夢か、現か、 | ナノ
 強い風がテマリのすぐ真横をザアッと大きな音を立てて駆け抜けた。
 反射的にぎゅっと目を瞑り、砂埃から瞳を守る。木々のざわめきが息を潜め頬に触れる風が穏やかになった頃、ようやくテマリは目を開いた。そして、目を見張った。
 最初にテマリが認識したことは『薄暗い』だった。
 右、左、後方と首を巡らせ状況を把握してみる。どこを見ても木、木、木。立派な樹木がそこらじゅうに蔓延っている。
 上を見上げればのびのびと木々が枝先を伸ばしており、空は見えない。
 葉や枝の隙間からキラキラと陽の光が溢れていた。なんだか夜空に瞬く星たちみたいだ。昼間だというのに薄暗いのはここが木々が生い茂る森の中だったからか。
 テマリは諦めたように爪先にため息を落とした。

 そこは、テマリの知らない場所だった。
 気付いたらこんな薄暗い森の中にひとりで佇んでいたのだ。
 いつの間にやら誰かに不意を突かれて幻術でもかけられてしまったのだろうか。
 ひとつの懸念が頭を過る。試しに幻術返しを試みるが景色は当たり前のようにただ目の前にあり続けた。どうやら幻術ではないらしい。
「はぁ」
 また、ため息をひとつ落とす。
 つい先ほどまでのことを思い起こす。そしてここへきて三度目のため息を吐いた。
「本当に、踏んだり蹴ったり、だな……」
 涙声で天を仰ぐと、やはりそこには空はなかった。
 テマリが落胆するのも仕方なかった。なにせ、シカマルとのデートは実に半年振りだったのだ。
 お互い仕事が忙しく、なかなか時間が作れなかった。そんな中、ようやく仕事が落ち着いたからと半年振りにシカマルからデートに誘われて、テマリは寝る間も惜しんで仕事を片付けて遥々木ノ葉へやってきたのだ。
 それなのに。

 何なんだいったい。私が何をしたっていうんだ。せっかく久しぶりのデートだったというのに。気恥ずかしさを押し殺し、珍しく女らしい格好をして、少しだけ化粧もしたというのに、これでは台無しだ。

 苛立ちがぶり返し、テマリは足元に生える草をぶちぶちと千切りおもむろに宙へと投げた。
 千切られた葉は風に吹かれ、どこかへ飛んでいってしまう。いつもなら気にならないことだというのに、そんな些細なことにすら苛立ってしまう。 
「……シカマルの馬鹿」
 ぽつりとそう漏らし、その場に膝を抱えてうずくまると目尻に涙が滲んだ。
 テマリは滅多なことがない限り涙を流さない女だった。しかし年々涙脆くなりつつあるのかもしれない、と膝を濡らしながら思う。
 滅多なことがない限り涙を流さないテマリだが、殊更、シカマルに関してだけは涙腺が緩かった。それでも徹底して彼の前では涙を流さないようにしていたのは彼女の性格がそうさせた。好いている相手だからとて、弱味は握られたくないのだ。
 だが今日は我慢の限界だった。
 ぎり、と奥歯を食いしばる。
 久しぶりに訪れた木ノ葉。相変わらず彼は大門でテマリのことを待ってくれていた。それまではよかったのだ。いつも通りの彼だった。
 しかし、久しぶりだな、と声をかけるとぶっきらぼうに彼は「おう」とだけ言い、さっさと踵を返して歩き出してしまったのだ。
 久しぶりに会ったから照れたのか? と首をかしげながら彼の後を慌てて着いていく。きっと、この緊張感のあるぎこちない空気もそのうち慣れて、前みたいに自然と和やかな空気へと変わるだろう。
 そう思っていたのに、昼食を取っていても、テマリがお気に入りの甘味屋で団子を食していても、彼のお気に入りの場所で食休みをしながらぼんやりと空を見ていても、その空気は全く変わることはなかった。
 テマリが話しかけても「ああ」とか「そうだな」とか「ふうん」とか。そんな生返事ばかり。上の空で視線すら合わせようとしない上に、眉間に皺を寄せてずっと仏頂面。
 何か気に触るようなことでもしてしまったのだろうか。不安は募り、いつしかそれは苛立ちに変わった。
 ふたり肩を並べて街中をぶらぶらと歩いていたとき、とうとうテマリの怒りが爆発した。
「お前、さっきからなんなんだ」
 女にしては低めの声が更に低くなる。少年と言われてもおかしくはないその声にシカマルは面倒くさそうに頭をかきながら振り返った。
「はぁ? なんのことだ」
「その態度のことだ。今朝からなんなんだ。言いたいことがあるならハッキリ言え」
「別になんでもねーよ」
 ふたりの視線が合わせられる前にまたシカマルはふいっと視線を逸らしてしまった。何がなんでもないというのだ。馬鹿。
「なんでもないってことはないだろう。上の空だし、生返事だし、仏頂面だし!」
 声は次第に大きくなる。街中の人通りの多い道のど真ん中で立ち止まって言い合いを始めるふたりに、人々はなんだなんだと視線をよこした。
 そんな視線すら苛立ちの種にしかならない。
「あーそうだったか? 悪かったな」
「全然悪いって思ってないじゃないか! 私がなにかしたっていうのか!」
「ああ、もう。めんどくせーな! なんでもねえって言ってんだろ!」
 とうとうシカマルの語気までもが強くなった。
 賑やかな通りが一瞬しん、と静まり返る。
「そうか……」
 ふるふると握った拳が震える。下唇を噛み締め、一度俯くと、とても惨めな気分になった。
 デートを楽しみにしていたのは、私だけだったのか、と。私だけが、彼のことを好きだったのか、と。
 そう思ったらもう止められなかった。
 キッと宿敵を前にしたときのようにテマリはシカマルを睨みつけ、ギクリと身を強張らせ、息を飲むシカマルの左頬に思い切り拳を打ち込んだ。
 彼の体は後方へと吹き飛び、尻もちをついた。左頬を抑えながら呆然とこちらを見つめている彼の瞳は動揺していた。ゆらゆらと黒い瞳が揺れている。
「シカマルの馬鹿! もうお前なんか知らん!」
 そう投げつけるように言った瞬間、涙が溢れ、こぼれ落ちた。
 彼を殴りつけて痛む手の甲で乱暴に涙を拭い、テマリは駆け出した。なんだか随分前にもこんなことがあったな、とどこか冷静な頭の片隅で思いながら。

