【甘噛みというには深く、痕を残すには浅く】前編


◇渡部朋幸side




 頬を切る風は、春先だというのに凍えるような冷たさを含んでいる。風除けの意味も込め、目の前の背中に抱きつけば、バイクを運転する恋人――龍が、微かに笑う気配。

 今年の春、学園を卒業した龍はそのまま付属の大学へと進んだ。

 互いに忙しく、また、立地の問題から滅多に顔を合わせることもなくなったのだが、顔に似合わずなにかとまめな恋人は、暇を見ては電話をかけてきたりメールを送ったりしてくる。

 こちらも短いなりに返信していたので、内容からだいたいのスケジュールを把握されていたらしい。

“今日は暇なんだろ。昼過ぎに迎えに行く。外泊届けを出しとけ”というメールが届いてから数時間後、龍は通学に使っているというバイクに乗って学園に現れた。

 どこに行くのか、という問いには答えてもらえず、バイクの背に乗ること数時間。目的の場所に着く頃には、龍の腰に回していた腕は完全に痺れきっていた。

「ほら、着いたぞ」

 バイクが停まったのは、海沿いの駐車場だった。海水浴のシーズンではないため、観光客の姿はない。

 少しばかり気の早いサーファーたちが数名、寒さにも負けず波乗りを楽しんでいるくらいだった。

「ここは……?」

「海だ」

「いや、見ればわかるって。じゃなくて、どうしてここに来たんだ?」

 今日は特別な記念日でもなければ、どちらかが海が好きだというわけでもない。デートというには少しばかり遠出しすぎであり、なんらかの理由があるのではと疑問に思うのも当然だった。

「……海にいる夢を見たんだよ」

「夢?」

「そう。その時の夕焼けが妙にきれいで、お前と見たいって思ったんだ」

 俺は思わず言葉を詰まらせた。こちらを見る龍の顔があまりにも穏やかで。幸せなのだと、全身で告げられたような気持ちになった。

「それに、ここから見る夕日は格別なんだよ。今日は一日晴れるみたいだし、思い立ったら吉日っていうだろ?」

「……だったら、せめて行き先くらい言えよ」

「驚かせたかったんだよ」

 びっくりしただろ、と龍はからかうように言う。いきなりこんな場所に連れて来られたら、誰だって驚きもする。ふて腐れ気味に視線を海へ向ければ、ちょうど太陽が水平線に沈み始めたところだった。

 バイクを降りたあたりでは、空はまだ薄く色付いている程度だった。たった数分の間に、それは思わず息を呑んでしまうほど美しい光景に変わっていた。

 雲一つない空は茜色に染まり、その中を宝石のような太陽がゆっくりと沈んでいく。

 まるで心に染みるような一時だった。

「――来てよかっただろ」

 背後から抱き締めるように回された手に、俺は素直に頷いていた。また、微かに笑う気配。でも、耳元をくすぐる声には明らかな欲情の色が滲んでいて。

「ホテルを予約してある」

「……それは、予想通り」

 外泊届けを出しとけ、という文字を見た時から確信はあった。というか、絶対に口には出さないが、俺だって体は健全な男子高校生だ。溜まるものだってある。久し振りに触れ合う恋人を前に、我慢などできるはずもない。

「この近くなんだろうな?」

「五分で着く」

 甘えるように体をすり寄せれば、相手の呻く声。直後に響いたバイクのエンジン音に、俺は思わず吹き出した。

 さっさと乗れとばかりに差し出されたヘルメットを受け取り、バイクの後ろに跨がる頃には、先ほどの感動はきれいさっぱり吹き飛んでいた。うん。そんなもんだよな、男なんて。


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