小説 | ナノ
黄昏時の魔法

 西の空に浮かんでいたまるい夕日がもうすぐ海に浸かる。
 江の生まれ育った岩鳶の海は青く、透明で、美しい。その海に茜色の夕日がとぷりと浸かりだすと、幼い頃によく目を輝かせて覗いていた万華鏡のように、ほんの数刻経つだけでさまざまな表情を見せてくれる。
 今日もそんな美しい黄昏時がやってきていた。鰯雲の上に濃藍から桃色へとグラデーションが乗っかっていて、秋の空だなあと頭の片隅で思いながら江はプールから駆けだした。夕日の茜と同じ色をした彼女の高い位置に括られた長い髪がぱさぱさと華奢な背にぶつかり、びょんびょんと宙を跳ねていた。
 その髪と同じテンポでドキドキと心臓が忙しなく高鳴っているのは、この美しい夕暮れのせいでも、走っているせいでもない。運動が苦手なくせに正門まで走ってしまうのも、ただ帰るだけなのにこんなに胸がときめくのも、人によっては些細なことじゃないかと思うかもしれない。けれど、江にとってはそんな些細なことがとても重大だった。
(待ち合わせの時間少し過ぎちゃった……絶対待たせちゃってるよなあ)
 プールから正門まで真っすぐに伸びる遊歩道を駆け抜ける。道の左右に植えられた木々がほんのりと黄色や赤に色を変え始めているのが視界の端に映った。
 正門まであと少し。そこできっと待っているであろう人物を想像して、口元に笑みを浮かべる。
 しかし、にやにやしてる姿を誰かに見られて後々からかわれるのは嫌だと思い、慌てて頬の裏側を噛んで笑みを殺した。なにより、彼にだらしない顔を見られて笑われるのも恥ずかしかった。
 人気のない正門に寄りかかるようにして立っている大きな背を見つけ、結局江は満面の笑みを浮かべたのだった。

 夏が始まる少し前。しとしとと鬱陶しい程に長く続いた梅雨がようやく明けた頃、ふたりは一年間各々の胸の中で育ててきた恋を実らせた。
 付き合い始めは、ふたりきりになると目を合わせることすら恥ずかしくてたまらなかった。部活中はテンポ良く弾む会話もぎくしゃくしてしまい上手くいかない。
 週に一、二回だけのふたりだけの時間。ふたりきりになれるのは、事前に約束をした帰り道だけだった。その基調な時間を何度自分の爪先を見てやり過ごしてきただろうか。
 もう付き合って数ヶ月が経つというのに、未だにふたりの距離がゼロになったことはない。手を繋ぐことさえ出来ず、ただぽつりぽつりと近況報告やら世間話やらをしながら自身の砂で汚れた爪先を見つめて駅まで歩く。
 江だって、年頃の女の子だ。せっかくの好きな人とふたりきりの帰り道なのだから、手を繋ぎたいしもっとたくさん話をして自分の知らない彼を知りたい。キスがしたい。
 ああしたい、こうしたいという願望は次第に溢れ、コップの縁ぎりぎり。もうこぼれ落ちてしまいそうだというのに、行動にできない自分が情けなくて。駅まで送ってくれた真琴と別れる度に唇を噛み締めて涙を耐える。
 真琴との関係に進展がないのは自分の頑張りが足りないせいかもしれない。もしかしたら、本当はもうこの関係に飽き飽きしていて、江のことなど好きじゃないのかもしれない。ただ彼はやさしいから江に合わせてくれているだけなのかもしれない。
 後ろ向きな考えが細い針となりちくちくと江の胸を刺す。小さな傷だ。しかし、その小さな傷口は何度も抉られ、化膿してぐじゅぐじゅになってしまっていた。
 そんな時、足踏みしてばかりのふたりの関係を進ませてくれたのが今日みたいな美しい夕暮れだった。