 そして今に至る。
 大通りをひた走り、小さな路地に逃げ込んだ。何度か角を曲がった気がする。確か飲食店や民家が立ち並ぶ狭い路地裏だったはずだ。それなのに、テマリは気付けばこんな鬱蒼と木が生い茂る森の中にいた。
「はぁ」
 我ながららしくない、湿っぽいため息だなと思った。
 随分と涙は引いてきたが一瞬でも気を緩めばすぐにぼろぼろと溢れてくるであろう。
 さすがに、あんな大通りで殴ってしまったのは悪かったな、なんて腫れぼったい目を擦りながらほんの少しだけ反省していると、ガサリと近くの草むらが揺れる音がした。
 びくりと肩を跳ねさせ、臨戦態勢に入る。大扇は持って来ていないから、仕込んでいたクナイを掴み、音がした草むらの方をじっと睨む。
 息を殺してじっと様子を伺い気配を探る。獣の匂いではない。人だ。
 ガサガサと草むらをかき分け、暗がりの中、とうとうその人物の顔が認識出来るほど近づいたところで、テマリは息を飲んだ。

「シカク、殿?」
「あ?」
 そこには、シカマルの父親であるシカクがいた。
 待て、シカク殿はあの戦争で亡くなられたはず。それでは誰かが彼に化けているのではないか。
 それに、よく見てみると顔に傷がない。ということはシカクではない、別の人物。
 咄嗟に落としそうになったクナイをもう一度構える。
「誰だ」
 低く唸るような声で吐き捨てる。
 戦闘態勢に入っているテマリに対し、その男もまた身構えた。しかし、男はすぐさまその態勢を崩した。テマリの顔を見つめながら黒い瞳を大きく見開いている。
「……お前、テマリ、か?」
 その声はとても聞き覚えのあるものだった。
 テマリが今、最も聞きたくない、胸を焦がしてやまない人の、声。
「まさかお前……シカマル!?」
 口をぽっかり開け、唖然と彼を見つめる。彼はガシガシと頭を掻きながら「そうだ」と頷いた。
 お互いこの状況に動揺していた。
 自分の知らないシカマルの姿に心臓が跳ねる。
 背はとうに追い越されているが、目の前の彼は更に背が高く、筋肉に厚みが増しているように見受けられる。年齢を重ねた大人の男の顔つきはどこか色っぽく、テマリの胸をざわつかせた。
「いったいどうなってんだ?」
「知るか。私は気づいたらここにいたんだ。ここはどこなんだ?」
 臨戦態勢を解き、テマリは胸の前で両手を組んでうるさい心臓の音を抑え込もうと躍起になった。
「……ここは奈良家の森だ。お前、随分とまた若返ったな」
「奈良家の森? って待て、若返るもなにも、私は二十三だぞ」
「二十三!?」
 シカマルはぎょっと目を剥いた。
 その驚きようにテマリはびくりと肩を跳ねさせる。なぜそんなに驚くのだ。訝しげに彼を見つめていると彼は「あー」だの「うー」だの呻きながら頭を抱えた。
「何が起きてるのかさっぱりわかんねーが、タイムスリップでもしたんじゃねえの」
「はあ? 随分と非現実的なことを言うな」
「それしか考えらんねえだろ。オレは今三十二だぞ」
 きょとり。訝しげに細められていたテマリの緑色の瞳が丸くなる。
「三十二……? ああ、でも、それならその見た目にも納得がつく、か」
 摩訶不思議な出来事に動揺は冷めやらぬが、もともと頭の回転が良いふたりだ。徐々に状況は掴めてきた。
「まあそれか、お互い白昼夢でも見てんじゃねえの。とりあえず、家にでも来いよ。……その腫れた目、冷やさねえとな」
 シカマルのカサついた無骨な指先がすいっと、テマリの眦を撫でた。
 カッと頬が熱くなる。先ほどまで自分がめそめそと泣いていたことをすっかり忘れていた。 
 先ほどまで泣いていたせいか瞼は腫れぼったく重たい。
 泣き腫らした顔を見られるのはとても屈辱的だというのに、とくとくと胸が高鳴ってしまうのはどうしてだろうか。いつも見ている彼の姿よりもずっとずっと大人な彼だからかもしれない。
 こんな薄暗い場所だというのによく見ているなと思う。これもまた大人の余裕なのだろうか。テマリの知る彼と年を重ねた彼を心の中でこっそり比べながら、テマリは頭を振って彼の指先から逃れた。
 素直じゃないテマリの反応に、シカマルは苦笑を漏らし、ぽんぽんと彼女の頭を二度軽く叩いたのだった。

