確あるもの
何がどうして彼と付き合い始めたのだろうか。海子は目まぐるしい日々の中、全く連絡を取れていない恋人を思った。
時は年度末。海子が所属する九番隊では瀞霊廷通信のみならず、入隊式に配布する冊子、年度始めのみに紹介される各隊隊員名簿等の作成に終われていた。
海子の担当は瀞霊廷通信では阿散井、吉良。同期のよしみだぞ!と鬼気迫る眼で檜佐木に指名されたのは三ヶ月前。入隊式の冊子では隊における自室の規律と大霊書回廊の使い方と技術開発局の通販購入登録証。そして、一、三、五、七番隊の名簿作成。
「また阿散井、やらかした…。誰かぁ!地獄蝶。回廊の使い方なんてどっかに貼っときゃいいのに」
海子は執務室の角に配置した机で呻いた。海子の机は正面、右隣りが壁になっている。そのせいか、立ててある本の上には壁に寄り掛かるように寝かされた本や書類の山。檜佐木には目を逸らされた。
「海子さん!」
「なぁに…。誰か七番隊に行ける?」
「実は十二番隊の名簿を」
「お願いされません」
机に突っ伏する海子。朝は綺麗に結われた髪がざんばら状態。海子に声をかけた隊員もまた、目の下に隈をこさえていた。
「じゃあ七番隊行ける?」
「……松本副隊長が」
「逃げたか」
「はぁ」
「わかった…。んなら、一、三の名簿は上がったから回して」
「ありがとうございます……」
海子はどうにか体を起こした。まるで使い込んだ床を踏み締めたような軋みを感じる。もう、疲れたよ……。
「海子」
十二番隊の隊員名簿を入れるための封筒を手にした海子。そこへ副隊長の檜佐木が副官室から出てきた。隈は濃い。
「お前な、壁をメモ貼りに使うなよ」
「はいー」
「十二番隊に行くなら頼むわ。修羅場明けで現世なんだが、義骸をな」
「するってぇと、暫く戻れませんよ」
建て付けの悪い引き出しから吉良特製の栄養剤を引っ張り出す。九番隊で編集を任されるようになってからは、随分と世話になっている。ラベルには『檜佐木さんと海子さんへ』とある。
キリキリと瓶の蓋を捻り、檜佐木の手に当たり前のように載せる。
「阿散井はすぐ来るみたいだから、校正はやっておく。少し気晴らしだ」
「ありがとうございます」
深緑の瓶に髑髏のラベルも着いた栄養剤。すぐに空にした檜佐木はやんわりと諭した。
「暫く会ってねぇだろ」
「職権濫用ですよ」
「たまにはいいだろ」
けらけらと笑う檜佐木。早くいけいけと手で海子を追い立てた。海子は檜佐木を睨んだが、いまいち形にはならなかった。
顔ゆるんでんなぁ。檜佐木はくたびれた死魄装の海子がよろよろと戸口に向かう姿に苦笑した。俺も彼女欲しいぜ……。
「義骸ねぇ。ちょっと待ってろ。鵯州ー」
座ってろ。阿近は海子に手で示すと鵯州と連絡を取った。
久しぶりにきた阿近の研究室。汚くはないが綺麗でもない。ただただ雑然とモノが置いてある。そのせいか、与えられた広い筈の部屋は幾分、狭く感じられる。
「ん、悪いな。鵯州に檜佐木副隊長の義骸は頼んだからな」
「はぁ。ありがとうございます」
「気のない返事だな。まだ修羅場だろ」
油うってて良いのか?そう言いたいのであろう阿近。海子は檜佐木の命だからと長椅子に体を委ねた。今頃、執務室は原稿が飛び交ってるんだろうなぁ……。
「海子、休みはあるのか?」
「阿近さんは?」
「取ろうと思えば取れる」
「取らないのは休む気がないから?」
「そういうことだ」
広い執務机から離れた阿近。海子は何となく隣を空けた。
しかし阿近は海子の隣ではなく、一回り小さな作業机に向かった。海子は少しむくれた。隣来るんじゃないの…。阿近が必然的に自分に背を向けていることにホッと胸を撫で下ろした。
「コレ。いくつ要る?」
ガチャカチャと陶器がぶつかり合う音。なに?と頭だけを長椅子の背に預ける。視界は反転した。
「阿近さん印のきびだんご」
「だんごじゃない」
「一箱分頂きます」
「引き落としな」
「ケチ」
一向に振り返らない阿近。海子は諦めて、体を元に戻した。机に向かってばかりの仕事をしていた海子。僅かな時間でも無理な姿勢は辛かった。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
充電出来たかな……。特に何を話すでもない二人。それでも海子は阿近と同じ空間に居られることが嬉しかった。
久しぶりだもの。阿近の匂いではなく薬品の匂いばかりが鼻につくのも気にはならない。
「海子」
「ん…?あ…」
膝に抱えた栄養剤がガチャカチャと音を鳴らす。同時に視界が遮られた。ついさっきまで向かいの棚にあったホルマリン漬けは消えた。
