回帰

     リンゴヒメ 4



深い深い眠りに堕ちていたかのように意識が浮上するまで時間を有し、
現実に馴染まない身体は怠く、瞼を開けるのも億劫に感じる。
もう暫く夢の中に浸っていようかとも思ったが
懐かしい声に名前を呼ばれ、暗闇の中に柔らかな光が灯ると
躊躇いなんてなかったかのように、すんなり目を覚ますことができた。

導かれた先にあったのは自分の知らない世界だった。
心を揺らす存在、現実離れした空間、知らない世界に馴染んだ自分、
それらに酷く混乱してしまう。

取り込まれる前に逃げ出さなければと思うのに
自分を婚約者だと言った男の悲痛な訴えに罪悪感のようなものが込み上げて。
彼を残して帰ることを躊躇いそうになる。


「さっき、婚約者だって言っていましたけど…どういうことなんですか?」


月明かりがぼんやり灯っただけの暗すぎる窓の外を見遣って、
少しだけならと腰を据えた芽衣は、先程よりも冷静に疑問をぶつけた。
すると、彼は琥珀色の瞳を悲しみで揺らしながらも
気丈に笑みを浮かべて「長い話になるが、聞いてくれるかい?」と
まるでお伽噺をするような調子で言うから、芽衣は静かに頷く。

ある満月の夜に、から始まるそれは明治に生きる男女の物語。
男は森鴎外、女は記憶喪失の少女として語られる
鹿鳴館での運命的な出会いとそこから紡がれる甘く切ない情事。
その結末は少女が失っていた記憶を取り戻し、
代償に、男との甘い日々を忘れてしまったという悲しいもの。

とても他人事とは思えない物語にじわりと涙を浮かべれば
語り部は困ったように笑んで、目元を拭ってくれる。
そして「これが僕とお前の物語だよ」と言うのだ。


「え、と…だいぶ脚色されていますよね?」
「いいや、全て真実だ。何も思い出さないかい?」
「思い出すも何も…私のことをからかっているんですか?」


自分が記憶喪失であったことも信じがたい話だというのに
森鴎外だとか鹿鳴館だとか、教科書で見掛けた言葉まで登場されては
どこから突っ込んだらいいのか分からなくなる。

ドッキリに仕掛けられているのなら早くネタばらしをしてもらいところだが
自らを森鴎外と名乗った男は「どうしたら信じてもらえるのだ」と
困り顔に悲しみを滲ませて呟くから、笑い飛ばすこともできず。

芽衣はやはり一度家に帰りたいなと考え、窓の外に視線を投げた。
周囲に何もないのか建物の明かり一つ見えず。車が通る音一つも聞こえない。
ここはどこで、近くにバス停や駅はあるのか尋ねたいところだが
芽衣が帰ることを快く思わないであろう鴎外のことを考えると、躊躇う。

では自宅に電話をしてみよう、と
妙案を思いついたような調子で瞳を輝かせた芽衣だったが
電話を貸してもらえるよう頼もうとしたところで、
鴎外の人差し指が唇に触れる。


「すまないが、少し時間をくれないかい?」
「っ、でも」
「冷静になりたいのだよ…
このままでは、お前を帰したくないあまり何をするか分からない」


諭されているのか、脅されているのか。
どちらにしても、肯定以外の言葉は芽衣のためにならないことは分かる。
納得はしていないが、空気を読んで素直に頷けば
鴎外は外にいるから何かあれば声を掛けてくれと言って、足早に部屋を出て行く。

その後ろ姿が多くの感情を背負った危ういものに見え、少し心配になる。
部屋の外に見える暗闇が鴎外を飲み込み、ドアが閉まってからも
芽衣は彼の気配を追っていたが、離れて行く様子はなく。
言っていた通り、廊下で頭を冷やしているのだろう。

二人を隔てた壁が迫ってくるような居心地の悪さを感じて、
好き勝手に動き回ることもできなくなった芽衣は
まだ何となく重たい身体をベッドに横たえる。

これから夜は益々濃くなってくだろうというのに眠気は全くない。
それでも、このまま目を閉じているうちに朝が来て
いつもと同じ日常に戻っていれば良いと夢を見る。

例え、戻った先が平凡で退屈で、窮屈な日々でも
そこが自分の生きるべき世界なのだから。






End



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