 彼の後をついて歩き、森を抜けると彼の自宅の離れだという場所にたどり着いた。
 人ひとり住むのには丁度良い広さのその離れの中へと入ると薬品の香りがテマリの鼻腔をくすぐった。
 あらかた、薬品の調合に使われる場所なのかもしれない。そんなところに自分が入っても良いのだろうかと心配になり、テマリはつい、とシカマルを見上げるが彼は心配するなとでも言うように微笑み、頭を撫でてきた。
 また頬が熱くなる。子供扱いをされているようで唇をとがらせると彼はますます笑みを深めた。
 先ほどから心臓がうるさくてかなわない。なぜだろう。彼の前だと自然と子供っぽくなってしまうのは。
「そこ、座ってろ」
 シカマルは縁側にテマリを座らせるよう言うと、部屋の奥へと入って行ってしまった。ぼんやりと風に揺れる木々の枝先を眺めていると彼は水で濡らした冷たいタオルとお茶の入った湯呑み茶碗をふたつ持って戻ってきた。
「これで目、冷やせ」
「……すまない、気を遣わせて」
「珍しくしおらしい上に素直だな」
 くつくつと喉で笑う彼を一睨みし、受け取ったタオルをまぶたに押し当てる。泣きはらして熱を持ったそこにはその冷たさが酷く心地よかった。
「んで? どうした、若いオレと喧嘩でもしたのか?」
「……うるさい」
 図星を衝かれ、忘れていたかった街中での口論を思い出してしまう。押し当てたタオルにジワリと目に浮かんだ涙が染み込んでいく。
「あー悪い。泣くなって」
 大きな掌がテマリの頭を自身の方へ引き寄せ、やさしく抱きしめられたかと思えば幼子をあやすように頭を叩かれる。
 テマリは息を飲み身を強張らせた。こんな風にシカマルに触れられたことなどなかったから。
 熱を持った身体と高鳴る鼓動がこの男が好きだと思い知らせてくる。
 でも、なんで。なんであいつはこの男のように自分に触れてこようとしない。好きだと言ってくれない。
 初めてデートに誘われたあの日、テマリはとても期待していた。シカマルの中にも自分と同じ気持ちが存在するのだと。
 視線ひとつ、仕草ひとつに彼が自分のことを好いていることは薄々勘付いている。けれども、彼は一向に確かな言葉や行動を起こさない。いつまでたっても、今までの延長戦。デートとは名ばかりのものにしか思えなかった。それでもよかった。この平和な世で彼の隣にいられたら。
 だが、もうダメだった。ダメになってしまった。テマリは欲深くなったのだ。
 自分はもう良い年だ。立場的のせいもあるが縁談だって日に日に増えてきている。その縁談の話が舞い込んでくるたび、欲深さと焦りの狭間でテマリは耳を塞いでしまいたくなるのだ。
 それに加え、ここ最近ずっとシカマルと会えていなかった。会えていない間、テマリの胸中には不安が孕み徐々に膨れ上がって心を重たくした。
 もしかしたら、もう彼は自分のことなど好きではなくなってしまったのかもしれない。だからあんな態度を取られたのかもしれない。じゃあなんで好きでもないのにデートになんか誘ったりしたんだ。わからない。あいつのことが。
 そんな風にぐるぐる悩んで、女々しく悩む自分に苛立ち、爆発してしまった。もう身動きが取れない。何もわからない。苦しくて誰かに縋りたくてたまらなかった。
「なんで」
「ん?」
 ぽそりとテマリは彼の父親そっくりに育った愛しい男の腕の中で声を漏らした。
 シカマルであって、テマリの知らないシカマル。けれどもときめきを覚えてしまうのは、やっぱりシカマルだから。
