30.『髪』


『君の髪はシルクの様に滑らかで綺麗だ』




オリヴィエはいつも私の髪を綺麗だと言ってくれた

私の真っ黒い髪を、似ても似つかないシルクのようだと―――





切り落とされ、床に散らばる射干玉の長い髪を見て思い起こすのは、髪を愛でてくれたオリヴィエのこと。




『いつかお金に困った時は、この髪を売れば少しはお金になるかしら?』

『君の美しい髪を生活の糧になんて売ってたまるものか。それに、そんな時は来ないよ。僕が頑張って働くから大丈夫』




毎度、私が冗談を言っても本気で言い返してくる、真面目な貴方。
貴方が居なくなってしまった日から、想いを果たすその時まではと貴方の好きだった髪を願掛けで伸ばし続けて、もうこんなに長くなってしまった。

生きるのに疲れた時や、つらい時、この髪を見る度思い出される暖かい日々に何度助けられたことだろうと感慨に浸りながら、この日のために研いでおいたナイフで最後の一束を根元から大胆に切り落としていく。
同時に、自分を奮い立たせ、ここに来た目的に今一度立ち返る。




―――やっと、この時が来た


切り離したこの髪は、あの頃の私自身


これでもう、今の私には何もない


心置き無く闘える―――




髪を切っただけなのに、まるで御祓払いしたかのように心がすっきりしている。
かなりの長さであっただけに、頭も軽くなった。
邪魔だから髪を切れと言っていたリヴァイ兵長も、これで髪に関しては何も言えないだろうと思いながらナイフに付いた髪の毛を取ろうとした時、刃を掠めて指が切れた。
じわりと出る鮮血が見えて、指を咥え舐めれば――その血の味があの夜の記憶と感触を呼び覚ます。

諜報活動をしていると勘違いされ、糾弾されると思いきや、彼の逆鱗に触れたのはそれとは全くの別のことだった。
そういえば何故エルヴィン団長に会っていたのが分かったのだろう。
微かに香っていたエルヴィン団長の香油が私に移っていたのか、疑うとしたらそこしか無い。

そしてリヴァイ兵長はかなり憤慨していたから、てっきり凌辱されるものと覚悟した。
でも、そこで問題なのは自分の中に芽生えた彼への想い、そのせいで彼から酷いことをされるかもしれないということに対しての畏怖が全く無かった。
寧ろ彼から触れてもらえることが嬉しかった。
まだ乱暴に扱われ犯されるのであれば、もっと何か形だけでも抵抗できただろう。
それなのに、実際はその真逆、まるで恋人でも抱くかのように優しく官能的に触れてくる彼に心が大きく揺れた。
あんなに切なそうな声で何度も名前を呼ばれたら、もう―――
私にはオリヴィエがいるというのに、あろうことか彼から触れられることに心と身体が悦びを感じていた。
そんな自分を、私はこんなにふしだらな女だったのかと罪悪感と背徳感に苛まれ、もう消えてしまいたいと思った。
だけど…………


……リヴァイ兵長は、私のことをどう思っているの?……


鏡に映る、短髪になった自分を見つめながら誰にともなく問い掛ける。


しかし、ひどい髪型だ。
ハサミを持ってなくて、ナイフで大雑把に切ったものだから、長く残ったのもあれば短か過ぎるくらい切れている所もある。
きちんと切るにしても前ならともかく、後ろは一人では切れないし、誰かに整えて切ってもらわなくては。

ナイフを革製のケースに入れ、新聞紙と手鏡を持って部屋を出ようドアをそっと開けた瞬間、ノックをしようとしたのか片手を少し上げたまま青い目を見開いているエルヴィンが立っていた。



「エ、エルヴィン団長?!」

「驚いた、アサギ、その髪型…………」

「私も驚きました、いきなりエルヴィン団長いるんですもの」

「いや、すまない。ちょうど用があって来たんだ。それにしても髪、思いきったな。絹のように綺麗な髪だったのに」

「絹…………。いいんです髪なんて。洗うのも、毎日結ぶの大変でしたから。それに立体起動装置に引っ掛かったりしたら洒落にならないですしね―――頑張って切ったんですけど、もしかして似合ってないですか?」

「ん?あぁ、そんなことはないさ。今のでも、とてもワイルドで素敵だ。だが少し整髪したらもっと良くなるかもしれないな。今は、何と言うか……少しワイルドが過ぎると言うかだな、その、」



一生懸命この変な髪型を誉めようとしてくれているエルヴィンに、無理に誉めなくてもいいですよと笑って答えた。
何だかこの人、オリヴィエに似ている所があって不意に昔の感覚に戻される瞬間があるから油断できないと、笑みの裏では笑っていなかったけれど。



「そういえば。用って何ですか?」

「あぁ。壁外偵察のことだが、ハンジから医務班として君を同行させたいと申し出があって今回参加を承認したが、もし参加することに異議があれば言ってくれないか」

「異議?あるわけないじゃないですか。ハンジさんには、ここに来る前薬剤師の助手をしてたことを話していたんです。彼女は私が壁外遠征に参加したいことも知っているので、壁外偵察にもと推薦してくださったのでしょう。資格などはないのですが、知識と経験は積んできたつもりです。団長がそれを否定的に捉え私を外すという決定を下すのであればそれに従いますが。所詮は薬師の真似事ですので」

「いや、調査兵団には新たに医療従事者を雇う予算的余裕がないから、私としては願ってもないことだ。ただ、壁外に行くとなると死のリスクが伴う。その辺の覚悟は……」



アサギはそこまで聞くと、自分の頭を指差した。



「もしその覚悟がないのなら、こんな頭にしたりしてないですから。それに、私の心臓はとうに捧げてます。もしかして、壁外行く人全員にこの様に団長自ら参加の是非を聞いて回ってるんですか?」

「そうか、そうだな。私は、少し疲れてるのかもしれんな」



何を考えているのか、いまいち読めない人……

私はただ、自分のやるべきことを果たすだけ

なのに、彼の青い瞳を見ているとツラいことばかり思い出す。
それに加えて、先日演技で交わした深い口づけの記憶もチラつき始めて、居てもたってもいられなくなった。



「じゃ、私今から髪切ってもらいに行きます」

「―――アサギ」



エルヴィンの横をすり抜けて廊下に踏み出した時、背後から呼び止められ、足を止める。

エルヴィン団長は、"彼"じゃない

そんなこと頭では分かってるのに、その背格好、その目、その髪の色が彼の面影と重なる。
この誤作動する自分の感覚に抗うように、アサギは振り向かないまま小さく「何でしょうか」と答えた。



「この間は……すまなかった。迷惑かけたな」

「いえ、上司の身を護衛するのも仕事ですから。では失礼しますね」



成る程、その一言を言うためにここへ来たのね

そう……エルヴィン団長は何も悪くない

これは私の中だけの問題

冷たい態度をとってしまったことに申し訳無く思いながら、その場を早足で立ち去った。


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