「真琴せんぱーい!」
 夕日の朱が真琴のアッシュブラウンの髪をキラキラと輝かせている。江に名前を呼ばれたその男は、振り返ると江に人懐っこい笑顔を向けた。
 はぁっはぁっ、と荒くなった息を整えている間、彼は手に持っていた参考書をリュックの中に慌てて仕舞い込む。夏が過ぎ、水泳部を引退した彼は他の三年生と同じようによく参考書を手にしていることが多くなった。大学受験を控えているのだから当たり前のことなのだが、その姿を見かけると江の胸は切なく鳴いた。それは、もうすぐ彼がどこか遠くに行ってしまうという現実を、何度も確認させられているようでつらいから。じくじくと痛む心臓を悟られぬように注意しながら胸元を手で抑えて俯くと、首筋を這うような彼の甘い声が江の名前を呼んだ。
「江ちゃん、お疲れ様」
「真琴先輩も、お勉強お疲れ様です。すみません、待たせてしまったようで……」
 俯いていた顔をあげると、彼はへらりと笑って眉尻を下げた。
「ううん。そんなに待ってないよ。なにも、走ってこなくてもよかったのに。転んだら痛いのは江ちゃんだよ?」
 心配しているのか、からかっているのかわからない口調でそう言いながら真琴は軽く笑い声をたてた。
 その笑みだけで、先ほどまで痛みを訴えていた胸が、今度はきゅうっと愛しさで鳴く。
 彼の前だと、本人も驚く程心臓が冷静でいてくれない。彼の表情、言葉、行動だけで喜怒哀楽がころころと簡単に切り替えられてしまうことが、少し悔しい。だが、こんな風に彼に振り回される自身の心臓は嫌いじゃなかった。
 いつもならむくれてそっぽを向いてしまう江だが、今日は久しぶりに一緒に帰れる日だからちょっとぐらい素直になってみるのもいいだろうと思って、羞恥を振り切って頬を薔薇色に染めながら長い睫毛を伏せた。
「いえ……その……」
 真琴の足下に落とした視線を右に、左に。そして躊躇いがちに彼の垂れ目へと移す。

「先輩に早く会いたかったので……」

 言葉尻を濁して、すぐに視線を真琴の足下へと落とした。ああ、言ってしまった。恥ずかしい。引かれてないかな?
 頬だけでなく首も耳も真っ赤にさせた江は彼の表情を窺おうと、再度、恐る恐る上目で彼の顔を盗み見た。盗み見たら、すぐさままた視線を逸らしてしまおうと思っていたのに、そうできなかったのは夕日の赤に照らされていたとしてもそれと違うとわかるぐらい彼が顔を真っ赤にして固まっていたからだ。
 くすりと笑って「俺も早く江ちゃんに会いたかったよ」とか言い出すだろうと思っていたのに。予想外の反応にぽかんと口を開けて彼の顔をまじまじと凝視してしまう。ふたりして真っ赤になって、暫し見つめ合う姿はとても間抜けだっただろう。しかしその時のふたりには自身の心臓の音と潮騒しか聞こえていなかったし、互いを見ることで必死で、いくら生徒が少ない時間帯であっても周りの目を気にする余裕は微塵もなかった。

 先に意識を取り戻したのは真琴だった。
 真琴は自身よりもひとまわり以上違う江の細い手首を掴んだ。砂糖が溶けたような甘く瞳を細めて彼は微笑む。ドキリと胸が高鳴った。彼が今から何を言おうとしているのかは、江にもすぐにわかった。
 今までふたりきりで過ごしてきた時間から知り得た彼の癖や言動から、遙ほどとは言えぬが、少しだけ彼が何をしたいか、何を言いたいか読み取れるようになっていた。
 それになにより、今日はあの日みたいな美しい夕暮れだ。表情から彼の心中を読み取らなくても容易く察することが出来る。今日みたいな日はいつだって、同じように甘やかなふたりきりの時間を過ごしてきたのだから。
「江ちゃん、少し海辺歩かない?」
「――はい。今日はとても晴れてるから、絶対夕暮れが綺麗ですよね」
 かさついた大きな手が手首を離し、するりと江の指に絡める。温もりを確かめ合うように握られた手にぎゅ、と力を込めると、彼も同じように握り返してくれた。
 すぐ側にある駅とは反対方面の海へと、ふたりは一秒一秒を楽しむようにゆっくりと歩き出した。