「なんであいつは、お前みたいに私にこうしてくれないんだ……」
「……」
 ぐすりと鼻を鳴らして、テマリはぎゅっとシカマルに抱きついた。彼は黙ってテマリの頭を撫で、ひとつ唸った。
「そうだなあ……。ガキ、なんだろうなあ」
「……そんなことはわかっている」
「テマリが思う以上に、あの頃のオレはアンタのことが好きすぎて、大事にしたくて戸惑ってんだよ」
 もぞりと胸に埋めていた顔を上げると優しげに愛おしげに細められた真っ黒な黒曜石のような瞳と目があった。たまに、テマリの知っているシカマルが自分に向ける目ととても似ていた。
「ガキのオレも、頭だけはやけに回る癖してアンタのことになると頭回んねえやつだったからな」
 彼はその昔を懐かしむように語る。本当にそうだったのだろう。
「アンタを不安にさせて泣かせて、駄目な男だよな。悪いな。あの頃のオレ、大人ぶってかっこつけようと必死になってたんだ。少しは多めに見てやってくれ」
 くしゃりと苦笑を漏らす彼についテマリもくすりと笑みを漏らす。好きすぎてあんな態度をとるだなんて、そんなまさかという思いがまだ強い。けれども、こんな風に言われてしまったら信じてしまいたくなる。
「……ヘタレだな」
「ははっ。本当、ヘタレだよなあ」
 笑う彼につられるようにしてテマリもまた笑った。心の中で「本当に、めんどくせーやつだ」と呟きながら。

「でもよ」
 ひとしきり
 笑いあうと、不意にシカマルの目が真剣なものへと変わる。その代わりようにテマリの胸はどきりと跳ねた。
「今も昔も、オレはアンタしかいねえってことはわかってくれ」
 肩を掴まれ、その熱いぐらいの眼差しに溶けてしまいそうになる。
 ああ、どうしよう。キスしたい。この男に奪われてしまいたい。
 テマリの女の部分がそう告げる。
 瞳を潤ませ、テマリはこくりと小さく頷き、瞼を閉じた。
 彼が息を飲む。
 さわさわと庭に生えた木々が風に揺れ音を立てている。
 男の手がするりとテマリの耳の後ろを撫でた。
「んっ」
 ぴくりと身体が跳ねる。心臓がはやくはやくと彼を急かしている。
 何かが近づいてくるのが気配で察せられ、テマリはひときわ強く目を閉じた。
 ――ふにゅり。
 唇に予想と違った感触。
 驚いて瞼を持ち上げると苦笑を浮かべたシカマルがいた。
「んっ!」
 無理矢理唇をこじ開けられ、口の中に何かを入れられる。噛んでみると、テマリの好物である甘栗だった。
 もぐもぐと咀嚼し、飲み込み、テマリは顔を真っ赤にしながらきっと彼を睨みつけた。
「おい!」
「美味いだろ? 昔っから好きだもんなあ。甘栗甘のそれ」
「はぐらかすな!」
 期待して強請るようなことをしたテマリはそれをはぐらかされて恥ずかしくてたまらない。これも大人の余裕というやつなのか。悔しくてたまらない。
「悪い悪い。そう怒るなって」
 くつくつと喉奥でおかしそうに笑いながら、なだめようとする男に、テマリは頬を膨らませる。しかしすぐにそれがまた子供っぽい仕草だと思ってやめた。
 シカマルは眦を下げながらそっとテマリの唇を親指で撫でた。ぴたりと身動きを止め、目を見張る。
「初めてはこんなおっさんじゃなくて、やっぱ昔のオレにさせてくれ。な?」
 あんまりにもかっこよく微笑むその男に、テマリはただ真っ赤になってこくこくと頷くことしかできなかった。

