気色描ク硝子窓
春草×芽衣
明治残留ED


夜を切り取った大きな窓が飾られたサンルームで
鴎外から借りた分厚い本を両手に握り、
そこから動く気がないとばかりにソファに身を沈めている芽衣だったが
その意識はすっかり本の中に取り込まれていた。

いつもならベッドに入る時間を指す柱時計も
口を付けられぬまま、冷めてしまった煎茶も
気に留められることなく、夜は更けていくと思われた。


「ねぇ。俺の声、聞こえてる?」


頭の上から降ってきた声が本に並んだ文字を滲ませる。
同じくして、頭に描いていた世界が歪んだため驚いてしまったが
意識がすぐに現実へ戻ることはなく。
暫く本から顔を上げずにいた芽衣だったが
再度聞こえてきた声が不機嫌そうなものであり
もしかすると何度も声を掛けられていたのではないかと気付いたなら
腕を強い力で引かれたような衝撃で、現実に戻ってくる。

そして、勢いだけで顔を上げれば存外近くに春草の顰め面があって驚いた。


「あ。えと、私に何か御用が?」
「あるよ…だから、さっきから何度も呼んでる」
「すみません。つい、夢中になってしまって」


読書を邪魔されたこちらも不満を言う権利くらいあるとは思うが
だからといって、人を無視して良いわけがないなどと
不満が倍になって返ってきそうであったために口を噤む。

唯でさえ、何か一つに囚われると周りが見えなくなり危なっかしいと
普段から注意を受けているのだ。
まだ何か言いたげな春草の眼差しと居た堪れない空気を誤魔化すように
起承転結でいう転のページに栞を挟んで本を閉じた芽衣は
これで一区切りつけたとし「それで用というのは?」と本題に入るよう促した。


「あぁ、そうだった。君、ここら辺でウサギを見なかった?」
「ウサギって、もしかして化ノ神ですか?」
「そう」


話が早くて助かると息を吐く一方で、その瞳は悲しげであった。
思えば、先程からの会話も言葉少なで弾みがなかった気がする。
最近、絵を描くために自室に籠りがちであったことからも
きっと思い入れのあるウサギだったのだろう。

残念ながら本に夢中になっていた芽衣はウサギに気付かなかったし
サンルームをぐるりと見回したところで簡単に見つかるわけもない。


「その様子だと、見てないみたいだね」
「はい。残念ながら…」


これでは何のための魂依だと情けないやら申し訳ないやらで
落ち込んでしまう芽衣に対し、春草はふっと口元を緩めたかと思えば
「君が気に病むことじゃないよ」と、悠長にも芽衣の隣に腰を下ろす。
すっかり諦めてしまった様子に戸惑った芽衣が瞬きを繰り返せば
彼は続けて「戻って来る、来ないは物の怪の勝手だし」なんてことを言う。

物の怪が見えない人間からしたら、当然の見解なのだろう。
魂依である芽衣はすぐにでも探しに行きたいと思っているが
春草がそれをあまり望んでいないように見えて、
やはり考え方が違うのだろうかと芽衣を悩ませる。


「今まで戻ってこなかった化ノ神もいたんですよね?」
「まぁね。鳥や蝶なんかは、戻ってこないことが多いよ」
「空を飛んで行ってしまうってことですか?」
「物の怪に空を飛ぶとかいう概念があるなら、そうなんじゃない?
空を飛んで自由を知ったら、戻りたくなくなる気持ちも分からなくないし」


前々から思っていたが、春草は諦観的すぎる。
画家モードになっているときは別として、
何かに夢中になったり、執着することがあるのだろうか。

ちらりと春草を盗み見れば、既に彼の興味はテーブルの上の煎茶に向いている。
しかし、それも冷めていると分かった瞬間、
どうでも良いものになってしまったらしい。

気持ちの切り替えが早いのは結構だが
そのせいで大事なものを失ってはいないかと
一見器用に見えて、不器用な彼の生き方が心配になる。


「探しましょう!」
「は?」
「ウサギです!まだ近くにいるなら、人参で誘き出せるかもしれません」


任せてくださいと意気込んで立ち上がるも
「ちょっと待ちなよ」そんな言葉が目の前に立ち塞がる。
声より少し遅れて、視界に飛び込んできた春草は動揺しているようで
いつもの冷静沈着な彼らしからぬ様子に
夜闇を射抜かんと鋭く細めた琥珀色の瞳は、驚き見開かれた。


