BlackOut

02.願い




市香が入院しているのはセキュリティが万全である最上階の一室だった。
限られたスタッフしか立ち入りを許されず、
彼女がどういう状態にあるのか知っている人間も数えるほど。

特にアドニスがどう動いてくるか読めない現状を考え
市香が一命を取り留めたことは極秘事項として、
警察上層部と契と吉成を含む探偵事務所の人間しか知らされていない。

いくつかの証明を終えて漸く辿り着いた最上階には人の姿がなく。
音のない長い廊下は病院というより研究所のよう。
至る所に取り付けられた防犯カメラからの視線を居心地悪く思いながら進んだ先、
「あ、先輩!こっちですよ!」と手招きをする一つの影が見えた。


「吉成君。ごめんね、いきなり護衛頼んじゃって」
「いや、それは良いんッスけど…未だに俺、状況が掴めなくて」
「あーうん…落ち着いたら、ちゃんと説明するよ。
とりあえず、後のことは俺たちに任せて。吉成君は一旦戻ってゆっくり休んで」


吉成は深刻な表情の2人をそれぞれ見遣って何かを察したらしい。
「分かりました。少し離れますけど、何かあったらすぐ呼んでください」と
いつもより重い口調で言って去っていき、
彼の足音が聞こえなくなると再び辺りは沈黙に包まれる。
目の前の扉の向こうに市香がいるという実感も薄い中、
「行くか…」という愛時の声に頷いて、扉をノックした。

市香からの返事もないまま、扉を開けて中に入ると
枕元の灯りがぼんやり浮かび上がるだけの空間に息をのむ。
まるで時が止まっているかのようなそこは足を踏み入れるだけで空気が大きく揺れた。
そして、それが彼女の睫毛を震わせたみたいに
「ん…っ」と愚図るような声とともに重たい瞼が開かれる。


「星野、目が覚めたんだな」


すぐに反応できなかった契に代わって声を上げたのは愛時だった。
その言葉を聞いて漸く現実を理解した契は愛時に遅れて彼女に歩み寄ると
「良かった…」と安堵交じりに呟く。

対して、目覚めたばかりの市香は自分の置かれている状況が飲み込めないらしい。
薄暗い病室を見回していたかと思えば
困惑の滲んだ眼差しを2人に向けたまま身体を起こそうとする。
しかし、すぐに足に痛みが触れたようで戸惑いの色を濃くした。


「まぁ落ち着け。ここは病院だ。もう何も心配することはない」


安心付けるための愛時の言葉もあまり意味はなく。
病院という言葉に眉を顰める市香に契と愛時が
揃ってどこから説明しようか頭を悩ませていると
「お2人は警察の方ですか?」そんな疑問が落ちる音がした。
ビー玉が落ちて転がるみたいに小さなそれは置き去りに契は市香に近付いて
「市香ちゃん、俺のこと分かるよね?」と僅かな希望をもって尋ねる。
けれど、彼女は怯えを見せて頭を振るばかり。


「星野。お前自身のことはどこまで理解している?」
「自分のことは勿論分かっています…
だけど、私に今何が起こっているのか分からなくて」


目が覚めると病院のベッドの上にいて、身体は怠く足は痛い。
契の胸元に光るバッジから2人が警察官であると予想したものの
どうしてこんなことになっているのか心当たりがないらしく、その表情は不安げ。
そんな市香は事情聴取中の菅原里香の姿に重なり、行き着く結論は記憶喪失。
菅原だけでなく、X-Day事件の容疑者は事情聴取になると決まって
アドニスとそれに関わる出来事を失ってしまう。それが市香にも起こったということ。
契は今まで重ねてきたものが崩れゆく音に耳を塞ぎ、逃げるように病室を出た。



「岡崎、お前はこれからどうするつもりだ?」


それから一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
病室を出てすぐ目の前のベンチに腰掛け、途方に暮れていた契を現実に引き戻した声は
労りもないまま答えを急かしてくるから「厳しいなぁ」と独りごちる。
市香を傷付けたことを根に持っているのだろうかと考えてみたけれど
愛時は契に対していつもこんな調子だった気がして
余程、今の自分は弱っているのかもしれないと思い知る。
そんな契は愛時の問いについて考える余裕もないまま
「市香ちゃんはどうしてるの?」なんて当たり障りのない疑問で誤魔化してしまう。


