既にやった後だそうで。

「折角身近に可愛いシニョリーナがいるんだから試さなきゃ損だろ」

そう言われてしまえば悪い気はせず、快く承諾した。


「どう……?」
「ああ、とてもいい仕上がりだ!」

鏡を覗き込む私にメローネが満足気に笑う。目を強調させるように引かれたラインはきゅ、と目尻で上がって猫目に。瞼には少し大人っぽくパープルを乗せて。決め手はぽってり唇に真っ赤なルージュ。自分では使わない色ばかりで少し新鮮だ。けど中々可愛くなるじゃあないか。さすがメローネ。
ついでに普段使えるメイク術も教わった。何故知っているのかについては深くは聞くまい。

「これなら愛しのプロシュートも落ちるんじゃあないか?」
「なっ、?!」

不意打ちで出てきた単語に思わず目を見開けば、にんまりとメローネが笑う。キスのひとつでももらえたりして、からかうようなそれが恥ずかしく、堪らずビンタを喰らわせ部屋を飛び出した。ベネッ!と聞こえたが無視だ。慌てて共有スペースへと逃げたところで兄貴と鉢合わせ、そして冒頭に戻る。



「大方メローネ辺りにやられたんだろうが」
「……だめだった?」
「別に悪くはねえさ。ただ……」

そのままの体勢で兄貴の親指が唇へと触れる。塗られたばかりのルージュが付くこともお構い無しに指の腹でふにふにと弄られ、再度頬に熱が集まった。

「あに、き……あの、」

眉間に皺を寄せながら何か考え込む姿にどうしようかと視線を彷徨わせているとぱっと解放される。と、同時に唇を拭われた。

「名前、そいつ落として俺の部屋で留守番してな」
「え、あ、ちょ、どこ行くの?!」

心の中で思ったら既に行動は、と普段豪語しているだけあって兄貴の動きは早かった。車の鍵片手にいい子で待ってろよマンモーナと言い残してアジトを去っていく。その後ろ姿をただ呆然と見送ることしか出来なかった。



「イケてると思ったのに……」

ちょっぴり濃くてセクシーなメイクは彼の隣に立つ女性のイメージにぴったりだ。だから少し憧れていて、それに近付けたかと思ったのに合っていないだなんて。太鼓判を押されていただけにショックだ。

いつまでも落ち込んでいるわけにはいかないので勿体ないと思いつつ言われた通り化粧を落とす。さすがにすっぴんで兄貴と顔を合わせるなんて死んでしまうので、普段のそれへと戻した。そうして待つこと小一時間。


「遅くなって悪かった」

勢い良く開いた扉が兄貴の帰還を報せる。ソファーで軽くうたた寝を決め込んでいた私は慌てて飛び起きた。おかえりなさいの声が若干上擦る。涎は垂れていないだろうか。

「マンモーナの名前はおねむだったか」
「ご、ごめんなさい」
「待たせた俺も悪いが、男の部屋で寝るもんじゃねえぜ?」

美味そうな餌が転がってたら、食べたくなるだろ。隣に座った兄貴が素早く腰を抱き寄せてそんなことを囁くものだから、途端に体温が急上昇する。顔を合わせられずにいるとくつくつと笑い声が聞こえ、からかわれたのだとわかる。抗議の目を向けようとすればするりと兄貴の指が頬を撫でた。

「ちゃんと言いつけは守ったようだな」

私の顔に先程までの化粧がないことを確認し、満足気に瞳を細めるとご褒美だ、とポケットから小さな紙袋を取り出した。なんだろうと思って見ると、有名ブランドのロゴマークが目に入る。ぎょっとなって固まる私のことなんてまるで気にせず、包装を取り払っていく兄貴。中から出てきたのは淡いオレンジのルージュとそれに合わせたグロスだった。

「お前にはこれぐらいの色の方がいい」

く、と顎を掬いとられ、器用に唇が彩られていく。派手すぎず、かといって地味にならないその色合いは、普段しているメイクによく合っていて。
渡された鏡で仕上がりを確認すれば、どうだと言わんばかりの表情をした兄貴が映る。

「ありがとう、兄貴。大事にする」
「気に入ってもらえたようで何よりだ」

再度指が頬を滑り、流れるように唇が合わせられる。思わず声をあげたが、くぐもったものにしかならなかった。


「う、あ、あに、き」
「本当はこれが欲しかったくせに、なあ?」

男が口紅を贈る意味くらいわかってんだろ。吐息混じりに囁き、指が背筋をなぞりあげる。やばい、そう感じた時にはもう遅かった。そのままソファーへと押し倒され、抵抗する術もなく再び口を塞がれる。

少しずつ返して


「覚悟しろよ、シニョリーナ」

つけたルージュが、妖しく口角を釣り上げた兄貴の唇へと移っていた。
2019.09.05
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