#01 悪魔と契約


誰かが追ってくる。
怖い………逃げなきゃ!
ヒールじゃうまく走れなくて、途中脱ぎ捨てて裸足のままアスファルトの上を夢中で走った。
足の裏が切れて痛い。でも捕まればこの身が危ない。立ち止まる訳にもいかず何も見えない暗闇の中、どこに向かっているのかも分からないまま、ただひたすらに逃げた。
走り過ぎて、肺が痛くなってきた頃……幸いなことに、もう"それ"が追ってくる気配が無くなった。
もうここまで来れば──と、少し休むことにしたその瞬間、足元の石につまずきバランスを崩した。
『あっ……、』という小さな悲鳴は、ドスッと顔面からぶつかった、大きな何かに吸いとられた。
『もう、大丈夫ですよ』
どうやらその親切な人が抱きとめ助けてくれたようで、胸元には私のリップが……
助けてもらったのに、シャツ汚しちゃった……謝らなきゃ!

強く打った顔を擦りながら、

私は、ぼんやりと目をあけた──


───あったかくて、いいにおい

夢と現の狭間で私は、その気持ちいい素肌の胸板に頬擦りをした……ところでハッ!と飛び起きた。
目の前には上半身裸の男性。メガネがないので恐る恐る近づき顔を覗き込むと、まさかのエレン・イェーガー。
まさか隣にいるのが夫ではないなんて!!
これまで生きてきた中で、経験したことがないくらい一気に心拍数が上がった。
ドッ、ドッと飛び出てきそうなくらいに脈打つ心臓。
落ち着けと冷静を促すも土台無理な話で。
辛うじて彼は寝ているから、その隙にここを出なきゃ……!
先ずはメガネ!
ぼやける視界の中手探りで血眼になって探していると「探し物、これですか?」と掠れ声のイェーガー君が手渡してくれた。
「あ、どうも。いや、そうでなくて……お、起きてたの?!」
慌ててメガネをかけて、状況を確認した。
誰かの部屋。床には自分が飲み会で着ていた服と、夢でみた私の赤いリップが付いた男性物のシャツ、半裸のエレン・イェーガーと、そして素っ裸の私──
「これは一体……!?」
慌てて掛け布団を手繰り寄せ胸元を押さえると、それまで隠れて見えてなかった彼の下半身が露出して、初めて彼が全裸だと知った。
「あなた!なんて格好してんのよッ!」
掛け布団を奪ったまま、咄嗟に背を向ける。
「……あの、もしかして覚えてないんですか?昨日のこと」
「き、昨日のこと……?」
昨日は飲み会で、そのあとラーメン行って、話し込んでるうちに、もう一件バーに行ったような……いや、分からない……てか、何でこんなところにいるの?たしかに昨日は飲み過ぎて色々喋ってしまったことは少し覚えてるけど……。そんなことより、帰らなきゃ!今何時なの?
ふと、枕元を見ると開封済みの避妊具の袋が転がっている───
「……ナニ?これ……」
思考が停止した。
男と女が裸でベッドでこれを使う行為を、私と彼がしたというの?
まさか、──私が?
全く記憶がなくて、信じられない。信じたくない。
でもこんな状況で何もなかったと言った方が、説得力ないだろう……
「僕、誰にも言いませんから。まさかあのコールマンさんから、僕を誘うだなんて……それくらい、追い詰められて苦しんでいたってことですよね。不謹慎かもしれないけど……正直、貴女と二人の秘密ができて、僕は嬉しかったりします。それより身体、大丈夫ですか?かなり無理させたみたいだったから……」
この世の終わりといった顔で固まっていた私に追い討ちをかける彼。
どういう成り行きでこうなったの?
本当に私から誘ったのであれば大問題だ。
無関係の独身男性誘って、自ら不貞を働きかけるとか、言語道断。
「……ごめんなさい……」
震える細い手で、隠しきれない幾つもの"アザ"が残る自分の体を抱き締めた。
全て、夫からの暴力の"跡"。
……こんな醜い身体に無理に触れさせてしまったというの?──
私は何てことを……
謝っても謝りきれない。
メガネの下に手を入れて溢れる涙を拭っていると、後ろから彼が強く抱きしめてきた。
「泣かないで……。そのまま聞いて」
後ろから私の首筋に唇をぴたりと付け、彼は淡々と話し始めた。
「俺、貴女とこういう関係になれて、本当に嬉しいんです。いつも怒られてばっかだったけど、実はコールマンさんのこと前からいいなって思ってたんですから。だから、だからこそ、俺は貴女の心と体をこんなに傷付けた男が許せない。今日、さっそく警察に行きましょう。これは立派な傷害事件です」
「ちょっと待って。そんな急には……」
「…………分かりました。じゃあ、取り引きをしましょう。このこと、僕は通報せずに黙っておきます。そのかわり、こうしてまた僕と二人で会ってください」

イェーガー君は、それ以外の選択肢を与えてくれなかった。
自分から彼を巻き込んでしまった手前、拒否することもできず……

私は、

悪魔と契約を交わしてしまった──


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