「探してくれるのは有難いけど、今何時だと思ってるの?」
「大丈夫です。今夜は家の周りを探すだけにしておきますから」
「それにしたって、月も出てない暗夜にどうやって探すつもり?
ほんと、君って…向こう見ずで危なっかしいよね」
「すぐに諦めてしまう春草さんもどうかと思います」


勢い任せにずっと思っていたことが口に出て、
言い返してやったとばかりの清々しい表情とは裏腹に、
内心は不味いことを言ってしまっただろうかと頭を抱えていた。

そして、きっと何倍にもなって返ってくるであろう
春草の言葉を覚悟していたのだけれど
彼は虚を衝かれたと驚いた顔を見せたのち、
弾かれたように笑い出すから、今度は芽衣が驚く番だ。


「あの…春草さん?」
「ははっ。いや、だって…
君、俺が何もかも諦めてるみたいな言い方をするから」
「違うんですか?」
「違うよ。少なくとも、君に関しては何一つ諦める気なんてないし」
「え…?」
「まぁ、君は鴎外さんと一緒にいたほうが
幸せになれるんじゃないかって考えたこともあったけど…
それでも、諦められなかった。俺はそういう人間だよ」


そういう人間と言われても、春草の心根は全く掴めない。
ただ、そっぽを向いてしまった彼の横顔は
自分の心の内を知ってもらいたいのに、
知られることを怖がっているように見えて。
ふと、鹿鳴館で美人コンテストが行われた夜を思い起こさせた。


「つまり…ウサギを諦めていないってことですか?」
「は?うん。まぁ、そうなんだけど…
今、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「はぁ…?」
「あ〜、もう。何で分からないかな」


芽衣は少し、本当にほんの少しだけ、人より鈍感であることを自覚していた。
そのため、溜息交じりに頭を抱えてしまった春草に対し、
呆れられてしまっただろうかと不安になったのだが
俯いた彼の顔を覗き込んだところ、存外鋭い眼差しがそこにあって驚いた。

何かを決意した翡翠色の瞳から目を逸らすことができぬまま
尻込みしてしまう芽衣に対し、春草は逃げないようにとその腕を掴み
些か緊張を滲ませて口を開く。


「俺にとって、一番大事なのは芽衣なんだ。
君はすぐ調子にのって、後先考えず面倒事に巻き込まれにいくから。
これから先、魂依の力を多用して無茶するんじゃないかって気が気じゃない」
「え、と…身の程を弁えているので、大丈夫ですよ?」
「そうかな?君を見ていると、
俺の想いが正確に伝わっているのかも怪しく思えるけど…
本当。頼りない君を、額縁の中に閉じ込めておけたら良いのに」


まるで影のように後ろを付いてきた本音に芽衣が驚いた顔を見せると
春草は我に返ったらしい。「ごめん。忘れて」そんな言葉ののちに
掴んだ腕を解いて逃げ出そうとするから
なんて勝手な人だろうと表情を曇らせた芽衣は
負けじと、春草の胸に飛び込んでしがみ付いた。


「っ、ちょっと。いきなり、何?」
「私はずっと春草さんの傍にいますから。
どこに行ったとしても、必ず春草さんのところに戻ってきます」


その言葉に、春草はびくりと身体を震わせたかと思えば
芽衣の背中に手を伸ばし、撫でるように動かす。
まるでそこに何もないことを確かめるようで
くすぐったくて頬を緩めると、今度はぎゅっと強く抱き締められた。


「信用していないわけじゃないけど…
君に翼が付いていなくて良かったって思うよ」
「え…」
「俺が追いかけるのは君だけなんだから。
その自覚を持って、あんまり遠くへ行かないでもらいたいんだけど」
「はい」


こくりと頷いて、春草の肩越しに見た窓の外の景色は
いつの間にか雲が晴れたらしく、満月に照らされ幾分明るくなっていた。
その中に、庭を駆け回るウサギの姿が見えたような気がしたが
芽衣は追いかけようとは思わなかった。








End




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