「あこんさん?」
「ん?たまにはな」
気にはならなかったけど…。やっぱり阿近さんの匂いがいいな…。
背中に回された腕。視界に広がる白衣。頭上で感じる穏やかな息遣い。その全てが海子を満たす。
「海子」
「なんですか?」
「充電出来たか」
「勿論!」
海子が声を弾ませた。阿近は腕の中で笑う海子に頬が緩んだ。悪くねぇな。
阿近も阿近で久しぶりに海子と顔を合わせることが出来て、心底嬉しい。機会を設けた檜佐木に感謝もしていた。
邪魔くせぇなぁ。檜佐木と海子を思い、手渡した栄養剤たち。海子と自分の間に鎮座するそれらをほんの少しだけ、憎らしく思う。
充電出来たか、じゃねぇよ。海子が勿論!と腕の中でギュッとしがみつく。充電したかったのは俺の方だったんだし、と阿近は海子の頭上でくつりと笑った。
「行くね」
「行ってこい」
何それ?と笑う海子。手には栄養剤。死魄装には微かに阿近の香り。
戻るべき場所は九番隊だろうが。阿近は足取り軽く部屋を出た海子を見送る。
思わず出た見送りの言葉に珍しく、恥ずかしさを覚えていた。そして、何がきっかけだったか?と海子の出会いを思い返していた。書類の山が崩れた時、やっと我に返るのだ。
「ありがとよ」
「こちらこそ」
阿近印の栄養剤を手渡しす海子。案の定、執務室では原稿が飛び交っていた。
頭を抱える同期に飴を渡し、問題解決に手を貸す。必要な資料があれば山から探し出す。
「ありがと、海子」
「少し抜けたからね。これはやっとくからさ」
隙見て休憩!と同期の背を叩く。思いのほか良い音がした。同期は恨めしそうに海子から貰った飴をかみ砕いた。
七番隊の名簿は代わりの隊員が仕上げたらしく、訂正のチェックを残すのみ。その旨が書かれた付箋に感謝し、阿散井に再度、地獄蝶を送る。
右手の小指側の側面は真っ黒だ。ここに来て海子は思い出した。身嗜みもそのままに阿近の研究室を訪れていたのだ。しまったなぁ……!ざんばら髪を乱暴に纏めて、書類で扇ぐ。
こんな自分でも嫌な顔をせず、そっと抱きしめてくれた。研究室、編集執務室に篭ることの多さを分かっている。海子はそんな阿近に感謝した。
フラリと副官室から出て来た檜佐木。がしがしと頭をかき、空いてる椅子に座った。墨の匂いが強い。
「どうだった?」
「癒しですね、阿近さんは」
「阿近さんがねぇ。ま、恋人ってんなら癒しだな」
「副隊長、彼女は?」
「いねぇよ!」
まあまぁ。と自分から話題を振っておきながらなおざりな海子。檜佐木は倦怠感が増したような気がした。
「では阿近さん印のです」
「飲む飲む」
「どうぞどうぞ」
吉良とはまた違う効能を持つ阿近の栄養剤。これにも世話になっている。ゴリゴリと凝り固まった肩をその小さな瓶で解しつつ、辺りを見渡す。
もう暫くの辛抱だな。日番谷に泣きついた松本の担当は二人の登場に狂喜乱舞。結局、日番谷隊長なんだよなぁ。どうにもならないってか…。それでも外せないのやはり、彼女のコーナーが人気だからだ。
「阿散井がまだ、と。檜佐木副隊長どうしましょう」
「しょうがねぇな」
ツイと目の前を横切った地獄蝶。阿散井の声が震えている。仕事に実直真面目が故、と海子も分かっている。しかし、それはそれ。これはこれ。とは言え…。少し減らそうか…。海子は阿散井用のレイアウト表を新しく取り出した。
海子が屈み、机の下からいくつかのレイアウト表を挟んだファイルを取り出す。その海子から香る見知った匂いに檜佐木は気付いた。
俺なら浮ついちまうけどなぁっと、副隊長にあるまじき軽さだぜ。
もしも自分に恋人の香が移ったならば。仕事の原動力になるか…微妙なところだ。
檜佐木は阿近印の栄養剤を煽ると阿散井を呼び出した。海子の代わりにシバく!口の中に残る清涼感が目を覚ます。
「海子、檜佐木さんから呼び出し…」
「こっちですよー、阿散井副隊長」
「阿散井!」
後日。阿近は妙に窶れた阿散井から愚痴を聞かされた上に、檜佐木たちにと用意した栄養剤も巻き上げられた。
「阿近さんのは効くからって教えてあげたの」
「そうかそうか。次回の分が少なくなんぞ」
「今度は修羅場前に充電するし」
当たり前のように隣で笑う海子に阿近は、あぁそうかと口を緩めた。
海子の当たり前、がきっかけだわな
良いことあったの?と下から覗きこむ海子の頭を押しやる。すると、簡単に抜けてすぐさま腕に顔を寄せる海子。
阿近にとってこの瞬間が幸せなのだ。
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