「…まだ身体が怠いらしく少し休むそうだ。一応、俺たちのことやアドニスのこと、
首輪についても話したが全く思い当たる節がないらしい」
「そっか…」
「毒の影響も足の怪我も様子を見たほうが良いからな。暫く入院になることは伝えた。
何よりアドニスが再び星野に接触する可能性も考えて、ここにいたほうが安全だろう」
「それで市香ちゃんは納得したの?」
「弟が心配、仕事があると言ってきかなくてな。なかなか、苦労した」


その言葉通り疲れた表情で肩を竦める愛時に契の口元が僅かに緩む。
短い付き合いではあるが彼女の頑固さは契のそれと肩を並べるほどだ。
記憶はなくなれど、市香は市香であるのだと少しだけ安堵した契は
ベンチに沈めていた身体を漸く起こした。


「やっぱり、俺は市香ちゃんに失った記憶を思い出してもらいたい」


方法なんて分からないけれど、このまま終わらせるつもりはなかった。
対する愛時は記憶を失った彼女を見て、
事件に関わらせるべきではないという思いを一層強くしたはずで
きっとそれは正しいのかもしれない。

けれど、契はどうしても譲れなかった。
それは市香が傍にいてくれたら生きたいと思えるからという理由だけでなく
新宿の平穏を願う市香の想いが消えたことを受け入れるわけにはいかなかったからだ。
そのため、愛時の次の言葉を妙に力んで待ち構えていたのだが
彼は特に気を張ることもなく「そうか…」と呟いたきり。
何かを考え巡らせていたかと思えば契の肩を軽く叩いた。


「あまり星野に無理をさせるなよ。アドニスの動きも分からない上、
X-dayまで日にちもない。俺たちも全力でサポートするつもりだ」
「え…いいの?さっきはあんなに反対してたのに」
「あぁ、だからさっきも言っただろう。星野の意見を尊重する、と」


それはまるで自分の想いを押し込めて、市香の願いを叶えるような物言い。
自分がいない間に愛時と市香の間で何かやり取りがあったのだろうかと考えたなら
どうしようもなく気になって「どういうこと?」と真っ直ぐな瞳で問うてみる。
契の諦めの悪さを知っているからだろうか、
あまり言いたくなさそうにしていた愛時だったが仕方ないといった風に息を吐き、
「…忘れたことを思い出したい。それが星野の望みだ」と市香の想いを教えてくれた。


「市香ちゃんが?本当にそう言ったの?」
「あぁ…何も分からないまま終わりたくないという気持ちも分からないでもないが
あまりに考えなしでの即決に、星野らしくて何を言う気にもなれなかった」


以前から愛時は市香の考えや想いを大事にしているようだったが、今回も相変わらず。
それをいつも通りだと安堵する一方で、彼の優しさを脅威に感じ始める自分がいた。
もう二度と市香を失いたくない、そう思うほど
彼女に関わることなら些細なことでも気になって。苦しい。


「とはいえ、いきなり動き出すのは危険だ。
暫くは星野が意識を取り戻したことも内密にすべきだろう。
それと、事件についてもあまり混乱させないよう急ぎ過ぎないほうが良い。
まずは俺たちのことを信用してもらわないことには話は進まないからな」


愛時の話に納得はしたものの、どのくらいのペースで進んでいくべきか
その難しさに引き攣る頬を掻く契に「あぁそれと。星野に早いうち謝っておけよ」と
投げ掛けられた言葉が指すのは市香の足に負わせた傷のことだろう。
彼女の想いを信じられなかったことも、敵とみなし攻撃したことも、
死にそうな目にあった末に記憶喪失にさせてしまったことも、
謝りたいことは沢山あったけど今の市香に全て伝えきれないことがもどかしい。

契はいつか全てを思い出した市香に謝りたいと考える。
例え、思い出した先で拒絶されたとしても追いかけて、その手を掴むから。
怒りでも悲しみでも何でも聞くから、だから今度こそ逃げないでほしいと願うのだった。







To be continued...


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