 すると唐突にテマリに睡魔が襲った。
 ぐらりと歪む視界に瞼を開けていられない。少し驚いた様子の彼は咄嗟に傾くテマリの体を抱きとめる。だめだ、眠い。まだ話したいことがあったというのに。
 しかし、思考は睡魔に飲み込まれてしまう。
 テマリが意識を失う瞬間、愛しい人の声が聞こえた。
「おやすみ、テマリ」
 それはとてもとても幸せと愛しさに溢れた男の声だった。
 テマリもまたありがとう、と夢うつつの中つぶやいた。
 額に触れたやわらかな感触は、あいつには黙っておこう。



「テマリ、テマリ!!」
 ぼんやりと霞む視界に飛び込んできたのは焦りに満ちた表情をする泣きそうな顔をしたシカマルだった。テマリのよく知る、泣き虫くんの方の。
「しか、まる?」
「ああ、体大丈夫か?」
 きょとりとテマリは瞳を丸め、ゆっくりと体を起こすとシカマルが背に腕を回して手伝ってくれた。別段なんら体に異常があるように思えない。むしろ頭がスッキリしているぐらいだった。
 ぐるりと物珍しく室内を見回してみると、そこはテマリの知らない部屋だった。本棚があって、床の隅の方には将棋盤と駒が点々と散らばっている。窓の外はもうすっかり暗くなっており、月明かりだけが室内を照らしていた。
「……大丈夫、だが……ここは?」
「俺ん家。アンタ、あの後倒れたんだよ。サクラに診てもらったら寝不足で疲れてるだけだっていうんで、俺ん家連れてきた」
「ああ、なるほど。寝不足だったからかな」
 合点がいき、軽く頷く。
「体調悪いんだったら先に言ってくれ……こっちが死ぬかと思った」
「すまなかった……母君にも礼を言わねばな」
「いいってそんなの」
 不意に静寂が二人の間に降りる。
 未だ、あの言い合いが尾を引いているせいか、少し気まずい。シカマルも眉間に皺を寄せて険しい顔をしている。泣いてはいないが目がかすかに潤んでいるところをみると、余程自分のことを心配してくれていたのだろうことがわかった。じんわりとあたたかな風がテマリの心に吹く。
 こんな気持ちはどこかで味わった。どこだろう。そうだ夢だ。何年も先の、大人になったこの男に抱いたのだ。あれは本当に夢だったのだろうか、小首を傾げながらテマリは懐かしむように額に触れた。
「浮気」
 ぽつり。テマリはつぶやく。
「は?」
「浮気、しちゃった」
 涙目だったシカマルの目が大きく見開かれたかと思うや、すぐにそれは怪訝な顔つきに変わった。
 自分の言葉ひとつで顔色を変える、そんな彼にくすりと笑みが漏れた。
 なんだ、こんなに私のことが好きだってサイン、送ってくれていたじゃないか。いったい何を心配していたんだか。私もまだまだガキだな。
 笑みが自嘲のものに変わり、テマリはシカマルの首に腕を回して抱きついた。
「なっ」
 真っ赤になった彼にまた微笑みかけると彼の顔はますます赤くなる。
『大人ぶってかっこつけようと必死になってたんだ。少しは多めに見てやってくれ』
 何年も先。未来の彼がそう苦笑を漏らしながらも楽しそうにそう言っていたことを思い出す。
 もう少しだけ、こいつを信じて待つのも良いかもしれない。不安は拭いきれないが、それでも良い。普段は飄々としている癖に、自分の一挙一動でこんなにもころころと表情を変えてくれるなんて今のうちだけかもしれないから。
 なら、今を楽しむまでだ。
「浮気って……どういうことだよ」
 顔を真っ赤にさせながら忌々しげにそう言うシカマルにテマリはくすりと笑みをこぼした。
 そして、彼のピアスのついた耳元へ唇を寄せる。

「夢の中で、な」

 口の中には未だ甘栗の味が残っていた。



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