 ◆

 繋いだ手に力を入れる。入れた力より少しだけ強い力で握り返される。江が二歩足を進めると、真琴は一歩足を進める。
 ザザンッ、ザザンッ、と寄せては返す波の音を聞きながらふたりは靴と靴下を脱ぎ捨て波打ち際を歩いていた。
 日が沈むまでの一時間。それがふたりきりでいれるタイムリミットだ。
 ふたりの関係が滞っていた時、この夕焼けを見て簡単の息を漏らした江を見た真琴は「海、行こっか」と江を誘った。
 彼は今までまるで当たり前にしてきたことのように江の手を握った。海辺を歩きながら、抱きしめられた。好きだと呟いて、キスをしてくれた。散々江は進展がなくて悩んでいたというのに、彼はその日一度に江が欲しかったものを全てくれたのだ。
 なんでもっと早くそうしてくれなかったのだ、とひとつ文句を言ってやりたくもなったが、それらは全てうれし涙となってこぼれおちただけとなった。
 それからふたりは、海へ寄り道をする度に恋人らしい甘いひと時を過ごすようになった。だから、今日も、きっと彼はいつもと同じようにこの大切なふたりだけの時間をたっぷりと使って、江を甘やかし、どろどろに溶かし、愛を囁くのだろう。
 江はそれを期待していた。

「江ちゃん」
 ちゃぷちゃぷと爪先で波を蹴って遊んでいると、真琴が熱っぽい声音で名前を呼んだ。
「はい、なんですかまこ……っ!」
 振り返ったと同時に繋がれていた手を引かれ、そのまま真琴の逞しい胸へ抱き寄せられる。
 小さくが綺麗な形の耳を江は彼の左胸に押し当てると、トクトクと速い鼓動が聞こえ、江の胸も同じ速さになろうとテンポを上げた。
 潮の匂いと真琴の匂いが鼻孔をくすぐり、安心感に浸かる。幼い頃は、兄の匂いに安心していた。でも今は、真琴の匂いが一番安心する。こんなことを兄に言ったら、拗ねて三日は口を聞いてくれなくなるだろうから、絶対に言えないけれど。そんなことを思って江はくすりとこぼした笑みを隠すように真琴の胸に顔を擦り付けるように埋めた。
「ね、江ちゃん」
 そんな時、真琴のやわらかな声が頭に振ってきた。胸から少しだけ顔をあげると、彼はふたつの新緑を細めていた。ここまで歩んで来たスピードと同じくらいゆっくりな手つきで、頭を撫でられ、心地良さに目を細める。
 この後、どうされるかなど思考する前に身体が覚えていた。
 そのまま江は目を瞑ると、数秒の間を置いて、やわらかなものが唇に触れた。
 ちゅ、とリップ音を立ててすぐに離されたと思ったら、今度は噛み付くようなキスが振ってくる。いつものキスより、少しだけ荒っぽいそれを真琴のシャツを掴んで耐えた。
 上唇を舐められ、恐る恐る唇を開けると、ぬるりとした舌が咥内を舐め回す。
「んっ」
 つるつるとした小さな歯を一本ずつ数えるように舐められ、恥ずかしさに全身が熱くなる。
 腰に回されていた手がつう、と尾てい骨撫でる。突然の刺激に、ぞくぞくと背筋を微弱な電流のような快楽が駆け上がった。その快楽にふるりと身体を震わせていると、歯の本数を数え終えたのか、真琴の舌が頬の裏を舐め上げた。
(あ、だめ、つかまっちゃう……)
 そしてとうとう、彼の舌に触れないように喉の方へと引っ込めていた舌を捕らえられてしまった。
「んうっ、んっ、ふぅっ」
「はっ、ごう、」
「んんっ……」
 舌先と舌先を擦り合わせたかと思えば一息に舌全体を彼の咥内に含まれ、じゅるじゅると厭らしい音を立てて吸われる。ふたりきりだけど、いつ誰に見られるかわからない。緊張感がふたりの興奮を増幅させた。
 お腹の辺りに固いものが当たっていることに気付き、ビクリと腰が跳ねる。つい意識してしまい腰を引こうとすると、腰に回っている彼の腕が逃がさないとでも言うように更に引き寄せられ、彼のそれを腹部に擦り付けられてしまう。
(ここじゃ、だめ、だめ……っ)
 酸素が足りなくて頭がくらくらする。もう限界だと真琴の胸を叩くと、彼は名残惜しそうに吸われ過ぎて赤く熟れてしまった唇を最後にぺろりと舐め、ようやく離れていった。
「は、はぁっ」
「江ちゃん、真っ赤」
「……真琴先輩のせいです」
「うん。ごめんね」
 ぐりぐり。微笑みながら熱を持ったままの固いそれをお腹に押し付けられ、下っ腹がきゅん、と切なく鳴いた。
「ね、江ちゃん、お願いがあるんだけど……」
「駄目です」
 熱っぽい目で見つめられ、つい絆されてしまいそうになる。しかし、その惚れた弱みを振り切って、彼のお願いを聞く前に江はキツくそう言った。
 駄目なものは駄目なのだ。学校の近くの、こんな開けた場所でそんなこと出来るはずがない。
「ええっ!? 酷いよ、江ちゃん……俺、もうこんなになっちゃってるんだけど」
「ひゃっ」
 手を掴まれ、熱く上を向いている彼のそこへ手を導かれビクリと肩を竦ませる。
 どうしよう、下着、絶対濡らしちゃってる。
「でも……」
「ね、江ちゃん、お願い」
 熱っぽい視線に熱っぽい声音が頑な理性を壊そうとしてくる。
 返事が出来ない間、真琴は必死に腰を撫でたり、額や眦、頬に唇を落として江のご機嫌を窺っている。耳に唇を寄せられ、吐息が鼓膜を揺さぶられ、とうとう江は鳴き声ともうめき声ともつかない声を漏らした。
「う〜〜っ」
 ズボン越しに触れている彼のそれが掌に擦り付けられるようにずりずりと腰を動かされてしまう。もう我慢の限界だった。恥ずかしい。欲しい。でも、駄目。
「駄目ったら駄目ですー!」
 羞恥の限界を突破してしまった江は身体を引き離そうと無理矢理後ろへ下がった。だが、それが仇となった。

