彼女はいつも海を見ていた。
揺れる黒髪の横顔が、窓辺でその瞳に波を映すのを見た。
泣きそうな背中が、砂浜でしゃがみこんでいるのを見た。
僕は小さい頃から見馴れたこの潮臭い水溜まりに飽き飽きしていたけれど、何時しか彼女を通して眺めていた。
それは不思議な感覚だった。
隣で一緒に佇むような、錯覚。
臆病な僕は、それを錯覚のまま終わらせてしまったけれど。それでも。
「海が好き?」
思い切って問うた時の、少しばかり見開かれた瞳。暫し沈黙のあと、ゆっくり瞬いたそれは、優しく僕を見つめた。
「好き」
主語を省いた答えとはいえ勿論何のことかわかるけれど、その二文字がまるで、自分に宛てられたもののように感じどぎまぎした。
「あなたは?」
「…好き」
君が。
逆に問われた僕の頭の中は、問いの主旨とは別の答えをしていたのに、勿論表に出せなくて、クスクス笑った彼女に柄になく赤面しただけだった。
今でも、切り取られたかのようにそのシーンは鮮やかだ。
彼女と交わした会話はそれだけで、時は過ぎた。
卒業して、彼女はどこかへ引っ越した。
僕は未だこの地で、彼女によって見る習慣がついてしまった海を見ている。
あの日泣いていた背中の影の記憶を見ている。
「海が好き?」
鮮やかに残る声がよりはっきりと耳に届いた。
記憶はついに幻聴を生んだようだと思ったが、それはいつかの僕の質問では無かったか?
長い黒髪が、視界の端で揺れた。
そして僕は、いつか彼女がしたように、目を見開いてそして、瞬き。
ふっと笑みが漏れる。
「好き」
勿論、今でも君が。