「きゃあっ」
「江ちゃん!?」
 バシャーンッ!
 静かな海に盛大な水音が立つ。水しぶきが真琴の制服のシャツを濡らした。
「だ、大丈夫江ちゃん!?」
 後ろに下がったことにより、砂に足を取られた江は、まんまと浅瀬で尻餅をついて転んだのだ。
 足首までしか濡れていなかったはずなのに、その一瞬で全身がびしょ濡れ。ぽたぽたと前髪から水が滴り、水面に波紋を生んでいた。呆然とその様子を見ていると、慌てて真琴が江の脇に手を差し込み、助け起こしてくれた。
 ザパリと水から上がると、スカートからぼたぼたと水が垂れた。
「江ちゃん、江ちゃん? 本当に大丈夫?」
「ふふ、あははっ!」
「え、ちょ、江ちゃん!?」
「あははははっ!」
 江は心配する真琴を他所にけたけたと笑い声を上げた。
 ここでしちゃ駄目だと思って、必死にいろいろ我慢して彼から離れたというのに。馬鹿みたい。可笑しい。可笑しくてたまらない。こんなずぶ濡れじゃ、電車に乗れない。それはつまり、ここからそれほど遠くない彼の家に寄らなければならなくなってしまったということだ。もう、何やってるんだろう。これでは彼の思う壷じゃないか。
 一頻り笑って、その波がようやく引くと、江は「真琴先輩」と彼を呼んだ。
 きょとりと瞳を丸めていた彼は、何故か顔を真っ赤にして背筋を正しながら返事をする。
「すみません。ずぶ濡れになっちゃったんで、制服が乾くまで先輩のお家にお邪魔しても良いですか?」
「え、うん。それは……構わないけど……」
 もごもごと口の中で言葉の続きを転がしている真琴に江はくすりと笑みを漏らす。さっきまで獣みたいにがっついてたくせに、いざこんな状況になると顔を赤らめて続きを誘えない彼が可愛くてたまらなかった。

「先輩のお家で、続き、しましょ?」

 いつの日だったか言えなかった言葉はするりと口から滑り落ちた。
 自分から彼を欲すことが出来ずにやきもきした、そんな自分は彼と育んできた時間が変えてくれたのだろう。今なら、素直に言える。
 それは、彼と育んできた時間だけではなく、あの日に似た、とぷりと三分の二は海に浸かってしまった美しい夕日のお陰かもしれない。
(そう言えば、先輩に告白した時も、綺麗な夕暮れだった気がする)
 今更なことを思い出し、こっそり心の中で懐かしいなあと思いながら、江は真琴の腕に抱きついた。



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